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青草俳句会~命のよろこび

結社「青草」 主宰 草深昌子

青草10号

2021年08月26日 | 俳句

  令和3年8月、「青草」10号が発刊されました。 

 いつ収束するとも思われないコロナ禍の影響で、句会の中止を余儀なくされることもありましたが、春には吟行句会を開催することが出来たのは幸いでした。

 このような時節にもかかわらず、青草会員の俳句に対するたゆまない熱意の一部をここに紹介いたします。

 

 

青草往来   草深昌子

 句会ほど楽しいものはない。次々と回ってくる清記用紙はめくるめく絵巻のようである。緊張感のうちに佳き句を選出し得たときの、喜びは大きい。

 折から、女優の吉行和子が日経「私の履歴書」に、句会に嵌まった理由を「終われば解散で、どれだけ貶(けな)されようと、恨みっこなしだ。参加者の肩書や社会的立場を忖度する必要もない」と書き、句会に出るたびに酷評されながら「それでもめげないから偉い」と、おかしな褒められ方をしている、という、このくだりは身に沁みるものであった。

 四十数年昔、初めて俳句の手ほどきを受けたのは、和服姿の美しい植村通草先生であった。拙句に対する選評には、キッとなって「それがどうしたのっ」と手厳しかった。だからこうです、なんて説明しようものならとことん追い詰められた。一方で「ああ、私にはもうこんな句はできないわ」とのけぞって褒めてくださることもあった。四十歳も齢が違ったから、幼稚なる発想に対する驚きであったことをその時は知る由もなく、嬉しさに跳び上がった。全身これ俳句という気魄の先生であった。ある時「俳句の上手な先生はいっぱいいますが、俳句を教えられる人はあまりいませんよ」と言われた。その言葉は、なぜか頭にこびりついて離れなかった。今ならしみじみとよく分かる、選句において、何と真剣なる向き合い方であったろうかと。俳句は謙虚と同時に自負も持ち合わさねばならないのであった。

 過日、高浜虚子著『進むべき俳句の道』の新版を読んだ。岸本尚毅氏の解説もまた一つの読み物となっていて、本書の深みに引き込まれた。虚子のような偉大な読み手のいない俳句の時代が半世紀以上続いているのだという。

 思えば、我が初学の師は飯田蛇笏の高弟であった、命がけともいえる選句は蛇笏ゆずり、ひいては虚子ゆずりのものであったろうことに気付かされている。

 

青山抄     草深昌子

十薬に松の聳ゆる避暑の宿 

椎の花見えてにほはぬ朝ぐもり

草庵に郵便受けやかたつむり  

夜明かしの眼に遠く蓮の花

橋に見て島はそこなる茂りかな  

由比ケ浜七里ケ浜や雲の峰  

お屋敷は涼し風鈴ことのほか

風鈴の鳴つて入母屋造かな 

雲の峰水口あれば堰のあり

玉苗を積みて今来るダットサン

蛾の飛んでここらは富める家ばかり 

早苗取る雲の綺麗な日なりけり

椎の香のどつと大塚凱来たる 

船の腹見えてかすみて簾かな 

箒目に竹の落葉のなきはなき  

鎌倉の小町の辻の草刈女 

卯月野や一つ家族に一と筵    

君が忌の卯の花峠まで来たる

蜘蛛の囲や押売りゆすりお断り  

そのへりに虞美人草や墨田川

紙魚となく黴となくただ形見なる

晩年の襖外せば風とほる

空に虫垂らして五月来たりけり

桜蕊降るや磐石やや斜め

天清和水無川を水流れ

肥溜に屋根しつらへて長閑なり

園丁にとがめられたる鳥の恋

とびきりの友は子規なる土筆かな

坐るとこなければふらここに坐る

川の幅川原の幅の長閑なり

 

芳草集      草深昌子選

 

昼顔や風が運びし浜の砂      佐藤健成

秋の日の大講堂に一人ゐる

装ひの思ひ思ひの街小春

短日や一駅ごとに暮れてゆく

霧深き強羅の宿のランプかな

春光の箔なす海や一望す

下駄履きに通ふ坂道卒業す

     

集まりてぱくつく鯉や水の秋    菊竹典祥

鰯食む骨整然と皿の上

月の夜の橋弁慶の謡かな

筋トレや敬老の日の昼下り

老松を謡ふ白寿や文化の日

着ぶくれてせつせと励む堆肥かな

事もなき我が家の庭や青木の実

 

青草集    草深昌子選

 

秋の日のポルカに靴を鳴らしけり   奥山きよ子

講演のしばし立見の小春かな

自転車のカーブ膨らむ芒原

干し物を取り込む西に山眠る

レッスンの曲の切れ目を冬の鵙

寒明くる鏡の裏に日の充ちて

ひそやかに蜂の来てゐる梅見かな

    

感染のピクトグラムか茎立ちぬ    伊藤欣次

ニン月の無人売場に山の芋

宮古より早やマンゴーの便りかな

癒えし身に垂水のごとく蝉の声

浴衣着て切り絵のやうに佇めり

秋海棠うすくれなゐに雨しづく

黄落や石榴は幹のねぢれのみ

 

秀句集   草深昌子

 

  下駄履きに通ふ坂道卒業す     佐藤健成

 卒業にあたって思うのは、校門までの坂道の急であったこと、それも下駄の音をカランコロンと鳴らしながら通ったことだったなあ、という回想の一句。

 大地を踏みしめて、たかだかと鳴り響かせる下駄の音は、刻苦勉励の日々の郷愁のようでもある。

 さしずめ厚木市には名門厚木高校があって、今もなお坂道を寡黙に通う学生の列が続いている。もとより下駄履きは見かけないが。

 

  干し物を取り込む西に山眠る    奥山きよ子 

 作者の所作を通して捉えられた冬山であるが、西方に大山のある厚木では、多くの人々に「山眠る」の実感をもたらすものではなかろうか。ただ、この句の山は何も大山に限定するものではない、山里の高からぬ山を想像する方がいいだろう。自然を傍観するだけでなく、自身の日常に引き付けて詠いあげたところに、やや西に傾いた冬日の温もりをも感じさせるものである。

                                                                                                      

  事もなき我が家の庭や青木の実    菊竹典祥 

 青木の葉はみどり濃く、実の色は真っ赤である。それほど美しい青木の実でありながら、庭の片隅にひっそりと存在している。そんな青木の実に心を寄せていると、何気なく過ぎゆく日常の有難味がひしと認識されたのである。「事もなき」が出色、その心の背景にコロナ禍の緊張があるのではなかろうか。

 

  感染のピクトグラムか茎立ちぬ   伊藤欣次 

 思わぬ疫禍によってパンデミック、ロックダウン等々、耳慣れぬ言葉にいちいち戦々恐々とした。だが作者はいたって冷静。でなければ、ピクトグラムという絵文字のありようを、まるで感染の拡大を模したかのように眼前の茎立に着地させることはできないであろう。一句は茎立ちを見せながら、新型コロナウイルス感染に寄せる嘆きをも象徴してみせるものである。

 

  転がして選ぶ反物冬座敷      古舘千世                        

 「転がして」、見事な描写である。さあーと展開された反物の模様が目に見えるようではないか、ものを見るとはまさにこのように丁寧に見届けることであった。

 夏座敷ならぬ、「冬座敷」の奥行が広がっている。来たるべきお正月に備えて晴着の選択であろうか、静けさの、冷たさのなかの華やぎはまこと鮮やかである。

                         

  三反の畑は穀雨の黒さかな     間 草蛙

 「穀雨」は二十四節気の一つ、陽暦では四月二十日頃にあたる。雨が百穀を潤し、芽を出させるという意味であって、天文の「春雨」のように実際に雨が降っているわけではない。だが、この句には穀雨という頃の雨の印象が「三反の畑の黒さ」にゆくりなくたっぷりと浸透している。ちなみに一反は学校の体育館ぐらいの広さとすれば、その三倍分、結構広く見渡されるものであろう。 

 

  黒きもの庭走り行く秋の雷     伊藤 波

 雷光に身の竦(すく)む思いでいると、ふと庭を過ぎってゆくものがあるではないか、何ものであったろうか。黒猫であったかもしれない、だが、ここは「黒きもの」と不明のままに詠うことによって、過ぎゆく影を妖しくし、その閃光を際立たせる効果を引き出している。

 稲妻でなく、「秋の雷」と抑えたところもいい。

 

  いつしかに戻る食思や今年米    川北廣子                                       

 秋思というものであろうか、何故か一向に食欲のわかない日々を過ごしていた。そんなある日、故郷から、あるいは地元の産であろうか新米が届いたのである。ふっくらとしかも艶々のご飯をいただくうちにいつしか食べたいという気力が戻ってきたという。これぞ我らが命を養う日本の米というものの有難さである。

「今年米」には、ことのほか今年の収穫への賛辞がこめられているように思われる。

 

  一升餅背負ひ一泣きクリスマス   松井あき子

 一歳の誕生日を祝う一升餅である。これを赤子に背負わせるという、いささかユーモラスな儀式ではあるが、当の赤ん坊にとっては何のことかも分からず大泣きしたのであろう。折しもキリストの誕生を祝祭する日であったというゆかしさ。作者は愛らしいこの子の前途に目を細めているのである。

 

  あたふたと日は沈みたり山眠る   中原初雪

 「あたふたと」何と実感のある措辞であろうか。日の沈み方がアタフタであるのだが、人の世もまたアタフタと沈みゆくがごとくに感じられるものになっている。

 俳句にはこういう「臍」になることばを発見すると、もうそれだけで一句の味わいが深くなる。

 見るからに「冬山惨淡として眠るが如し」である。

 

  梅林の中を走るや青梅線      森田ちとせ

 青梅線は東京都立川駅から東京都西多摩郡奥多摩町の奥多摩駅を結ぶ鉄路である。そしてこの青梅と言えばたちまち梅の花、梅の林を思い浮かべる。

 一句はそのことをそのまま述べたようであるが、中七の「中を走るや」は、そのスピード感もろともに梅の花咲く林を目の当たりにさせる。馥郁たる梅の香りもよぎるようである。

 

  懸巣来て鵯の真似する藪椿     東小薗まさ一

 作者のゆったりとした日常をほのぼのと垣間見る思いである。鵯は大好きな蜜を吸わんとして椿の花を離れない。そこへ懸巣がやってきて、鵯の甲高い声を真似たりする。今や懸巣だか鵯だか、こもごもに囀っている、何といっても鮮やかなのは椿の花の色である。

 

  大根を一本卸し秋刀魚かな     川井さとみ

 脂ののりすぎというほどの秋刀魚であろうか。塩焼きには付き物の大根卸しであるが、なんと一本丸ごと摺り下ろしたという。秋刀魚のおろし煮かもしれない、とまれ最高の秋の味覚である。単刀直入の表現がウマイ。

                        

  数へ日や父と連れ立ち夜の市    堀川一枝

 もうじきお正月がやってくる、その日まで指折り数えて待っている数日間が「数へ日」である。夜の市は年の市と限ることもない、地方それぞれにある独得の夜の市を思い浮かべていいだろう。なにがなし回想めきしなつかしさを湛えて、「数へ日」という季題の人情味をよくうちだしている。

 

  国道の時雨るる先は街の景     市川わこ

 「国道の時雨るる」までは誰彼がいうかもしれない、だが続けてその先を見届け「先は街の景」と言い切った把握の確かさに感嘆する。こう詠われてみてはじめて国道の時雨が臨場感たっぷりに感じられるものである。

 

  つぼみ毛羽立つ寒明の花辛夷    富沢詠司

 寒が開けて立春がやってきた、その日の辛夷の花の蕾を確と見届けたものである。やがて白々とひらき初む蕾が微かにも毛羽立っているということは、春到来の人のよろこびの投影のようでもある 

 

  鎌倉に白波立つや春一番      田中朝子

 余分なことを言わずに簡潔明瞭に、「春一番」の情趣を詠いあげている。春一番の白波は「鎌倉」の風土を見せ、鎌倉の歴史を思わせるものでもある。

                       

  大鍋におでん仕込んで煤払ひ    漆谷たから

 正月の準備の大掃除が煤払であるが、お寺の住職であられる漆谷さんの作と知れば、その大掛かりにして丁寧なる作業のさまが想像されるものである。清めの後のおでんに般若湯はさぞかし乙なる味であろう。

 

  大菊の並ぶ廊下や参観日      神﨑ひで子                       

 万障繰り合わせてのぞんだ参観日、学校の廊下には大菊の鉢がいくつも美しく咲きそろっていたのである。

先生の指導が生徒に行き届いているのであろう。俳人はこんな日の、こんな足元にも、季節の実感を得ているのである。

 

  朗朗と給水塔の初鴉        芳賀秀弥

 「朗朗」がいかにも晴れやかである。俳句に難しい言葉は使わないようにと常々心掛けてはいるものの、例外もあっていい。そして朗朗の初鴉は「給水塔」であればこそのもの、めでたさがゆきわたっている。

 

その他、注目句。

 

ボール蹴る枯野はやがて山の影   中澤翔風

清明やはだしであるく山頭火    鈴木一父

硝子戸に比叡はるかやヒアシンス  二村結季

山吹のひとひら落ちぬ魚籠の中   坂田金太郎

日輪や元朝の身をうち曝し     佐藤昌緒

うす墨の水のうねりや都鳥     山森小径

空港の展望デッキ小春かな     松尾まつを

猿を追ふお役人かな春の山     石原虹子 

山羊笑ふ雀隠れの只中に      栗田白雲 

剥き出しの根のあらあらと冬紅葉  石堂光子   

散りやまぬ紅葉のガラス美術館   平野 翠

江戸城の石の鑿跡冬に入る     加藤洋洋    

早春や土嚢袋に草生えて      黒田珠水    

傘持つか持たぬかけふは芭蕉の忌  湯川桂香 

豆腐屋の甘き空気や冬の朝     木下野風    

魚鼓の腹打たれて白し寺の冬    米林ひろ    

十字路やひと固まりの新社員    渡邉清枝    

山間の二軒を前や稲を干す     日下しょうこ  

大発会飾りの多き鏡餅       長谷川美知江     

寒晴のハンター揃ひのベストかな  泉 いづ  

雲まるで海豚の群や寒明くる    加藤かづ乃  

残月や綿虫ひとつ手に留めて    河野きなこ

 

 

                                                                

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靖国神社みたま祭 献詠俳句入選 2021年7月

2021年08月25日 | 俳句
              
 
    
 
稲畑汀子選
 
  葉桜や双子乗せたる乳母車  松尾まつを
 
 
                             
 
 
 
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2021年8月 青草通信句会   

2021年08月12日 | 俳句

草深昌子特選(順不同)

兼題「中元」

         

 

       中元の草木伸びるや生き生きと     市川わこ

 中元という佳節のありようを、文字通り生き生きと詠いあげました。中七の切れがよかったです。

 

  雷鳴やドクターヘリは飛び立ちぬ     川北廣子

 雷鳴のとどろきをものともせずドクターヘリは出ていきます。頼もしくも救急医療の成功を祈るばかり。

 

       手作りの弥陀仏お座す夏座敷             泉 いづ

 お手製の仏さまとはいいですね。よき暮らしと共にある夏座敷の涼しさが思われます。

       扇風機鉄の文鎮ずらしけり                       いづ

 鉄製の文鎮という重たさのあるものが扇風機の風に滑るように位置を変えていきます。見事な実写です。

 

  木陰より盆の花穂の立ちにけり       神埼ひで子

 たとえば、盆花として欠かせぬ千屈菜でしょうか。花穂が鼠の尾に似ているので、鼠尾草(みそはぎ)ともいいます。木陰は、鮮やかな紅紫色を引き立てます。すっくと立ち上がった茎は、魂迎えの心に適うものです。

 

      白粉花の路地に線路を描く子かな     奥山きよ子

 白粉花というと、すぐに夕暮の子供の情景を思い出します。路地裏の細長さは線路を描くにぴったり、なつかしい光景です。

      中元や軒の触れ合ふ工場より                  きよ子

「軒の触れ合ふ」という描写がすばらしいです。これぞ中元の神髄というところでしょう。

  向日葵の丈を揃えて旧家かな                  きよ子

 向日葵は勢いがあって夏盛んの趣をもたらしますが、その丈が揃っているところにいっそう旧家の貫禄が出ています。「揃へて」

 

  坂ゆるく文学館へ蝉時雨                     山森小径

 蝉時雨は沢山の蝉が一斉に鳴いて、まるで時雨の音のようだというものです。「坂ゆるく」からは息のよく調った歩みが窺えます。蝉と和した人ごころの静けさ。

 

  中元が届き安堵の日を送る           長谷川美知江

 中元の本質を素直に詠いあげられました。中元とはそういうものではあるのですが、このように詠ってこそ認識を新たにします。

 

      中元や長旅となる汽車に乗る            中澤翔風

 故郷への盆礼でしょうか。「長旅となる」丁寧な中七に、待っている人々へ心を寄せる気持ちが引き延ばされます。

 

  中元の長子夜来て朝帰る                   二村結季

 一番上のお子さんはご多忙の中を律儀に挨拶に来られたのでしょう。

 

  あしながを箒で払ふ草むしり      東小薗まさ一

 草取の最中に脚長蜂の襲撃にあったのですね、その奮闘ぶりが中七によく出ています。

 

  中元や足袋の白きを確かめて          松井あき子

 きちんと意義を正したいという気持が、白足袋を意識させるのですね。眼目がいいです。「足袋の真白を確かめて」

 

       

 

草深昌子入選(順不同)

      生バンド鳴る屋上の冷奴                 中澤翔風

 「屋上に鳴る生バンド」ということでしょうか。そしてそこでいただく冷奴がおいしいのでしょうね。

 

       畠ぢゆうの草に生気や夏の果          二村結季

 「畠ぢゆうの草に生気や」は素晴らしいです。「夏の果」とくると、ちょっと気がそがれます。夏の果と同じ頃の時節で、期待のもてるよき季題を考えてみてください。

 

      薄紅の風呂敷を解き御中元           松井あき子

 風呂敷が「薄紅」であること、それだけで心籠りのお中元が文字通りほのぼのと偲ばれるのです。

 

      谷川は底の岩盤水涼し                          間 草蛙

 岩盤が涼しさを引き出します。

「谷川の底は岩盤」、素直に叙した方がより涼しいと思います。"

 

       中元の届くその日の空模様           松尾まつを

 着眼点はいいです。「その日の空模様」は惜しい、こういうときはどんな空模様かはっきり述べた方がいいでしょう。

     新婚の弟子より届くお中元             まつを

 弟子から中元の届くことはままありますが、「新婚」ということが受け手の喜びに繋がっています。

 

     八月や空いつぱいに雲の綿              佐藤昌緒

 中七がいいです、広さが実感できます。

 

     バス二台並んで過ぎる炎暑かな     鈴木一父

 暑いが上にも暑い感覚、それはバス二台に表われています。

 

     ビルの陰不意にひらひら秋の蝶     芳賀秀弥

 春や夏の蝶とは、ちょっと違った秋の蝶がビルの陰によく出ています。「不意に」はひらひらという飛びようが出ていますので省略した方がいいでしょう。

 

     外壁の足場西日に釘を打つ            富沢詠司

 「外壁の足場」と「釘を打つ」が離れていてその間に「西日」が挟まってます、これを整理して西日をはっきりさせたら、もっとよくなるでしょう。      

 

             

 

  中元や花魁草を門に見て       草深昌子

  カウボーイめきたる老の夏帽子

  夜の秋の餡にふくらむ三笠山       

  

 

令和3年8月青草通信句会・選後に         草深昌子

    中国では古くから、正月十五日を上元、七月十五日を中元、十月十五日を下元といい、合わせて三元と称して、佳節として祝う習慣がありました。上元は小正月、中元は小正月から半年の無事を祝い、祖霊をも供養する盂蘭盆と結びついて、わが国に定着したようです。盆礼などをする贈答の習俗が、中元の贈答となり、中元の売り出しも盛んになってきたのでしょう。

   佳節の意を抜きに、いわゆるお中元という句になりますと、個人的なやり取りの報告、説明に終わってしまうようです。

それでも「青草」の皆様のご健吟は素晴らしいものでした。

  そこで、当たり前のようで、読者にしかるべき想像力を誘わせるという、そんな微妙なよろしさの句を、「街」主宰の今井聖氏が高浜虚子の一句をもって見事に鑑賞されていますので、これをもって今回の講評に代えさせていただきます。

 

鑑賞・今井聖               

紙伸ばし水引なほしお中元        高浜虚子

 いまどきのデパート包装のお中元を考えていたものだから、どうして紙は皺になったのか、水引の紐は直さざるを得ない状態になってしまったのかと不思議に思った。運ぶ途中で乱れを生じたと単純に考えればよかった。でも虚子のことだから何かあるなと考えたわけである。これはひょっとしたら人からもらった物を使いまわして誰かに持っていったのかも知れぬ。それなら紙を伸ばし水引をなおす理由があるだろうと。これはきっとそうに違いないと考えて、一晩置いてもう一度この句をみたら、いや、これは単に大切な方にお中元を出すとき失礼のないように整えて出したというだけではないかと思い始めた。つまり日頃の感謝というお中元の本意だ。そう思った途端、自分の想像が恥ずかしくなった。そういう可能性を考えたということは自分の中にそういう気持ちの片鱗があるということだ。ああ、俺はなんてセコイことを考えるんだろうと自己嫌悪に陥ったが、この句、単なる感謝の配慮なら当たり前の季題の本意。どこかで僕の解釈の方が虚子らしいんじゃないかとまだ思っている。  

 

                          

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草深昌子を中心とする句会、選後に 令和3年7月   

2021年08月11日 | 俳句

 草深昌子選

  

 

  七月やこの坂越せば日本海    湯川桂香

 「七月や」、この打ち出しに、「この坂越せば日本海」がピタッと胸に沁み込むようにはりついた。やがて、一句の余韻に日本海が真っ青にひらけるばかり。

 披講後に作者の名告りを聞いてやっぱりと驚かされた。桂香さんは長岡市を故郷とする方である。思えば一句は、作者の素朴かつ情熱的な精神の発露そのものであったのだ、その潔ぎよさ、その意気込みをもって、選者(読者)に特選を採らせしめたというほかない。

 俳句は理屈では分からないものである、その分からないところに魅了されるのである。それにしても、この一句の裏に伏せられてあるものは何であろうか、七月という盆を控えた最も暑い時期の心の動きに何かしらの契機があるのだろう。しばし思いをはせてみたいものである。

  

  明くるまで踊の列のうらがなし  佐藤昌緒

 俳句で「踊」といえば「盆踊」である。 盆に招かれてやってくる亡き先祖の霊を慰め、お送りするために、人々が寄り集まって、踊ったり唄ったりするもの。そこで思い出されるのが、〈いくたびも月にのけぞる踊かな 加藤三七子〉であるが、この句は郡上八幡の踊だとか。

 掲句も、「明くるまで」というからには夜を徹して踊るのであろう。 このような長丁場の踊は、忘我の世界に引き込まれて、やがて死者と生者の区別もつかないような恍惚境におちいっていくのではなかろうか。まこと「うらがなし」である、身に沿ってくるような踊である。

  

  実家とは古きソフアに古団扇  奥山きよ子

 ソフアも団扇も古いということは、そこらにあるものはなべて古いということである。だが、「実家とは」という打ち出しのよろしさであろうか、古いと言いのけながら、何とも落着きのある、黒光りの趣さえ感じられる。

 何より、「古団扇」がいい。「古きソフアに古ダンス」なら、ただの古家である。団扇を持ってきたところに、そこに住む人への思いがこもる。愛情の染み渡った、いぶし銀の実家を心の支えにしていることがよく窺われるものである。

 

   扇風機一番前に陣取って    石野すみれ

 なるほど扇風機とはこういうものであった、と気付かされる。

 団扇でもクーラーでもない、用途に応じてそこに置かれてあるものが扇風機である。先日のワクチンの接種会場にもあったが、例えば講演会でもいいだろう。

 一番前に陣取るのは人の方であるが、言いかえれば扇風機そのもののありようでもある。さりげない中に、肝心のことが見事に言い切られている。

 

   

 

  白靴を下げて早退する子かな   伊藤波

 「白靴」の兼題では、およそ元気溌溂の印象を詠いあげるものが多かったが、掲句の意外性は一段と鮮やかに白靴を見せるものである。一体どういう理由で、早退するのであろうか、何故白靴を下げているのだろうか、一句の中に入りこんで、この子の気持ちのありようまで覗いてみたいような衝動にかられたものである。

 

  青鷺の老尼の如くひもすがら      伊藤波

「鷺」だけでは季語にならないが、「青鷺」は夏の季語。青というほど青くはなく灰色がかった白色で、大きい鷺である。

 このように、ひとところにじっと思案しているような、寸も動かない光景は誰しもが見ているものであるが、この「老尼」という奥深い姿に喩えたところは波さんならではのもの。「如く」という比喩が、よく引き締まっている。

 

   交番にゐる羅の女かな       中原初雪

 「羅」というのは、絽や紗や明石縮みなど上質の絹、あるいは麻などの単衣の和服をいう。

 そこで羅の句と言えば、〈羅や人悲します恋をして 真砂女〉に見るように女性独得の情をにじませる句が多々ある。

 だが掲句は、艶っぽさなど微塵もない交番である。いやそういう場であればこそ引き寄せられた羅なのかもしれない。羅本来のもっている涼しさが引き立っていて、この女は悪女ではなさそうである。

  

  ざざ降りの雨を見てをり心太   澤井みな子

 心太は天草を煮溶かして作った夏向きの甘味である、いや酢醤油や和辛子もあるというから、好みによってさまざまに楽しめるものであろう。

 さて、掲句はざざ降りの雨を見ながらの心太である。葭簀張りの茶屋のような場面であろうか、どこからとなく冷やっこい感覚が立ちのぼってくる。単なる味覚に終わらない、心太の味わいというものを想像させてくれるものである。

  

  白靴や硝子の道は渦の上       石本りょうこ

 「渦の上」とあるからには「硝子の道」は、たとえば鳴門海峡などの渦潮を見るための遊歩道であろうかと思われた。果たして、徳島を故郷とするりょうこさんの作であった。足下に透けて見える渦潮の激しさを思うと、身のすくむ思いであるが、この「白靴」はさすがに落ち着いている、そして清々しさに溢れている。名詞だけで仕上げたところが、すでに涼しい。

 

  

 

   蝉鳴くや井戸にバケツの置きどころ  日下しょう子

   夕立のローズマリーの匂ひかな    末澤みわ

   珈琲の湯気に小蠅や横に飛び     菊地後輪

   青シャツに汗のしみゐる昼日中    加藤洋洋

   寝起きの子髪の毛までも汗みどろ   石堂光子

   強力の戻り荷軽し玉の汗       森田ちとせ

   百人の飯炊く釜や蓮の寺       間 草蛙

 父の日やタッチパネルは儘ならず   山崎得真

   扇風機フル回転のクリニック     田淵ゆり

   草深き昔牛馬の汗の坂        泉いづ

   青柿やぽわんと落ちて川をゆく    川井さとみ

   花氷改札口に触りけり        中澤翔風

   梅雨出水灯す真昼のヘッドライト   山森小径

   石叩き青田を低く渡りけり      河野きなこ

   葛切や大仏殿の薄明り        松井あき子

 

 

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