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青草俳句会~命のよろこび

結社「青草」 主宰 草深昌子

草深昌子を中心とする句会、選後に 令和3年4月          草深昌子選

2021年05月21日 | 俳句

       

         

 

       鴉鳴く山の団地の残花かな      間草蛙

 残花は春も終り頃になって咲き残っている花である。片や「余花」という、山地などで新緑の中にふと咲いている桜もあるが、これは夏の季語。だが似たり寄ったりであって、いかに残花、余花を鮮やかに詠いわけるかということになる。掲句はあまりにもさりげなく詠われているが、まこと残花以外の何物でもないと思われるほど決まっている。

 「鴉鳴く」が言えそうで言えない。よき山の団地の、よき人々の暮らしの日常性が、鴉の声と共に残花の美しさをもって彷彿と立ちあがってくる。上五でやや小休止はあるものの、ひと息に言い切った迷いのない清々しさ。

   作者は俳句を始めて以来、一日一句を欠かさないという。多読多憶にも並々ならぬものがある、それだけに身丈を越えた俳句を作りがちであったが、昨今の実力はこの通り。努力は裏切らないということを、しみじみと教えられるものである。

 

  花満ちて加賀の銘菓の届きたる       川北廣子

   美しい上にも美しい句である。花の満開の折から、加賀の銘菓が届いたというのである。ありのあまを臆せず詠いあげて、何とも幸せ感に満ちている。机上の俳句作りでは、こうはいかない。作者にウソ偽りがないからこそ、読者もまた引きこまれるように花の銘菓を馥郁と味わうものである。

 

     いささかも藤の花房動かざる       佐藤昌緒

  「いささかも」の措辞に引き込まれる。あの綺麗な藤房は風でも吹かせて、幽艶なる藤波を詠いあげたいところ。だが作者は違った、少しも揺れないところに藤の花の美を見出しているのである。この藤の花は何か意志をもったもののようではないか。作者独自のものの見方が大事である。

 

    剥製の尾羽煤けて春の暮       奥山きよ子

    鳥獣類の剥製は博物館などでよく見かける。私も句会場として使用している寺家ふるさと村にある「四季の家」でいつも見ているものである。この剥製を俳句の素材にして、すぐ一句に仕上げるのが俳人である。またかというほどである。だが、掲句では「またか」どころか、素直に納得させられて、その情趣がそのまま伝わってきたものである。                                                                  「春の暮」は、作者の腑に落ちた、直感の季題にちがいない。「俳句は季語で決まり」である。

 

      

 

  画眉鳥のこゑの止まざる藤の花    石堂光子

   画眉鳥は大きな声で鳴く。それも鶯や三光鳥や黄鶲などいろいろの鳥の真似をして囀るのである。もう十年ぐらい前に、生田緑地で聞きとめて以来、毎年緑地に画眉鳥を聞きに行くほど好きになっている。そんな画眉鳥の声がいつまでも鳴きやまない折から、藤の花の盛りを見届けられたのであろう。やがて藤房は、画眉鳥に追い立てられるように衰退してゆくのではなかろうか。               画眉鳥と藤の花はよく照応している、出合いがしらの妙というほかないものである。

 

  長調のモーツアルトや春眠し      中原初雪

   モーツアルトのロンドであろうかソナタであろうか。その長調のピアノ曲は体が浮きたつような軽やかさを覚えるものであるが、作者は何と「春眠し」と言い放った。                                             天才モーツアルトの絢爛たる音色は、愛好者にとって、格別の心地に嵌まってしまう音色であろうことは察しがつく。                                                                                                                 何と言っても上五の「長調の」に真実味がある。「短調」ではこうはいかないのである。

 

         

  

  硝子戸に歪んで見ゆる春の海         加藤洋洋

  鍬洗ふ藁につめたき夕朧           栗田白雲

  逃水や不思議の国の出入口          松井あき子

  桜蕊降る側溝に箒の目           黒田珠水

  春鴨や飛びつつ落とす一と雫      日下しょう子

  猿を追ふお役人かな春の山         石原虹子

  カレンダー春を惜しんで捲りけり    山崎とくしん

  藁の上苺一粒赤くあり              市川わこ

  大山も月も霾中にあり             石野すみれ

  春耕やさらさらさらと中津川         菊竹典祥

  畑中の姉様被り朧なる            鈴木一父

  山並みは音なく膨れ夏近し          末澤みわ

 

 

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青草本部句会 句会報 令和三年 五月十四日(金) 

2021年05月17日 | 俳句

草深昌子選 

兼題「新樹」 席題「青」 

 

    

 

 降る雨に全山枝垂れ新樹かな       泉 いづ

 絹さやのふくらみもたぬ青さかな       いづ

 畑鋤くや雀に鴫に鵯に鳩         湯川桂香

 満水の畷を越ゆる代田かな       河野きなこ

 酒蔵へゆるく下れば今年竹         きなこ

 潮騒のひびく石垣いちごかな      松尾まつを

 ジャージーの生徒駆け来る新樹かな    山森小径

 莢豌豆尻に花つけ実の透ける         小径

 子燕や屋根すれすれに旋回す     長谷川美知江

 薫風や疫病退治の大草鞋          美知江

 ポピー咲くぷいつと殻を脱ぎ捨てて   松井あき子

   子供の日野花片手に来たりけり         鈴木一父

 一瞬に蛾を咥へたる守宮かな        石原虹子

 夏めくや青き帽子の鍔広く         芳賀秀弥

 朴新樹朝には雨の上がりけり          間 草蛙

 

       

 

 天清和水無川を水流れ           草深昌子

 紙魚となく黴となくただ形見なる

 緑陰をひたうつむきて行くは誰

 老犬の堤行き行く田植どき

 卯の花のややも青める峠かな

 

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第24回毎日俳句大賞 佳作入選

2021年05月17日 | 俳句

 小澤實選 佳作

 

   秋風やウッドデッキに鉄の椅子     山森小径

   新涼や高速船の波しぶき        松井あき子

 

俳句あるふあ増刊号・「毎日俳句大賞作句品集」(2021年3年3月14日発行) 所収

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2021年5月 青草通信句会

2021年05月11日 | 俳句

草深昌子選

     

          

 

      窓を打ち枝葉ちぎれて青嵐       市川わこ

 青嵐のもたらす情景が的確に描写されています。すさまじい感じもありながら、壮快なる明るさの風が青嵐なのだと実感させられます。俳句は何と言っても写実が一番です。

 

       薬師寺の樟の巨木の若葉かな      菊竹典祥

 薬師寺の、樟の、巨木の、と「の」を三つ連続して、一と続きに詠いあげ、「若葉かな」と見事に着地しました。韻律のよろしさが印象明瞭を引き出します。

 

       新緑の風や帽子のつば返す             黒田珠水

 颯爽たる一句。シンプルな句、リズムのよき句は口誦して飽きることがありません。作者と共に、新緑の風のよろしさを感受させてもらいましょう。

 

       秒速の十軒長屋の親燕               珠水

 十軒長屋は、一棟に十戸連続した平屋でしょう。その長い庇の距離を、素早く飛んで子のために餌を調達する親の燕の姿です。「秒速の」、省略の是非はありますが、素直に感じ取りました。

 

       筍は助手席にあり坂下る        川井さとみ

 「助手席」もさることながら、「坂下る」が見どころです。                                                  掘り立ての筍でしょうか、出先での頂き物でしょうか、大事な筍が転げ落ちないかと案じつつ、   急(せ)きつつ、ハンドルを切っています。新鮮なる一句です。

 

        眼の高さ変へつつ摘むや莢豌豆        山森小径

 あの支柱にそって高くも低くも、そして裏に表に、さぞかし沢山生っているのでしょう。つやつやの莢豌豆をたっぷり想像させていただきました。実地体験あればこその喜びの一句です。

 

        血の滾る君の弁舌青りんご          松尾まつを

 「血の滾る君の弁舌」、青林檎でこれだけの想像力を働かせ、しかも12音に収れんされたところ見事です。こんな弁舌は若さの特権でしょう、青葡萄の「青」の一文字の抱えもっている何かが凛々しくもかなしく響きます。

 

       旅立の子への眼差し青林檎            佐藤昌緒

 「旅立の子への眼差し」は作者の祈るような強い眼差しに違いありません。それは同時に青林檎そのものの本質のようでもあります。

 

       緩やかに胸元過ぐる揚羽蝶            伊藤 波

 「緩やかに」という打ち出し、「胸元過ぐる」という中七、丁寧に見届けた写実の句です。揚羽蝶は夏の蝶々であるという概念などからは描き切れないものが籠っています。それを情感といいます。

 

       まだ土の湿る筍分け合ひぬ              川北廣子

 「まだ」がいいです。また筍が湿ると言わないで「土の湿る」としたところ臨場感が出ました。友人同士、隣近所同士でしょうか、その収穫の喜びを分かち合います。

 

       祝といふ林檎酸つぱき夏始             神﨑ひで子

 「祝」という青林檎の品種、その味をもって「夏始」の感覚に呼応しました。青林檎という季題をあれこれ考えながらいくつも作っていますと、ふと思わぬ方向に印象が結ばれるというのも兼題の楽しみです。

 

       隣人と程良き距離の垣手入       東小薗まさ一

 中七が効いています。「隣の芝生は青い」というような俗っぽさは微塵もありません。よき関係の垣手入というものは、清々しいものです、その作業も手際よくすすみます。

 

        沈黙や夕日に赤き青りんご        中澤翔風

 「沈黙や」以下は、微妙に輻輳感があって、やっぱり沈黙せざるを得ません。つまり沈黙という硬い言葉が浮いてないのです。助詞「に」も的確です。文字通り、異色の句。

 

       横笛を吹く子と父や夏の空            翔風

 下五で「夏の空」へ大きく展開したことで、常套の景色が清々しいものとなりました。横笛の佳き音色も聞こえそうです。

 

       空を掃くなんじやもんじやの花の寺      二村結季

 俳句の初学時代は季題の何もかもが分からなくて、ただただ季題のオッカケをしていました。なんじゃもんじゃの花などは最たるもので、東大構内で初めて出会った時の感動は忘れられません。今は方々にスポットがあります。この辺りでは成就院でしょうか、掲句は簡潔に詠って読者に想像力を委ねています。

 

お囃子のどこからかしら青林檎       草深昌子

生け垣を伐りに伐りたる薄暑かな

遠足の鳥居くぐれば走りけり

 

        

 

令和3年5月青草通信句会・選後に     草深昌子 

 かつて「青草」の指針として皆様にお勧めしました、三省堂の新歳時記(著者高浜虚子)をお持ちでしょうか。歳時記はさまざまありますが、高浜虚子編のこの歳時記は俳人にとって永遠のベストセラーであります。(一年十二か月、月別になっていますので、「青草」の各句会の兼題はこれにならっています)

 昭和9年の初版以来、増訂を重ねて私の手許にあるのは平成13年増訂68刷です。(稲畑汀子編とお間違えなきように)

 さて、この虚子編には「青林檎」なる季題は掲載されていません。「林檎」は「秋」の季題として載っています。その解説に「林檎は夏食べられる早生種もあるが、普通秋熟する」とあります。水原秋櫻子編には、秋の季題に「林檎」を立て、その傍題に「青林檎」があります。「夏から出始めるのは青林檎である。紅の美しい林檎が出盛るのは秋である」と解説しています。

 その後、角川や講談社による歳時記には「青林檎」は夏の季題としてあがるようになりました。「夏に出荷される早生種の林檎」、つまり青林檎は林檎の品種ということになります。 

 したがって、「青胡桃」「青柿」「青葡萄」「青無花果」などの季題は全て、まだ熟していないという意味の青ですが、青林檎だけは違います。今回、そこを誤解した句がありました。

 虚子編歳時記を主軸に据えて、複数の歳時記を読むことが俳句の勉強に欠かせません。先月にも書きましたように、兼題にぶつかるたびに、その実態を調べることが肝心です。

 季題は季題以外の何かを詠うための道具やアクセサリーではなく、一句の中心、一句の主役です。季題を一句の出発点にして、季題を詠う俳句を楽しんで参りましょう。

 

  青林檎旅情慰むべくもなく      深見けん二

  熱のからだはどこも脈うつ青林檎    飴山 實

  早き瀬に立ちて手渡す青りんご     山本洋子

 

  青林檎は品種だとは言え、どの句からも青春性が香ります。                「青草」の「青林檎」の句々にも、未熟ならざるものがいっぱい溢れていました。 

 

 

 

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俳句の壺エッセイ 2021年5月1日掲載 草深昌子

2021年05月11日 | 俳句

  

 

     第4回 草深昌子(青草)「本当の稽古」

   俳句は句会無しには成り立たない。句会で連衆に「これよし」と認めてもらえてこその一句だと信じている。どうやら私は、俳句が好きというより句会が好きらしい。

   そんな句会は場があってこそ開かれるのだという当たり前に気付かされたのは去年のこと、コロナ禍にあって句会場が全く使用不可となったときである。以来一年数か月を、思いがけず「俳句の壺」という大いなる句会の場を得て、休むことなく句会を満喫させてもらっている。一つは錚々たる俳人仲間との句会。もう一つは私が選者として臨む句会である。

  私が主宰する「青草」のリアル句会では、如何に俳句をよくしていこうかと、丁丁発止とやり合っているが、ネット句会では表情が見えない分、コメントに注意を払っている。いずれにしても、俳句の日々は絶えることなく続いている。

   居乍らにして句会を楽しめるとは、思いもかけなかったことである。すっかり俳句の壺に嵌まっているが、実作がままならないのは何故だろうか。俳句を始めて以来、「犬も歩けば棒に当たる」式で、季語の現場に立つことに疑いはなかった。吟行と句会が一対のものという認識が習い性となっていたのである。だが、それが一転して、座の文学として直々に向き合う句座から、いきなり仮想空間での句座となってしまった。これはある種の文学の変質ではなかろうか、ならば行き詰まって当然 。吟行派、書斎派の別を問うものではないだろう。

   吟行ではものの見方が現象の表層的なところで終わっていたのではないだろうか。一見取るに足らないようなトリビアリズムの句が、妙に心に温もりをもたらすものであったりする。「仮の世界があたかも真の世界の如く我らの頭の中に彷彿されてそれを我らが事実を写生するごとく写生し得る」という教えが身に沁みるようになった。 

   片や、ネット句会に備えて一人吟行をしたところで、締切りという強制がなければ物にならない。顔が見えない、声が聞こえない等々欠点ばかりが思われる。人は新しいことに挑戦することには馴染みにくいものらしい。だが、そのうち慣れてくると、過去に積み重ねてきた吟行のあれこれが、想像力を刺激してくれることに楽しみを覚えはじめたのも事実である。嘱目と兼題、今更ながらこれが俳句であると再認識している。それやこれや、出合いがしらにあらずして、十全の構えでもって一句を仕上げるのは苦闘の連続である。

   また、実作以上に考えさせられるのは選句である。吟行で暴風雨に出会った句会では、大方びしょ濡れの句が選ばれる。後で、参加されなかった人に選を受けると、すっかり乾いている。同じ日を共有する吟行に比べ、そもそも立ち位置の違うネット句会の方が選に於いて冷静かもしれない。だが俳句の出来不出来を別にして、同じ時空をさまようところに句会の醍醐味があることも否定できない。このあたりの匙加減がリアルとバーチャルでは微妙に違ってくる。

   句会では披講によって見直される句があるが、沈黙のネット句会では韻律の是非が見落とされがちである。その弱点を補うべく、パソコンに向かって朗誦することにしている。幸い私の所属するネット句会には虚子に勝るとも劣らない炯眼の選者がいて、その選が全くぶれないのである。そのぶれのなさに、臍を噬むことも多いが、これは又何という幸せであろうか。

   かにかくに、初学から学んできた様々を、この期に及んで考え直すことになったとは我ながらあきれたものであるが、この再考が、コロナ災禍の最大のメリットであった。そこで、「本当の稽古とは人の稽古を見ること」という名役者の言葉が思い出されて、俳句の壺の底に溜った人さまの俳句をじっくりと見る稽古に励んでいる。

   人工知能の進歩によって判断、評価の精度が急速に向上している。囲碁や将棋において最善手を見つけるだけではなく、医療の世界でも画像診断の能力は熟達の医師以上だという。俳句や文学でも過去の名句や名文を読み込ませればAIに評価を委ねるぐらいは訳もないだろう。先年、AIの作った俳句と俳人の俳句を混合したものを、別の俳人が選句するという番組があったが、人間の勝ちであった。逆に人間の俳句をAIが選句するとどういうことになるのであろうか。その巧拙の評価は主観を排斥して正しいものになるといえるであろうか。選句は古来より悩ましいものと相場が決まっている、その悩ましさが俳句の味でもある。

   人間に出来てコンピューターに出来ないものは何か、それは「忘れる」ということだと、外山滋比古はいう。忘れるということにおいて絶大なる能力を発揮する私は胸を張って喜んでいる。こんなミーハーの思い付きだが、AIがあらゆる分野で人間の能力を凌駕する時代になったからには、その力を俳句の内外に利用しても面白いのではなかろうか。俳句という既存の概念や確立された慣習などはぶち壊されるかもしれない、あるいは、かつての戦争において何の影響も受けなかったように悠然としたままかもしれない。AIがディープラーニングで切り拓いてくれるネットの行く末がますます楽しみになってきた。

   腰折れの私が、インターネットという時代の波にゆらゆらさせていただけるのも、このネット句会のおかげである。生きているかぎりは俳句を愛し、俳句に愛されたいと願っている。先ずは「俳句の壺」の蓋を開けよう、さあ、本当の稽古の始まりである。

 

草深昌子
1943年大阪市生まれ。神奈川県厚木市在住。「青草」主宰、「晨」同人、俳人協会会員。句集に『青葡萄』、『邂逅』、『金剛』など。

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