
鴉鳴く山の団地の残花かな 間草蛙
残花は春も終り頃になって咲き残っている花である。片や「余花」という、山地などで新緑の中にふと咲いている桜もあるが、これは夏の季語。だが似たり寄ったりであって、いかに残花、余花を鮮やかに詠いわけるかということになる。掲句はあまりにもさりげなく詠われているが、まこと残花以外の何物でもないと思われるほど決まっている。
「鴉鳴く」が言えそうで言えない。よき山の団地の、よき人々の暮らしの日常性が、鴉の声と共に残花の美しさをもって彷彿と立ちあがってくる。上五でやや小休止はあるものの、ひと息に言い切った迷いのない清々しさ。
作者は俳句を始めて以来、一日一句を欠かさないという。多読多憶にも並々ならぬものがある、それだけに身丈を越えた俳句を作りがちであったが、昨今の実力はこの通り。努力は裏切らないということを、しみじみと教えられるものである。
花満ちて加賀の銘菓の届きたる 川北廣子
美しい上にも美しい句である。花の満開の折から、加賀の銘菓が届いたというのである。ありのあまを臆せず詠いあげて、何とも幸せ感に満ちている。机上の俳句作りでは、こうはいかない。作者にウソ偽りがないからこそ、読者もまた引きこまれるように花の銘菓を馥郁と味わうものである。
いささかも藤の花房動かざる 佐藤昌緒
「いささかも」の措辞に引き込まれる。あの綺麗な藤房は風でも吹かせて、幽艶なる藤波を詠いあげたいところ。だが作者は違った、少しも揺れないところに藤の花の美を見出しているのである。この藤の花は何か意志をもったもののようではないか。作者独自のものの見方が大事である。
剥製の尾羽煤けて春の暮 奥山きよ子
鳥獣類の剥製は博物館などでよく見かける。私も句会場として使用している寺家ふるさと村にある「四季の家」でいつも見ているものである。この剥製を俳句の素材にして、すぐ一句に仕上げるのが俳人である。またかというほどである。だが、掲句では「またか」どころか、素直に納得させられて、その情趣がそのまま伝わってきたものである。 「春の暮」は、作者の腑に落ちた、直感の季題にちがいない。「俳句は季語で決まり」である。

画眉鳥のこゑの止まざる藤の花 石堂光子
画眉鳥は大きな声で鳴く。それも鶯や三光鳥や黄鶲などいろいろの鳥の真似をして囀るのである。もう十年ぐらい前に、生田緑地で聞きとめて以来、毎年緑地に画眉鳥を聞きに行くほど好きになっている。そんな画眉鳥の声がいつまでも鳴きやまない折から、藤の花の盛りを見届けられたのであろう。やがて藤房は、画眉鳥に追い立てられるように衰退してゆくのではなかろうか。 画眉鳥と藤の花はよく照応している、出合いがしらの妙というほかないものである。
長調のモーツアルトや春眠し 中原初雪
モーツアルトのロンドであろうかソナタであろうか。その長調のピアノ曲は体が浮きたつような軽やかさを覚えるものであるが、作者は何と「春眠し」と言い放った。 天才モーツアルトの絢爛たる音色は、愛好者にとって、格別の心地に嵌まってしまう音色であろうことは察しがつく。 何と言っても上五の「長調の」に真実味がある。「短調」ではこうはいかないのである。

硝子戸に歪んで見ゆる春の海 加藤洋洋
鍬洗ふ藁につめたき夕朧 栗田白雲
逃水や不思議の国の出入口 松井あき子
桜蕊降る側溝に箒の目 黒田珠水
春鴨や飛びつつ落とす一と雫 日下しょう子
猿を追ふお役人かな春の山 石原虹子
カレンダー春を惜しんで捲りけり 山崎とくしん
藁の上苺一粒赤くあり 市川わこ
大山も月も霾中にあり 石野すみれ
春耕やさらさらさらと中津川 菊竹典祥
畑中の姉様被り朧なる 鈴木一父
山並みは音なく膨れ夏近し 末澤みわ










