草深昌子選

蔵の前その一本の棗の実 川井さとみ
青草中央吟行会が古民家山十邸で開催された折の一句。
山十邸は神奈川県愛甲郡愛川町にあって、明治初期の豪農の邸宅である。
薬医門をくぐると入母屋造りの母屋があり、その横手には大きな白い蔵が建っている。
蔵の前には棗の木が八方に根方を広げて空高く伸びあがっている。
見上げるほどに熟れきったその実は赤く、一粒口にすると甘酸っぱい味が沁み入った。
見たままの、ぶっきらぼうの表出のようではあるが、山十邸でなくてもどこの蔵でもいい、
読者に同じような情景を思い起こさせるものとなっている。
私には「その一本の」に、「私、この木大好き、この実大好き」という作者の思い入れがこもっているようで頼もしい。
任されて下枝一枝松手入 さとみ
「松手入れ」の兼題では大方が庭師や園丁の手際を詠みこんだが、これは松手入は不慣れながら、この下の方のひと枝ぐらいなら試してみましょう、という仕上がりになっている。
もとより作者自身であっても、新米の庭師であってもいい。
晩秋の日は暖かき句会かな 間草蛙
これも先の青草吟行会の句である。
この通りとしか言いようのない、何の目敏さもない句ではあるが、文字通りしみじみと暖かな思いが立ち昇ってくる。
果たして自身が、このように素直に、その日その時にあたって、その感興を一句に乗せることが出来るであろうか。
「棗の実」の句と同様、ここには作者の「幹事のお働きがよくて、本当にいい句会ですねえ」というお礼の気持がこもっているのである。
思い返せば吟行に出ると、初学時代には必ずといっていいほど「吟行や」あるいは「句会かな」が出た。
選者は折角ですから、この5音には、今日の吟行で見たもの、聞いたもの等を書き込みましょう等と言ったものである。
なのに、今回は◎特選である。
かにかくに俳句というものは理論通りにはいかない。
マルもバツもさまざまの体験を経て、草蛙さんは今や重鎮の貫禄とでもいうような句を出されたことに感じ入っている。
ホスピスのラジオ体操鵙日和 石本りょうこ
高い梢に止まって、鋭い声をあげる鵙の声は、いかにも秋の季節そのもの感があって爽やかである。
そんな鵙のよく鳴く、よき日和のなかにあって、ラジオ体操が始まった。
それもホスピスという広やかな心を思わせる施設でのことである。
鵙の声はただ鋭いばかりではない、その大いなる勢い、その明るさは人々のラジオ体操の手足の先々にまで元気を与えてくれているようである。
この句も無駄な言葉がなく、ただそこにある景色をそのまま一句に乗せられただけである。
虚飾なき一句は、読者が思い思いにその光景を思い浮かべ、同時に何かしらの感慨をもたらすものとなっている。
鵙鳴くやサザンビーチは露地の先 奥山きよ子
サザンビーチと聞くさえなつかしいものがある。
歌の流行に詳しくはないが、かのサザンオールスターズの桑田佳祐、その出身の茅ヶ崎を思い出さずにはおれない。
記憶はあいまいであるほうが、思い起こそうという作用が働いて楽しい、そんなサザンビーチがこの露地の先にあるなんて、作者もまたヘエーッって思わずにっこりなさったのではないだろうか。
この時の鵙の弾みはまるで桑田さんのそれのように響いたことだろう。

岩風呂のランプの灯ちちろ虫 森田ちとせ
ちちろ虫、そう蟋蟀の声が、まさにチチロチチロとでも聞こえてきそうな一句である。
あまり体験のない岩風呂ながら、また近年まれなるランプの灯ながら、いささかあわれなる秋の夜の趣をもたらしてあまりある虫の音である。
岩に取り囲まれた、いや岩そのものの凹がそのまま温泉となっているのか、何れにしても 作者の実体験がなければ醸し出せない虫の声のよき余韻を引いている。
ポケットに入れて犬の子冬隣 湯川桂香
一読愛らしいと思う。手のひらにあたたかくもやさしい子犬の毛触りが心地よい。
そこまでは誰しもが体験を呼び覚まして共鳴するのであるが、すかさず「冬隣」という作者自身の実感もっておさえたところが素晴らしい。
読者もまた「冬隣」という季題の持ち味に納得してやまないものがある。
今という時を感じることが、やがて来たるべき時を思うことに繋がっていくのである。
それにしても冬の隣にいるという、まるで人の隣りにというような「冬隣」、季語そのもののセンスが妙である。
酢橘めし仄かに色のありにけり 小宮からす
徳島を郷里とする句会のお仲間に「酢橘」のお裾分けをいただいた。
酢橘は何に搾っても風味抜群で、私もお汁にお菜にふんだんに楽しませていただいた。
だが、作者は、ネットのレシピ参考に酢橘めしたるものをお作りになったのだ。
人さまに物をいただいたら、このように喜び、このように美味しかったことをご挨拶句として出すのが礼儀であった。
入会されたばかりのからすさんは全身全霊でもって俳句に打ちこんでおられる。
その姿を拝見していると「初心忘るべからず」と叱咤される思いである。
露寒の小鳩をつつく鴉かな 中原初雪
「露寒」は「露寒し」とも言って、露が霜に変る頃に感じる時節の寒さである。
折から、いたいけな鳩のところに横柄な鴉がやってきたというのであろう。
眼前に見た光景をもって露寒を詠いあげたものであるが、ここにも作者の心象がよく籠っている。
俳句は「見たまま」というが、何を見るか、どこをどう見るかは作者その人の物の見方にゆだねられている。
屋根越えて空たかだかと秋の蝶 山崎得真
立秋を過ぎるとかの春の「蝶」は「秋の蝶」と呼ばれるが特別な種類ではなく、方々で親しく見かける蝶である。観念的には、春や夏の蝶に比べてどこかしら弱々しい秋の蝶ではあるが、実際にはなかなかどうして掲句の通り、元気溌溂である。
蝶々は蝶々としてその命あるかぎりを精一杯生きて、いや飛んで見せてくれているのである。
俳句は「ありのままに」とはまさにこの通りである。
命と言えば、私たち人間も、また蝶々も森羅万象にあって、ただただ「命ひとつ」に生かされているのである。
秋の蝶をこのように詠いあげたときの作者のはればれとした顔が見えるようである。

唐紙の大きな穴や秋の暮 石原虹子
後の月畑に二葉の出そろひて 山森小径
目ぱっちり肉食系の鵙美人 永瀬なつき
青すだち瀬戸の朝湯を香るかな 平野 翠
紅葉山鼓膜ぴきつとなりにけり 松井あき子
野路菊のかぼそき茎や花たわわ 加藤かづ乃
水飛沫上がる流れや初紅葉 石堂光子
浅海でありし地層や鵙の贄 日下しょう子
尻餅に甘藷はなさぬ畑の子 二村結季
家に入れば衝立の龍目を剥けり 伊藤欣次
ホールまで打ち寄せさうな秋の波 菊地後輪
天高し歩幅広げて通院す 関野瑛子
秋天や羽を窄めて鳶の二羽 佐藤昌緒
乗り継ぎの三番線や走り蕎麦 中澤翔風
秋麗や屈めば鯉の裏返り 伊藤 波
秋晴や植物園は坂の上 田中朝子

蔵の前その一本の棗の実 川井さとみ
青草中央吟行会が古民家山十邸で開催された折の一句。
山十邸は神奈川県愛甲郡愛川町にあって、明治初期の豪農の邸宅である。
薬医門をくぐると入母屋造りの母屋があり、その横手には大きな白い蔵が建っている。
蔵の前には棗の木が八方に根方を広げて空高く伸びあがっている。
見上げるほどに熟れきったその実は赤く、一粒口にすると甘酸っぱい味が沁み入った。
見たままの、ぶっきらぼうの表出のようではあるが、山十邸でなくてもどこの蔵でもいい、
読者に同じような情景を思い起こさせるものとなっている。
私には「その一本の」に、「私、この木大好き、この実大好き」という作者の思い入れがこもっているようで頼もしい。
任されて下枝一枝松手入 さとみ
「松手入れ」の兼題では大方が庭師や園丁の手際を詠みこんだが、これは松手入は不慣れながら、この下の方のひと枝ぐらいなら試してみましょう、という仕上がりになっている。
もとより作者自身であっても、新米の庭師であってもいい。
晩秋の日は暖かき句会かな 間草蛙
これも先の青草吟行会の句である。
この通りとしか言いようのない、何の目敏さもない句ではあるが、文字通りしみじみと暖かな思いが立ち昇ってくる。
果たして自身が、このように素直に、その日その時にあたって、その感興を一句に乗せることが出来るであろうか。
「棗の実」の句と同様、ここには作者の「幹事のお働きがよくて、本当にいい句会ですねえ」というお礼の気持がこもっているのである。
思い返せば吟行に出ると、初学時代には必ずといっていいほど「吟行や」あるいは「句会かな」が出た。
選者は折角ですから、この5音には、今日の吟行で見たもの、聞いたもの等を書き込みましょう等と言ったものである。
なのに、今回は◎特選である。
かにかくに俳句というものは理論通りにはいかない。
マルもバツもさまざまの体験を経て、草蛙さんは今や重鎮の貫禄とでもいうような句を出されたことに感じ入っている。
ホスピスのラジオ体操鵙日和 石本りょうこ
高い梢に止まって、鋭い声をあげる鵙の声は、いかにも秋の季節そのもの感があって爽やかである。
そんな鵙のよく鳴く、よき日和のなかにあって、ラジオ体操が始まった。
それもホスピスという広やかな心を思わせる施設でのことである。
鵙の声はただ鋭いばかりではない、その大いなる勢い、その明るさは人々のラジオ体操の手足の先々にまで元気を与えてくれているようである。
この句も無駄な言葉がなく、ただそこにある景色をそのまま一句に乗せられただけである。
虚飾なき一句は、読者が思い思いにその光景を思い浮かべ、同時に何かしらの感慨をもたらすものとなっている。
鵙鳴くやサザンビーチは露地の先 奥山きよ子
サザンビーチと聞くさえなつかしいものがある。
歌の流行に詳しくはないが、かのサザンオールスターズの桑田佳祐、その出身の茅ヶ崎を思い出さずにはおれない。
記憶はあいまいであるほうが、思い起こそうという作用が働いて楽しい、そんなサザンビーチがこの露地の先にあるなんて、作者もまたヘエーッって思わずにっこりなさったのではないだろうか。
この時の鵙の弾みはまるで桑田さんのそれのように響いたことだろう。

岩風呂のランプの灯ちちろ虫 森田ちとせ
ちちろ虫、そう蟋蟀の声が、まさにチチロチチロとでも聞こえてきそうな一句である。
あまり体験のない岩風呂ながら、また近年まれなるランプの灯ながら、いささかあわれなる秋の夜の趣をもたらしてあまりある虫の音である。
岩に取り囲まれた、いや岩そのものの凹がそのまま温泉となっているのか、何れにしても 作者の実体験がなければ醸し出せない虫の声のよき余韻を引いている。
ポケットに入れて犬の子冬隣 湯川桂香
一読愛らしいと思う。手のひらにあたたかくもやさしい子犬の毛触りが心地よい。
そこまでは誰しもが体験を呼び覚まして共鳴するのであるが、すかさず「冬隣」という作者自身の実感もっておさえたところが素晴らしい。
読者もまた「冬隣」という季題の持ち味に納得してやまないものがある。
今という時を感じることが、やがて来たるべき時を思うことに繋がっていくのである。
それにしても冬の隣にいるという、まるで人の隣りにというような「冬隣」、季語そのもののセンスが妙である。
酢橘めし仄かに色のありにけり 小宮からす
徳島を郷里とする句会のお仲間に「酢橘」のお裾分けをいただいた。
酢橘は何に搾っても風味抜群で、私もお汁にお菜にふんだんに楽しませていただいた。
だが、作者は、ネットのレシピ参考に酢橘めしたるものをお作りになったのだ。
人さまに物をいただいたら、このように喜び、このように美味しかったことをご挨拶句として出すのが礼儀であった。
入会されたばかりのからすさんは全身全霊でもって俳句に打ちこんでおられる。
その姿を拝見していると「初心忘るべからず」と叱咤される思いである。
露寒の小鳩をつつく鴉かな 中原初雪
「露寒」は「露寒し」とも言って、露が霜に変る頃に感じる時節の寒さである。
折から、いたいけな鳩のところに横柄な鴉がやってきたというのであろう。
眼前に見た光景をもって露寒を詠いあげたものであるが、ここにも作者の心象がよく籠っている。
俳句は「見たまま」というが、何を見るか、どこをどう見るかは作者その人の物の見方にゆだねられている。
屋根越えて空たかだかと秋の蝶 山崎得真
立秋を過ぎるとかの春の「蝶」は「秋の蝶」と呼ばれるが特別な種類ではなく、方々で親しく見かける蝶である。観念的には、春や夏の蝶に比べてどこかしら弱々しい秋の蝶ではあるが、実際にはなかなかどうして掲句の通り、元気溌溂である。
蝶々は蝶々としてその命あるかぎりを精一杯生きて、いや飛んで見せてくれているのである。
俳句は「ありのままに」とはまさにこの通りである。
命と言えば、私たち人間も、また蝶々も森羅万象にあって、ただただ「命ひとつ」に生かされているのである。
秋の蝶をこのように詠いあげたときの作者のはればれとした顔が見えるようである。

唐紙の大きな穴や秋の暮 石原虹子
後の月畑に二葉の出そろひて 山森小径
目ぱっちり肉食系の鵙美人 永瀬なつき
青すだち瀬戸の朝湯を香るかな 平野 翠
紅葉山鼓膜ぴきつとなりにけり 松井あき子
野路菊のかぼそき茎や花たわわ 加藤かづ乃
水飛沫上がる流れや初紅葉 石堂光子
浅海でありし地層や鵙の贄 日下しょう子
尻餅に甘藷はなさぬ畑の子 二村結季
家に入れば衝立の龍目を剥けり 伊藤欣次
ホールまで打ち寄せさうな秋の波 菊地後輪
天高し歩幅広げて通院す 関野瑛子
秋天や羽を窄めて鳶の二羽 佐藤昌緒
乗り継ぎの三番線や走り蕎麦 中澤翔風
秋麗や屈めば鯉の裏返り 伊藤 波
秋晴や植物園は坂の上 田中朝子













