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青草俳句会~命のよろこび

結社「青草」 主宰 草深昌子

青草本部句会 令和3年6月11(金)

2021年06月13日 | 俳句

草深昌子選

  兼題「田植」

       

特選

墨汁に筆の馴染まぬ夏書かな   山森小径

雲の峰テトラポットに波しぶき    小径

閻王の目を剥く先や七変化   川井さとみ

波の如百足虫の肢の正しけれ    さとみ

鉄柵や向かふ一面蛇苺       さとみ

夏木立回りに回る逆上がり    芳賀秀弥

向日葵や一人下校の一年生    中澤翔風

清流に病葉の浮く淀みかな  長谷川美知江

崖下に波の音あり月涼し    河野きなこ 

  

      

その他注目句

田を植ゑて御向ひぐつと近くなり 湯川桂香

夏の夜の岩波文庫序文かな   松井あき子

坂を来てこの緑蔭のパン屋かな  泉 いづ

馬鈴薯の花まだ咲かぬ夕間暮   石原虹子

星の夜の蕾真白や夏椿      間 草蛙

大夕焼オーロラのごと消えゆけり 芳賀秀弥

 

       

 

      雲の峰水口あれば堰のあり              草深昌子

   手掴みに播くは肥料や南吹く

   箱庭の真中や波の立ちあがり

   玉苗をのせて今来るダットサン

   早苗取る雲の綺麗な日なりけり

   親となく子となく雀土用波

 

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2021年6月 青草通信句会

2021年06月12日 | 俳句

草深昌子選  

  兼題「玉葱」

       

 

       枇杷の実や空き家の裏に登り窯      古舘千世                                                        時かけてゆっくり枇杷の実の熟れてきそうな感じです。登り窯の響きからでしょう、所を得た枇杷の実です。                                                

       独り居の家取り囲む姫女苑               冨沢詠司                                             「姫女苑」はその名に華やかさをもちながら、雑草と言ってもいいほどの地味な花です。そんな姫女苑を独り居の慰めにしているところがいいのです。              

    理髪店軒の玉葱押し合うて             川井さとみ                                             どこの軒にも玉葱は吊られますが、この理髪店の軒というところが作者の眼の付けどころです。下五の「押し合うて」が微妙に理髪店に通うところがあって、見事な描写です。発見のある写実です。

      口喧嘩負けて玉葱剝いており                 さとみ                           「口喧嘩に負けて」でしょうか、それならやはり「に」は必要です。〈玉葱を剥くや口喧嘩に負けて〉も一考です。口喧嘩と「玉葱を剥く」はよく呼応しています

       軽トラに玉葱山と運びをる                市川わこ                           玉葱を山と積んで運ばれる情景のリアリティーは「軽トラ」の措辞にあります。玉葱の逞しさが思われます。                                          

       紫陽花や風の道なる切通し             松井あき子                           「風の道なる」という中七が切通しの説明に終わらないで清々しい思いを誘います、そこで紫陽花が生きてきます。   

       紫の玉葱括る葉のあをし           あき子                           玉葱の中でもサラダ向きの紫玉葱ですね。そこで、ことさらに葉が青々と感じられるのでしょう。「あをし」と平仮名書きにして注意をよく払って一句に仕上げています。                                                                                                                                 

       玉葱を吊るし今年も半ばかな          佐藤健成                           ある種の状況説明のようではありますが、ふと一年という歳月、その半分にさしかかったということを、玉葱を吊ると言う所作に覚えたというのはやはり作者のものでしょう。毎年吊ってないとこうは詠えません。                                            

       竹散るや道白くして明らけし         神﨑ひで子                           言い得て妙といいますか、文字通りはっきりと竹落葉が見えてきます。土の庭などに散りかかるのとはまた違う風情。                                          

       雨蛙何処から来たか夜の庭          長谷川美知江                           「夜の庭」がいいですね、何処から来たのかと思わせる、つまり読者に共鳴させるだけの力があります。                                  

       青葉風小学校は瓦屋根                   美知江                           小田原市立三の丸小学校は瓦屋根でしたね、吟行の折に同じような句が出ました。なつかしいです。                                             

       買い置きの玉葱芽吹く独り者        間   草蛙                           丁寧に詠いましたが、いわゆる芽吹きとはちょっと違いますので推敲願います。独り者の抑えは、ここでは効いています。                                                    

      薔薇園のバラと思へぬ太き幹           黒田珠水                                              薔薇園の中の薔薇にはびっくりするほど太い幹の薔薇の木があったということでしょうか、その感じが読者に良く届くように表現できるといいですね、推敲してみてください。驚きのある写実です。

  玉葱の皮集めては煮出しけり              珠水                              84の「玉葱の皮」と同様、玉葱の季題から、玉葱の皮の用途にまで想像力を伸ばされました。これは煮て出汁をとって、健康食にされるのでしょうか。

 
       
天辺まで山あをあをと植田かな        石堂光子                           田を植えたことによって、遥かの山の青さもまた引き立ってきます。早苗の青と一と続きの青さでしょう。    

      玉葱の皮もて布を染めゐたる              光子                           私も昔理科の自由研究で玉葱の皮で染めを実験したことがあります。綺麗な色に染め上がったことでしょう。                                             

      青梅や夕日傾く裏の木戸         佐藤昌緒                           「夕日かがやかく」でなく「夕日傾く」がいいですね、言葉を飾らず写生しました。裏木戸のそんなところにある梅の実の青さが良く引き出されています。

                                                       

      

 

  玉葱を軒に月蝕進みけり        昌子

      玉葱やまたまた蝶の三つ巴

      十薬に松の聳ゆる避暑の宿

 

   

令和3年6月青草通信句会・選後に                                                                   草深昌子

 今回の季題「玉葱」も歳時記に例句が少なくて、お困りになったかと思いますが、幸いなことに、ここ厚木市は玉葱の産地ですので、玉葱の様々の事象が詠われていて感心しました。

玉葱に手を汚したこともなく、ただ食しているだけの私には偉そうなことは言えませんが、「玉葱」のような食材系の季題はどうしても料理方法になりがちだということがよくわかりました。レシピはレシピです、俳句には成り得ません。

  玉葱を吊す必ず二三落ち       波多野爽波

 ただ単に「玉葱を吊る」までは誰にも写生できますが、そこからもう一歩踏み込んで、こういうところまで詠いあげてこその「玉葱」の一句だと教えられます。面白いですね。

  玉葱の皮剥き女ざかりかな       清水基吉

 石田波郷系の俳人ですが、これも一句です。

 旬の玉葱です。その玉葱のはち切れそうなピカピカの充実の一個からもたらされた感懐には納得させられます。「女ざかり」なんて自覚するものではないのでした、まあそういう時代もあったのかなあと、私なんかは嘆くほかありませんが。

 だからこそ今を大切にと思います。俳句がうまくいってもいかなくてもいいのです、いろいろあります、それが生きている時間の実感です。今日の充実、一日、また一日の充実があってこそ、それが明日へ繋がっていくのでしょう。

 そこで蛇足です。「独り者」「独り居」などがたったこれだけの句会で数句ありました。それだけ手垢の付いた言葉なのです。一人暮しは取り立てて一句にするほどのことではないと覚悟を決めて、今後はプラス思考でお願いいたします。

「玉葱」から教えられたことを書きました、失礼しました

                                       

 

                                                  

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草深昌子を中心とする句会、選後に 令和3年5月   

2021年06月10日 | 俳句

 

         

 

       大声は神の賜物生ビール        菊地後輪

 「大声は神の賜物」とは、何と気持のよいフレーズであろうか、一体こんな言葉はどこから生れてくるのだろう、だが考えるヒマもなく「生ビール」と来る。そこで、「ウマッ!」ってかの感覚が蘇る。これこそ、ほかの何ものでもない、まさしく生ビールからもたらされた言葉に違いないのであった。あの切れ味、あの喉越し、さあうち揃ってカンパイしましょう。(今は自粛ながら、正々堂々とよき声を張出せる日を祈りつつ)それにしても生ビールの「なま」がなまなましく効いているではないか。

   ちなみに後輪さんが、初めてカルチャー教室に参加されたときの兼題が生ビールであった。川柳はともかく俳句は初めてという御仁に、何が何でも作りなさいと酷な講師。

      生ビール三杯までは覚えてた                    後輪

   何たる正直、この驚きの一句は今もって忘れない。

 

       紅白のたたう包みの新茶かな      松井あき子

 今度は、「生ビール」に非ずして「新茶」である。ビールにはビールの世界、新茶には新茶の世界がある、これを目に見えるように、心に感じるように詠いあげるのが俳句であるのだと、この両句から目覚めさせていただこう。畳紙なる紅白の包み紙からは、厳粛なまでに季節を先取りした高級感が思われる。この包みをほどくときからして、新茶の風味は格別のものとして、すでに味わっているのである。これぞ新茶ならではの気品、さあ心静めて喜びの新茶を酌みましょう。 

 

       本棚に鬼平シリーズ梅雨に入る       古舘千世

 池波正太郎原作の鬼平犯科帳となるものに覚えはあるものの、何となく知っているという程度。だが、そんな私でも本棚に鬼平犯科帳がずらっと並んであるところに「梅雨に入る」という実感を掴まれたのであろうことは直に伝わってくる。字面の鬼と平、語感の「オニヘイシリーズ」、もうそれだけでも感じるものはあるのである。聞けば千世さんの最愛の旦那さまの愛読書であったとか、傍観しただけのそこに、作者の思いがこもってやまないものがあったのである。 哲学書も専門書も並んでいたであろうことは想像に難くないが、そんなものを詠っても野暮である、鬼平シリーズというところに人の温もりを思い、梅雨という季節の到来をさりげなくもしみじみと受け入れるものである。

                                     

 

         薫風や四つ葉探しをひとしきり      石堂光子

   クローバーの群生に出会ったら、幸運の四つ葉はないかしらと思わず探し求めるのは誰にも思い当たることではなかろうか。いつだったか小田原城下を吟行中に、名のある俳人が無我夢中になって驚くほどの四つ葉を手に入れたのをよく覚えている。俳句そっちのけであった。そんななつかしい記憶、今もって夢みるような他愛ない希求が、薫風とともにやってきたような一句。明快なる表現がいっそうあたりを青々と染めあげている。きっと四つ葉は見つかったのであろう、喜びの薫風である。

 

       老いてなほ当主の意気や松の芯       川北廣子

  どこのどんな当主であるのか、具体的なことは何も言ってない。だが「松の芯」という季題をもって、ははんなるほどそんな当主かと想像のつくものである。これを散文で書くと、作者の思いとかけ離れてしまうかもしれないが、なかなかの手腕があり、曲ったことの嫌いな頑固の抜けきらない、そんな顏付迄もが偲ばれるものである。作者は松の芯の力強さを見上げつつ、そこに立つ当主をも尊敬しているのだろう。別の見方で言えば、古木の松の芯を比喩的に詠いあげたともいえるものである。「松の芯」は、晩春のころ俄かに抽んでてくる松の新芽のことであるが、それのもたらす季節感や情趣などは、俳句の「詠み手」(俳句を作る人)と俳句の「読み手」(鑑賞する人)との間に、共通して認識されるものがなければ、何のことか分からない。逆に言えば「何も言わなくても分かってもらえるのが俳句」である。だからこそ、俳句の分かる人、よき読み手になりたいものである。

 

       走り梅雨くるくると虹色の傘        永瀬なつき

 「走り梅雨」は文字通り梅雨の走り、本格的な梅雨に入る前の雨の日々である。まるで走り梅雨の合図のように、虹色の傘がくるくると廻ったのである。もとより作者が傘を廻したのであろうが、表現の妙でもってごく自然に傘が廻っているような趣が走り梅雨をあきらかに見せているものである。暦通り、やっぱり梅雨がやって来ましたか、というほどの傘の一と廻し、ましてや虹色という七色の美しさ、こんな梅雨の迎えた方ができたらどんなにいいだろう。梅雨には梅雨のおもむきがある、そんな梅雨をたっぷり楽しまれるのではなかろうか。句またがりにして、ピシッと定型が決まっている。

 

    鍵盤に吸いひつく指や五月闇         石野すみれ

   ピアノの弾き手もここまできたら凄いものではないかと思う。それは「吸ひつく指」という措辞から受ける私の印象。この感覚は、もう弾き手の意思を通り越して、指はひとり鍵盤鍵盤にその綾なる音を奏でるのでなかろうかと思う。しかも「五月闇」という季語の抑えがただものではない。さみだれの降る頃の暗くも妖しい夜の趣から察するに、玉を転がすような音色ではなさそう。だが抑えのきいた音色を思わせ、ひいては弾き手の心のうちの無意識のさみしさを垣間見せるようでもある。

 

                             

 

      裏山は黄金の竹や夏隣            栗田白雲

  春になると竹の葉は地中の筍を育てるために黄ばんでくる。さらに月日が進んで、作者の住む裏山の藪も、その凋落の色をすっかり濃くしているのであろう。黄ばんだ色を「黄金」と捉えたところに作者の詩精神が隠しようもなくあらわれていて、夏を迎える気構えもたっぷりであろう。自然の移り変りが、人の世の暮しのそれに連動してゆくのである。

 

      大豆蒔く拳二つの間隔に            菊竹典祥

 簡潔極まりない言い方でもって、誰の目にも大豆の蒔きようが鮮やかに納得させられる。さすがに典祥さんだなと思わせる実行力がそのまま表現に乗っているところが見物。この「拳二つ」は、大豆のよき収穫を約束するもののようにたくましく感じられる。

 

 

   白馬村余花とは言へぬ咲きつぷり      中原初雪

     葉桜の枝しなやかに夕日かな         石原虹子

   芭蕉玉解く和尚ただいまリモート中      宮前ゆき

   新緑や真昼に一人二番線         石本りょうこ

   畑鋤くや雀に鴫に鵯に鳩           湯川桂香

   新茶汲む寡黙な夫の三杯目         濱松さくら

   二杯目は書斎に一人新茶かな         冨沢詠司

   薫風や老いの手習ひ江戸小唄         関野瑛子

   マスクして出かける日々や梅雨近し      田淵ゆり

   小満や船を呑み込む朝日影        日下しょう子

   たちまちに山遥かまで若葉かな      山崎とくしん

   万緑の一山尖塔ありにけり         川井さとみ

 

 

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「風の道」(大高霧海主宰)令和3年6月号

2021年06月04日 | 俳句

現代俳句月評      羽鳥つねを

 

                                     

 

  たまに立つ坐り仕事や夜の長き     草深昌子

                        「俳句通信」(Vol119)特別作品25句より

 明治維新までは座敷や地べたに座っての仕事や生活が多かったと学んだ。その後、大正昭和と年を追うごとに机や椅子での生活が増え、戦後になるとその暮しが普通になった。平成に入ると腰掛仕事も立ってすれば効率が上がると立ち仕事に変ったものもある。

 この作品の「坐り仕事」を想像するに、長時間座りっぱなしで作業する伝統工芸職人か稽古事の師匠などを思いつく。機械音や戸外の騒音を遮断した部屋で集中力と根気のいる所業を繰り返し続けていると、時間経過に観念してしまうのかも知れない。

 夜長の時間感覚の不思議さに気づいた作者は、「夜長」と「たまに」の時の長短を組み合わせることで時間の本質を捉えたものかも。時の流れを平易に深く考えさせられる作品。

 

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