草深昌子選
人老いて街も老いけりクリスマス 永瀬なつき
例えばここ厚木市など、高度経済成長と共に、どっと人口が増え街は活気にあふれた。
だが、血気盛んであった人々も、いつしか高齢となってみると、街そのものもどことなく古風、いや少々さびれてしまったようである。
このようなことを散文で説明すれば、きりのないことであるが、俳句において「人老いて街も老いけり」とたった12音で、言い切った。
また、この大いなる認識をもたらした、「クリスマス」という季題もなかなかにはまっているものである。
クリスマスは、かつて西洋の風習を真似て、日本に空騒ぎをもたらしたものであるが、今や街のこの一角はひっそりと赤い灯がともっているばかり。
一句に詠いあげられたクリスマスは、むしろ本来のイエスキリストのミサを思わせて静けさがゆきわたっているともいえよう。
全財産抱へ師走の街を行く なつき
全財産といわれてみると誰しも驚く、一体どういうことであろうかと。
だが、一呼吸入れて考えてみると、大した金額でもなさそうだと思われる、というのも私の懐具合かもしれない。
波多野爽波の〈大金をもちて茅の輪をくぐりけり〉という句に出会ったときも、一瞬驚いてあとで笑ったことがある、それと似た感覚である。
金額の多少にかかわらず、それほどの意気込みであればこそ「師走の街」の効用は大きく、購買意欲もいきいきと感じられるのである。
以上は私の鑑賞である。
さて、作者の弁を聞いてみると、今どきの路上生活者のことだという。
肩に背中に腹に手に、これでもかというほどの嵩高い荷物を身に括りつけるようにして、
師走の寒空を放浪されているさまに胸を打たれたというのである。
なるほど、前句ともども、年末にあたって、人々と街は運命共同体であることが面白くも切なくも、考えさせられるものである。
水盤の氷りそめたる冬座敷 加藤かづ乃
水盤は水を張って石を置き、枯山水に見立てるなど、その涼感をもって「夏」の季語となっている。
私のイメージする水盤は紺色の陶器の浅いもので、もっぱら花器としての用途である。
いずれにしても、そんな水盤が氷るというのだから驚かされた。
丁寧に詠えば「水盤の水」が氷るのであろう。だが、「氷りそめたる」というところに臨場感がうかがわれるということもあろう。
冬座敷たる季語がおごそかにもしんしんと据わっている。
秋田県出身の秋田美人の作者ならではの一句。
白バイに追はれ箱乗り師走かな 黒田珠水
一読、なんと危なっかしい師走であろうかと、これは面白いとばかり即大きな〇を付けさせていただいた。
ややあって、「箱乗り」の意味がわかった。車の窓枠に腰をかけ、上半身を外に出す乗り方だという、そういえば、
かつて暴走族がよくやっていた、あれであろう。
俳句とは面白いもので一部知らない言葉があったとしても、全体としてわかることがよくある。
植物や動物も名と実物が一致しなくてもイメージされることもある。
ところで、師走といえば慌しい様子を詠う人が多いが、そうではない、静かなる師走もあれば、この句の如くスリリングな展開もある。
俳句は、意外性が要である。
産声や開き初めたる福寿草 田渕ゆり
産声ほど待たれるものはないだろう。
「産声や」、こう言い放ったときのよろこびは如何ばかりであろうか。その喜びに応えるかのよう黄金の福寿草が開こうとしている。
その名からして縁起のいい福寿草、それが「開き初めたる」という、今まさに作者の気持ちによりそった表現が控えめにも幸せいっぱいに詠いあげられている。
ゆりさんにとってひ孫さんのお誕生、おめでとうございます。
葱の葉に粒の汗出て旬の時 漆谷たから
「葱」の兼題が出ても、私のようにスーパーで買い求めるだけでは、このような角度からは詠えない。
中七の擬人法からは、むんむんたる葱特有の香気が発散されるようで、葱好きの私にはたまらない。
ちなみに、「葱」というと私の胸中には一句が浮かび上がるばかりである。
〈 夢の世に葱をつくりて寂しさよ 永田耕衣〉
波ひらき海を揺らして鯨来る 市田耳順
「鯨」は冬の季語。
子供の頃には近くの紀州の海、和歌山県太地町に打ち上げられるさまを映像で見た覚えは多々あるが、目の当たりにした記憶ははたしてどうであったか。
鯨の句では、原石鼎の〈なつかしや山人の目に鯨売〉ぐらいしか知らない私に、耳順さんの一句から、それこそなつかしさがこみあげてきた。
つまり食用にする鯨にあらずして、かの「鯨の潮吹き」が彷彿とするような鯨の現出である。
上五中七から、鯨はまこと大きく、悠々たるさまに回遊してくるのであろう。
入口に泥付き大根立ててあり 芳賀秀弥
掘りたての泥付きのままの大根、それもびっくりするように太いものであろうか。
玄関かどこか入り口のところに友人が立てかけて置いていったらしい。
作者は「おーっ」とばかりに喜んで、それをそのまま素直に描写したのである。
読者もまた目の当たりにするような光景である。一句を通して作者と読者が同じ在りようを共有することの幸せ。
かにかく、俳句は「どこに」「何が」「どうある」、それだけで十分佳き俳句である。
かたむけてなほ気に入らぬ冬帽子 宮前ゆき
さあ、お出かけという時になって、最後に被った帽子が何だか思うようにおさまりません。
ああでもないこうでもないといじくってはかぶり直されたのでしょう。
そのややこしい気持ちのありようを簡潔に「かたむけてなほ気に入らぬ」とは言い得て妙です。
季題の「冬帽子」とはまことこういうものであることよと納得させられます。
日除第一にかぶる夏帽子でありません、ちょっとおしゃれの春帽子でもありません。
防寒には違いありませんが、悴んだ心が作用しているのか、気の進まぬ出かけなのか、少なからず、「冬」の心情が帽子にも通っているようです。
ふっくらと包み千両持たさるる 松井あき子
冬の寒さや寂寥の中で真っ赤な実をつける千両や万両ほど明るさを誘われるものはありません。
友人の庭に生った見事な千両の実にほれぼれと見惚れていると、お正月の生け花にどうぞと切りとって下さったのでしょう。
そうして新聞紙かそれとも和紙か、くるくるとまこと手際よく包み上げてくださった。
「ふっくらと包み」、手渡されたときのちょっとした驚きや感触までもが読者に伝わってくるようです。
なかなかこうは表現できません、ここには心からの感謝と喜びと目出度さが、文字通り包み込まれているようです。
何より包みの中の実千両のありようがゆかしくも美しく想像されます。
このところ少しづつ色青木の実 森田ちとせ
牛の尾に何か蠢く冬日向 佐藤昌緒
煤逃の寄席に思はぬ涙かな 奥山きよ子
欄干に冬の入日の弾けたる 石堂光子
寒空に頂きがあり塔があり 冨澤詠司
射的屋の客の浮き立つ冬灯 伊藤 波
手を合はせ開きしほどの日記買ふ 泉 いづ
忘れたきこと書きたくて日記買ふ 山崎得真
枯山や新トンネルの黒き口 栗田白雲
短日や工事現場に火花散り 石野すみれ
焼鳥は手羽先からと名古屋人 長谷川美知江
葱に葱はたいて落とす畑の土 古舘千世
冬の雲こはれせんべい齧りけり 菊地後輪
酒のあて湖国の宿の酢茎なる 中原初雪
電飾のアユコロちゃんや星寒し 平野 翠
墓に来て吉良贔屓かな寒雀 川井さとみ
ウインドーの飾り見てをり懐手 市川わこ
凩や川の流れを逆しまに 松尾まつを