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青草俳句会~命のよろこび

結社「青草」 主宰 草深昌子

角川『俳句』令和5年5月号・作品8句  草深昌子

2023年05月18日 | 俳句
  角川『俳句』令和5年5月号
      作品8句    
       草深昌子 (青草・晨)

      

       中腹        草深昌子
 
   門入つて堂なきここら茎立てる
   榛の木のひらひら芽吹くあらしかな
   あたたかに座つて墓石かもしれぬ 
   中腹に寝釈迦の黒くおはします 

     春服や墓にかがんで丈短か
   ことごとく破れて土嚢や下萌ゆる  
   薪棚に薪あたらしや百千鳥
   蝌蚪の紐突きつけられもして楽し




角川『俳句』令和5年5月号・作品8句  草深昌子_f0118324_13293729.jpg
    (角川『俳句』令和5年5月号 所収)




by masakokusa | 2023-04-28 13:25 | 俳句総合誌『俳句』ほか
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『俳句界』令和5年5月号・注目の句集 戸井一洲句集『河口』鑑賞  草深昌子

2023年05月18日 | 俳句
 『俳句界』令和5年5月号 ピックアップ 注目の句集

  
 

戸井一洲句集『河口』鑑賞

       大巧は拙なるが如し  草深昌子 


    西池冬扇氏(「ひまわり」会長)の序文にこうある。
 ―― 一洲氏は徳島生まれ、生粋の徳島人です。
 郷土の期待を背負い、職業軍人を養成する超エリート学校である広島の陸軍幼年学校に入学しており、在学中に敗戦を迎えます。
   その生い立ちの記憶は、氏の俳句作品に色濃く反映されているかと思います。――
    この序文にある戦争体験を踏まえた生い立ちに深く頷かされた。
    だからこそ「生きてある命」が、戸井一洲『河口』の行間のすみずみまでを輝かせている。

       一日を庭に過ごせりみどりの日
      我武者羅に木刀振れり敗戦日
      十二月八日目覚まし時計鳴る
      地球踏む霜柱また霜柱
      すめろぎを咫尺に今日の春惜しむ

    一句目のみどりの日。その心は昭和天皇誕生日であろうか、もの思いの中にも安らかな気息に満たされている。
    二句目の敗戦日。いかに振り回そうとも所詮木刀、我武者羅があまりにも切ない。
    三句目の十二月八日、不意に起こされた目覚ましの響きはいかばかりであったか、作者は言葉を惜しんでいる。日常の尊さを思うばかり。
    四句目の霜柱。ぐさっぐさっと霜柱に足を踏み入れたときの感触が思わず「地球踏む」であったのだろう。
   この感受性の底にあるものは一体何であったろうか、柔軟にして鋭い感覚が光っている。
   五句目、天皇陛下から直々に勲章を賜られた春日、その春秋を心から愛おしまれている。

     良夜かな妻のうたごえ厨より
    隣席の妻の寝息や春愁
    古希の妻十年連用日記買う

   清明なる月の明るさがそのまま夫妻の明るさなのであろう。
  信頼しきっている妻の立ち位置の確認はしみじみとあたたかである。
 『河口』(戸井一洲ひまわり俳句会)には、高井北杜先生の指導を直接に受けて、
ひまわり俳句会のレジェンドとなった戸井一洲氏の三十五歳から九十一歳までの人生がぎっしりと詰まっている。 
   臼田亜浪を師とする俳人高井北杜は、昭和二十一年、徳島にて俳句誌「ひまわり」を創刊。
   戦後いち早く俳句に現代仮名遣いを採用したこと、教師として県下の青少年の育成に尽くしたことで名高い。
   一洲氏も旧制徳島中学校の時代に幾何を習ったという。

    荒梅雨の泥吐き出している河口
    河口まで歩き満月迎えけり
    月見草河口に眉山ふり返る

   一句目、梅雨も後期の荒々しさ、河口の吐き出す泥の無惨が顕わにも見えてくる。
   二句目、「歩き」「迎え」と能動的にも時空を広げてみせて、見事なる満月を讃える。
   三句目、眉山は万葉時代から詠われた徳島市を象徴する山である。
   その眉山を河口から振り返ると言ったきりで何も言わない。
   来し方のありようは静かにも月見草が語っている。河口は帰るべき故郷でもあろうか。
   事物の存在を描くということにおいて、ローカリティーがいかに重要か。
   徳島という風光そのものがその人の作品を染め上げるようである。

     冷奴かくれるほどに薬味積み
    農婦来て屈伸運動立葵
    赤ちゃんが手を振っている初日の出
    思い切り雀とあそびたき案山子
    金鯱の天守に放つ蠅ふたつ

   これ等の句々の生き生きとしてゆるぎなき季題の面白さはどうだろう。
   涼味より薬味の勝っている冷奴は諧謔である。
   農婦のけなげさ、逞しさは立葵が請け負っている。
   原始の日の出のエネルギーに無心の喜びをあらわしているのは赤ちゃん。
  稲雀のあわれは案山子もろとも、作者がそれになりきっていて何ともやさしい。
「金鯱の天守に放つ」と大きく打って出て、一体何を放つのかと思えば蠅である。
  それも二匹がリアル。読者に肩透かしをくわせながら、蠅の命のありったけを輝かせてくれている。



        新涼や岩波文庫ワイド版
     春セーター今日はどの道歩こうか
     日脚伸ぶ散歩の足ものびにけり
    うまいもの大会のぞく子規忌かな

   一句目、「ワイド版」のワイドが文字通り一句を広げて、独自の新涼が決まっている。
   二句目、「歩こうか」とは何と軽やかな言い回しであろうか、春の明るさがセーターを着ているようである。
   三句目、この通りとしかいいようがない。
   自然界の移り変りはそのまま人間の在りようにすんなりと影響するものであった。
   四句目、うまいものの大集合をここに、健啖の正岡子規が一と覗きしたような楽しさ。
   当り前のことが、当り前に詠われて、真っ直ぐ胸に届くのは、精神の筋が真っ直ぐに通ってあるからだろう。

   俳句は作者自身が満足しなくて、誰が満足するであろうか、命のこもらない俳句は俳句ではないのである。

     下手やなあでもつづけろと北杜の忌
    すててこはゆるめ目がよろし北杜の忌

   一洲氏が弟子として、北杜先生をこう詠いあげて下さったことによって、私は北杜先生を直視させていただいた。
 「下手やなあ」、この一句がなければ私は北杜先生を知り得なかったであろう。
  いわば戸井一洲氏が北杜先生の生き方や人間像をここに見事に詠いあげ、指し示されたということである。
   今や「下手やなあでもつづけろ」の言葉は俳句実作者なる私自身へ向けられた箴言となって、脳裏に鳴りひびいてやまない。

     冬帽子冬のかたちにかぶりけり
   何と颯爽たる冬の帽子であろうか。
  冬がサマになるのは作者をおいてほかにないような、象徴的なる帽子。若き日に詠った、
 〈冬帽子目深にかぶり運河べり〉〈冬帽子目深くゆめを買う列に〉もあり、
   冬帽子に執着して辿り着いた、一洲氏の本懐ここにありと解した。
   一集には作者の「ありのまま」が通底している。
 「これ上手だろう」の気負いがどこにもない。
   読者に技量を感じさせずして、そのまんまを貫く、腰の据りが違うのである。
   師の信念を生涯こころに徹した俳人の大成が『河口』に結集している。

   読み終えて、「大巧は拙なるが如し」の感慨を新たにした。
   真に巧みな人は、見かけの小細工をしないから、一見下手にみえる。
   又真に巧みな人はその芸を自慢しないから、一見拙く見えるという、老子の言葉である。
   一洲氏は「いさおし」として実人生を全うすると同時に「詩人」としても歩みを続けて来られた。
   ひたむきに俳句に打ち込んだ証しの見事なる一集。
   その感動にひたるのは、作者以上に読者の方ではなかろうか。 

  


(『俳句界』令和5年5月号・所収)

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『俳句四季』令和5年5月号・ある日の俳人 草深昌子

2023年05月18日 | 俳句
 『俳句四季』令和5年5月号
 

ある日の俳人     草深昌子
   修羅場

 大峯あきら先生が「俳句作りは修羅場です」と仰ったとき、先生でもそうなのですかと一瞬びっくりした。
 だが、ホッとする資格もないほどに、私は直感で仕上げてしまうことが多い。
 直感だからこその写実でもあるが、それがどうしましたかというだけではないだろうか、感じたものが眼に見えるように描かれているだろうか、一呼吸置くことも多々ある。
 とにもかくにも外に出て自然の不思議に出会うことほど楽しいものはない。
 ところが近年、吟行が減った分、机上で作句に思い悩む時間が増えてきた。
 先生の修羅場の足元にも及ばないが、修羅場のさなかにあってこそ、
 本当の言葉が下りてくるという、詩作の真理を漸く実感しはじめている。


 
 

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青草通信句会 2023年5月

2023年05月11日 | 俳句
日本の伝統のいわゆる和菓子にはその時期を代表する菓子がある
その時期にしか出回らないので 当たり前のように必ずいただくことになる
その素朴な味は単純明快で飽きさせない
その一つが柏餅である
こんな風な俳句ができないものだろうか

草深昌子選 (順不同)
兼題「柏餅」

     

    初夏や海賊船の奥に富士     芳賀秀弥
 初夏の箱根の風光が奥行きをもって写し出されました。大景の清々しさに海賊船の「海賊」が重しを効かせます。

   柏餅一つと言へず三つ買ひ   伊藤 波
 老いた身や一人暮らしの身には一つで足りるのです。でも柏餅のよろしさは昔がそうであったように、幾つもあってこそのもののようです。誰しもに思いあたることを臆せず詠いあげました。

  ひらひらと下船の衣夏めきて   中原初雪
 ひらめく形容に「ひらひらと」はありきたりのようですが、この句の中ではいきいきと「夏めく」という季語を引き立てます。下船してさあこれからの行き先もまたひらひらと広がってゆくようです。

  柏餅紫がかる餡の照り   小宮からす
 紫がかって、しかも照りのある餡とはどんな餡でしょうか、何か特別なもののように詠いあげたお祝い感が面白いです。紫がかる「餡」が、すかさず「餡」の照りにかかっていく置き方もウマイです。

  大皿にのこり一つや柏餅   柴田博祥
 さあ、この一個どうしますか?また、元気な子の手がのびるでしょうか。皆でワイワイ楽しく頂いた沢山の柏餅の存在が確かに浮かび上がります。

  豆飯の湯気消えぬ間によそひけり   博祥
 豆飯を詠うに、一つの発見がここにあります。湯気消えぬ間というすばやき手際のなかにこそ豆飯の緑が浮き上がって見えてくるのです、おいしさは言うまでもなく。

     菜を背負ひ自転車のゆく蝶のゆく   松井あき子
 何気ない光景を何気なく詠いあげました、つまり表現と内容が一致している一句です。下五に一呼吸おいて「蝶のゆく」としたところに動きある明るさの余情が出ています。

    平穏に過ぎしひと日やひめぢよおん   川北廣子
 姫女苑はどこにでも咲いて、その名ほどにあでやかなものではありません。それでも姫女苑の存在は作者にとって愛おしく親しいものに違いないのです。姫女苑のありように人の心がよく投影されています。

     坂暮れて色定まらず花楝  奥山きよ子
    楝の花はちょうど今頃、高い木に茫々と紫色の花を咲かせます。紫といっても日や雲の加減でもやもやとかすむような感じです。
    「坂暮れて」と言われますと、いよいよ楝の花の気配を感じます。

    


  ぎゆつと噛みぎゆうつと噛んで柏餅   草深昌子
  手に十指足に十指や夏来る 昌子
  朝から大き声出て柏餅 昌子




令和5年5月・青草通信句会講評   草深昌子

 五月の兼題は「柏餅」。柏木には昔から神が宿っていると言われるところから柏餅が節句の菓子になったようです。

  裏庭の柏大樹や柏餅  富安風生
 風生の柏餅の句は、初学時代の私の俳句観を大きく覆らせてくれました。何も言ってない背後に何か大きな物語が感じられたのです。景をしっかり呈示することが俳句の原点であると気付かされました。
 私は何か述べよう述べようとして、かえってものがしっかり描かれていなかったのでした。詩というものは当たり前のことを言葉で彩色して当り前でないかのように見せる技巧のことではないのでした。当り前のことが、実は当り前でないことに驚き、その驚きが我知らず言葉になったものが俳句というものなのです。当り前のことを当り前としない感受性を養いたいものです。

 何度も申し上げますように俳句は「韻文」です。説明や報告をして物事を伝達するのが目的の「散文」とは違います。出来事を述べようとしますと、575はただの「散文のきれはし」になってしまいます。
 韻文ながら、俳句としての文章表現が的確でないと一句は成り立ちません。そこで、切字を使いますと、先ずは説明したい自分の気持ちを断ち切ることができます。つまり、読み手の関心を対象の方へ引き込ませることができるのです。

 これまた何度も申し上げますように、実作以上に「選」は真剣にならねばなりません。しかしながら、「選」は、採るか採らないか、二者択一の決断ですので、すばやいものです。なぜ、この句を採って、この句を採らないか、などと考えて採るわけではありません。
 直感ですぱっと出来た句は、選者にも直感で、すぐさま採らせてしまう力があるようです。
 俳句は作者の思いを述べるだけのものでなく、読者と共感するところに醍醐味があります。今回も「柏餅」他を通して、皆さまと懐かしくも楽しい対話ができましたこと、幸せでした。




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青草本部句会 令和年5月5日

2023年05月09日 | 俳句
藤の花も終わり今は薔薇が美しい。
今年は季節の進み具合がおかしい。
一月ほど早い気がする。
一方、油断していると仕舞ったばかりのセーターが恋しいような、肌寒い日がある。
すべての生き物にとっては戸惑うばかりである。
我が家の庭の千両の実が
まだ小粒なのに赤くなった。


草深昌子選 (順不同)
兼題「祭」 席題「硬」


   
 

神輿番硬骨の父戻り来て   奥山きよ子 
山の雲うすくかかりて藤の花   松井あき子 
閂の堅き門あり桐の花   あき子
若蘆の吹かれて蝶の出でにけり   佐藤昌緒
我が額の硬さ和むや夏兆す   大村清和
くつくつとジャム煮てをりぬみどりの日   二村結季
帰国して太鼓叩くや村祭   河野きなこ
夏祭一日硬派となりにけり   川井さとみ




さも硬き音に踏みくる木下闇  草深昌子 
弓袋なべて紫紺に夏立ちぬ
水べりに蛇あらはるる祭かな
開帳や舌見せたまふ観世音
夏来る雲の硬さう柔らかさう
若葉してビール工場ガラス張り



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