日本の伝統のいわゆる和菓子にはその時期を代表する菓子がある
その時期にしか出回らないので 当たり前のように必ずいただくことになる
その素朴な味は単純明快で飽きさせない
その一つが柏餅である
こんな風な俳句ができないものだろうか
草深昌子選 (順不同)
兼題「柏餅」
初夏や海賊船の奥に富士 芳賀秀弥
初夏の箱根の風光が奥行きをもって写し出されました。大景の清々しさに海賊船の「海賊」が重しを効かせます。
柏餅一つと言へず三つ買ひ 伊藤 波
老いた身や一人暮らしの身には一つで足りるのです。でも柏餅のよろしさは昔がそうであったように、幾つもあってこそのもののようです。誰しもに思いあたることを臆せず詠いあげました。
ひらひらと下船の衣夏めきて 中原初雪
ひらめく形容に「ひらひらと」はありきたりのようですが、この句の中ではいきいきと「夏めく」という季語を引き立てます。下船してさあこれからの行き先もまたひらひらと広がってゆくようです。
柏餅紫がかる餡の照り 小宮からす
紫がかって、しかも照りのある餡とはどんな餡でしょうか、何か特別なもののように詠いあげたお祝い感が面白いです。紫がかる「餡」が、すかさず「餡」の照りにかかっていく置き方もウマイです。
大皿にのこり一つや柏餅 柴田博祥
さあ、この一個どうしますか?また、元気な子の手がのびるでしょうか。皆でワイワイ楽しく頂いた沢山の柏餅の存在が確かに浮かび上がります。
豆飯の湯気消えぬ間によそひけり 博祥
豆飯を詠うに、一つの発見がここにあります。湯気消えぬ間というすばやき手際のなかにこそ豆飯の緑が浮き上がって見えてくるのです、おいしさは言うまでもなく。
菜を背負ひ自転車のゆく蝶のゆく 松井あき子
何気ない光景を何気なく詠いあげました、つまり表現と内容が一致している一句です。下五に一呼吸おいて「蝶のゆく」としたところに動きある明るさの余情が出ています。
平穏に過ぎしひと日やひめぢよおん 川北廣子
姫女苑はどこにでも咲いて、その名ほどにあでやかなものではありません。それでも姫女苑の存在は作者にとって愛おしく親しいものに違いないのです。姫女苑のありように人の心がよく投影されています。
坂暮れて色定まらず花楝 奥山きよ子
楝の花はちょうど今頃、高い木に茫々と紫色の花を咲かせます。紫といっても日や雲の加減でもやもやとかすむような感じです。
「坂暮れて」と言われますと、いよいよ楝の花の気配を感じます。
ぎゆつと噛みぎゆうつと噛んで柏餅 草深昌子
手に十指足に十指や夏来る 昌子
朝から大き声出て柏餅 昌子
令和5年5月・青草通信句会講評 草深昌子
五月の兼題は「柏餅」。柏木には昔から神が宿っていると言われるところから柏餅が節句の菓子になったようです。
裏庭の柏大樹や柏餅 富安風生
風生の柏餅の句は、初学時代の私の俳句観を大きく覆らせてくれました。何も言ってない背後に何か大きな物語が感じられたのです。景をしっかり呈示することが俳句の原点であると気付かされました。
私は何か述べよう述べようとして、かえってものがしっかり描かれていなかったのでした。詩というものは当たり前のことを言葉で彩色して当り前でないかのように見せる技巧のことではないのでした。当り前のことが、実は当り前でないことに驚き、その驚きが我知らず言葉になったものが俳句というものなのです。当り前のことを当り前としない感受性を養いたいものです。
何度も申し上げますように俳句は「韻文」です。説明や報告をして物事を伝達するのが目的の「散文」とは違います。出来事を述べようとしますと、575はただの「散文のきれはし」になってしまいます。
韻文ながら、俳句としての文章表現が的確でないと一句は成り立ちません。そこで、切字を使いますと、先ずは説明したい自分の気持ちを断ち切ることができます。つまり、読み手の関心を対象の方へ引き込ませることができるのです。
これまた何度も申し上げますように、実作以上に「選」は真剣にならねばなりません。しかしながら、「選」は、採るか採らないか、二者択一の決断ですので、すばやいものです。なぜ、この句を採って、この句を採らないか、などと考えて採るわけではありません。
直感ですぱっと出来た句は、選者にも直感で、すぐさま採らせてしまう力があるようです。
俳句は作者の思いを述べるだけのものでなく、読者と共感するところに醍醐味があります。今回も「柏餅」他を通して、皆さまと懐かしくも楽しい対話ができましたこと、幸せでした。