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青草俳句会~命のよろこび

結社「青草」 主宰 草深昌子

青草新春句会 令和5年2月16日

2023年02月24日 | 俳句
青草新春句会  主宰 草深昌子
開催日時
 日時:2023年2月16日(木) 
    9:30~11:30 青草新春句会 
         場所:アミューあつぎ 
  12:00~14:30 懇親会
         場所:レンブラントホテル厚木 2階 宴会場

 
三年ぶりの開催となった「青草新春句会」である
コロナ禍という長いトンネルもようやく出口がほのみえて来た
これまでに中止を余儀なくされた句会を思うと感無量である

特選句の中には意表をつく句も多く 
句の世界がより大きくなった
そして「青草」の発展を暗示させ大いに勇気づけられた
少しでも発展
このことは会員から主宰へのの贈り物である
と同時に主宰から会員への贈り物と言えよう
誕生日のお祝いの花束に大いなる感謝を添えて

草深昌子選
兼題 「春季雑詠」




天賞
  見るほどに進まぬ時計春炬燵   柴田博祥

 春になってもしまいかねている炬燵です。ぼちぼち暖かくなって、もう要らないかなと思いつつ名残を惜しみつつ足を入れているのです。折柄、時計に首を回しますと、さっきからあまり時間が経っていません。「見るほどに」ということは何べんも見ているのです。ぽかぽかしながら、時間をもてあましているとでもいうような春の炬燵です。何かに夢中のときはあっという間に時間が経ち、のほほんとしていると時が進まない、ということは誰しもに思いあたることでしょう。この句には時間の経過があります、ゆったりと落ち着いた長閑さをも詠いあげているのです。

地賞
  スカートの尻のてかりや春浅し   河野きなこ

 一読驚きましたのは「尻のてかり」です。見たことあるある、いやいや、これって私の事ではありませんかって感じです。あのサージの女学生時代のスカートが思い浮かびます、もちろんどんなスカートだって読者の想像におまかせです、そこが素晴らしいのです。
 そして何より、「春浅し」の季題が文字通り「てかり」ます、そう光ります。「スカートのてかり」に眼をとめたのは作者よりほかに誰もいません。俳句は作者独自の発見が一番です。
なお、詠いあげていることがさほど上品ではない場合、このように季語の品性でもって詩情をかもしだすことができるのです。

人賞
  草青む小さき手元に足元に   松井あき子

 幼いお子さんがこの花なあに、あの草なあにって興味津々屈みこんで手に取ったり、ちょこちょこ歩み寄ったりしているのでしょう、まさに一挙手一投足という感じに、草の青さが臨場感満点に実感されてきます。
 実景として鑑賞しますとそうなりますが、私としましては、小さき手元小さき足元は、私、私たちそのもののように思います。青草新春句会への見事な挨拶句になっています。

 自然界の様々の中にあって、人間ほど小さいものはありません、人間がえらくて植物や動物より上だと思っている人に俳句はできません。春になって草の青さが目に沁みるように光ってきますと、頑張らねばと励まされます。しかし草の方でも人間がいてこそ輝くことができるのです。みんな命一つに生きているのですから。「青草」は「今を生きる命のよろこび」をモットーとしますが、この句は理念の本当を詠いあげてくれました。

特選
  大鉢にいざ盛り付けむ独活のぬた   佐藤昌緒
 野性の独活なら早春のご馳走として最高のものでしょう。大皿でなく、大鉢です。また「いざ盛り付けむ」です。ここに作者の心意気、ご自慢の仕上りが思われます。まさに垂涎の香気が放たれています。
 独活を料理しました、という報告に終わっていないのは臨場感あふれる勢いのある表現のたまものです。
 ちなみに、「独活」で、私が写実のお手本にしている句があります。
  笊の上にのせわたしある長き独活  花蓑

  お座りのひとり遊びや春障子   奥山きよ子
 障子は冬の季語ですが、掲句はまぎれなく「春の障子」を詠いあげています。お座りがしっかりできるようになった赤ちゃんが、あーあーうーうーなどご機嫌に静かにも手先を動かしているのでしょう。落ち着いた明るさ、ほのぼのとした喜びが春の障子そのもののように嵌まっています。

  春めくや少し茶色の玉子焼き   小宮からす
 お手製でしょうか、それともどこか出先でいただかれた玉子焼きでしょうか。中七、ウマイですね。日常の中から、こんなささやかなものを見届けて心がふっと動いた、それが「春めく」以外の何ものでもありません。作者の実感です、同時に読者にもその感覚が素直に伝わってきます。

  春雪や古股引に穴二つ   漆谷たから
 このところの早春の日射しにぬくもりを覚えていましたが、今朝はまあ何と花びらのように雪が降りだしてきたのです。しばらく雪の美しさに見惚れていましたが、おお、寒むっ。寒さに誘われるような思いで、箪笥の奥から股引を引っ張り出してきました。だが、何と小さい穴が二つもあいているではありませんか。おやまあ、しょうがないねえ、思わず作者はにんまりして、降り続く春雪のなつかしさに浸っておられるようです。
 「春雪」と「古股引に穴二つ」には何の関係もありません。それでいて、はっと春の雪の情感が感じられますのは、一体どういうことでしょう。因果関係でつながりのないものが、季題を通して、一句の奥の方でつながっているのです。それを読者がフフっと感じ取ることが出来るのです。分かる人には分かります、分からない人には分かりません。
これが俳句です。

入選
 梅林や動かぬ人の居て静か  木下野風
 薄氷に透けて底なる水の餅   湯川桂香
 海鳥や春泥に立ち波に浮き   奥山きよ子
 初音聞く八十八の誕生日   古舘千世
 早春やコミニュティバス二人連れ   黒田珠水
 ミュージカルはねて春宵歌舞伎町   松尾まつを
 休日の朝の茶房や春の声   まつを
 房総の沖行く船や春の風   渡邉清枝  
 源流は甲武信岳なり春田打   森田ちとせ
 一人来て握り飯食ふ花の下   東小薗まさ一
 一面の菜の花ここを旅はじめ   二村結季
 乳張りし牛と出会ふや梅の郷   結季
 角打ちの暖簾くぐるや春袷   伊藤 波
 蓄音機地べたに置かれ春の市   波
 江ノ島やここは二丁目山笑ふ   川井さとみ
 雪解けの尾根に連なる馬酔木かな   菊地後輪
 やん衆来て梯子外さる女中部屋   河野きなこ
 こんなにも日は照りながら冴返る   佐藤健成
 空缶に百円落とし春キャベツ   田中朝子
 日の射すや春水の底泡生まれ   中原初雪
 山里の梅ふふみたる夕焼かな   石原虹子
 春の雪練切餡の透けてをり   松井あき子
 さしてすぐ消えし人影薄氷   森田ちとせ

   

 俳句は、その映像が読者の眼に見えて浮ぶことが大事です。もとより、目に見えるだけが俳句ではありませんが、先づは写実が大前提です。即物具象です、具体的に物に即して詠いあげる、これを熟知せずに前に進むことはできません。
 自分がこう思う、こう感じるという感想を述べたり、因果関係を述べたりするのは散文です。つまり説明したり、報告したりしているものは、ただの「散文の切れはし」になります。
 また、俳句は短いので、全部言わなくても、読者が想像してくれます。読者が想像力を発揮してこそ、俳句はよき俳句になるのです。

 「青草」誌の「俳句往来」で書きましたが、かつてこんな句を作りました。
 〈花散るや何遍見ても蔵王堂  昌子〉、
大峯あきら先生に取っていただけましたことで、句集に残すことができました。誰にも取られなかったら、作品は反故になるところでした。選はつくづく大事です。どんな俳句も読者を得てはじめて一句となります。
 俳句は作り手と読み手の共同作業によって成り立ちますことを、新春句会においても実感させていただきました。皆さまの佳き選、佳き鑑賞がありましたことは本当に嬉しいことでした、本当に楽しかったです。

  踏青のいつしかここに一つ輪に   草深昌子
  若草の日に日に茎を立てにけり
  中腹に寝釈迦の黒くおはします






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「青草」春季 第13号 令和5年2月

2023年02月22日 | 俳句
 令和5年2月「青草」春季13号が発刊されました
 発刊から5周年を過ぎて表紙も一新され
 新しい青草の芽生えとともに 
 ゆっくりでも着実に歩んで行けることを願います

 


 青 山 抄 (13)          草深昌子

 蝶々のすつとぶ芝の枯るるかな
 薪積んで冬の日向に崩れさう
 冬晴や紅葉穢く鯉綺麗
 花や葉や散つて石段石寒し 
 年の瀬の我か鴉かむなしきは
 日の移り早くて崖を笹子鳴く
 これやこの行くも帰るも頭巾かな
 ダンサーと書家と詩人と年忘れ
 年寄の服あかあかと冬座敷
 江戸の木の枯葉明治の木の枯葉
 水に見る蓮の葉のうら冬の空 
 六人を一と組の子ら蓮枯るる
 とんぼうの水打つ日向ぼこりかな
 お座敷に脱がでゐたるや裘 
 夜鷹蕎麦仲間や子規も漱石も
 セロリ噛むひとりのときの音ぞこれ
 悴むやマスクの巾が顔の巾  
 小春日やパンダの糞を袋詰め 
 冬日いま走る電車の床に濃き
 天日に顏焼く翁忌なりけり
 冬立つや蠅の頭の茶が焦げて
 猿茸女だてらに蹴りにけり
 八幡に古りて土俵やちんちろりん
 濁り酒井伊直弼を祖としたる
 釣堀やはたして会うて雲は秋
 牛小屋の横ゆく水の澄みにけり
 秋思ふと林に一つ館あり
 夜を寒み室生犀星句集など
 末枯や墓域に道の巾広く 
 芝浜を聴いて身に入むわれらかな 


 青草往来  草深昌子

  チューリップ私が八十なんて嘘  木田千女
 まだ若き頃、この句に出会って呆れました。えっ、それが現実ではありませんか、間違いなく齢を積まれたのですよね、なんて冷やかな反応でした。伝統的な俳句とはちょっと違った新味が未熟な身には馴染まなかったのです。そんな私が何と八十に手が届くところにきて、不意にこの句が立ち現われてきました。
 人は肉体的に年老いてゆくのは当然ですが、精神ばかりは老いることがないのです。私などもう腰折れでヨロヨロですのに、今もってミーハーのままで、心と体のギャップに苛まれています。この感覚こそが嘘という措辞そのものでした。「八十なんて嘘」はわが心の叫びのようです。

 さて、俳句は世界一の短詩型です。短いのは分かりますが、忘れてはならないのが「詩」であるということです。詩とは何かと問われても答え難いものですが、さしずめ冒頭の句は詩ではないでしょうか。つまり、チューリップという季題を生かし切っています。身近にも愛らしい無邪気な花でもって、季題の広がる世界に心を解き放っているようです。おどけやおふざけも俳句にとっては大事な資質でしょう。
 十数年前、初めて受け持った俳句講座のタイトルは「俳句のはじめのはじめ」でした。「俳句のはじめ」なら尻込みしますが、「はじめのはじめ」なら私にも出来そうと思って参加しましたと、皆さま口々に仰ってくださいました。こういう言葉に対する感受性も誰もが詩人であり得る証拠のようです。
 「俳句は季題を詠います。今日始めた人も、何十年やっている人もみんな平等です。さあ愉しんでまいりましょう、笑いましょう」と声を張り上げた日が昨日のことのように思い出されます。

 ともあれ、本当の詩の言葉は生き続けているのです。そしていつかは誰かの胸に届く不思議を思います。
 今や、インパクトあるチューリップに励まされています。


               
 芳草集
 菜畑をひよいと曲がりて川に会ふ  二村結季
 子雀の転がり出でし厩かな
 子を迎へ蟇をむかへて寝入るかな
 百姓の振り向きざまや汗雫
 はからずも僧の点前や土用あい
 朝蜘蛛を庭に放つや盂蘭盆会
 雉鳴くやげんげ田に首浮くかしつつ
    
 雷鳴や旧家の窓の赤硝子  古舘千世
 唇に麻酔の痺れ花曇
 風少し強く吹く日や豆御飯
 網戸抜け生暖かき今日の風
 関西弁まねる江戸つ子夏休み
 奥つ城へ芒の坂を吹かれゆく
 蟷螂を降して新聞取りにけり



 青草集
 木五倍子咲くその名問はれて池の端  松井あき子
 藍植うや象の形の如雨露もて
 春潮や動き出しさうゴジラ岩
 鉄線花揃つてこちら向きにけり
 蛍火や雑木林は向かう岸
 短夜や寝袋に聞く恋のこと
 雨の日の向日葵少し聞き上手

 母の背がかはゆくまがる雛まつり  伊藤欣次
 百千鳥壺中の天にあるごとし
 若返ることなどできぬ更衣
 薔薇燃ゆる消灯前の大広間
 短夜の思ひ離れぬ一事かな
 にぎやかに野を帰り来ぬ花火の夜
 玫瑰の花に囚はる浦路かな


                 

 大峯あきらのコスモロジー⑨  草深昌子

 朝日子の押し寄せてゐる牡丹かな  あきら
 ――前山から顔を出した朝日の矢は、いっせいに牡丹に殺到する。押し合いへし合い、歓喜する朝日子の中に溺れて、花々はみるみる花びらを展げてゆく。壮観という他ない。平成一七年作。(「シリーズ自句自解ベスト100・大峯あきら」より)――

 大峯あきら第七句集『牡丹』は平成十七年の刊行。氏は七十六歳。俳人協会賞受賞の第六句集『宇宙塵』以後、三年間の三八五句が納められている。

  鉛筆を持つて見てゐる牡丹かな  あきら
  牡丹の雨は小糠となるならひ
  昼火事のすぐに消えたる牡丹かな
  牡丹の庭に今ゐる大工かな
  牡丹に郵便夫来る赤子来る
  十あまり蔵のうしろの牡丹かな
  満月はのぼり牡丹さかりなり
  母の手に赤子をもどす牡丹かな

 自宅である専立寺の庭には十株ほどの牡丹があり、毎年妍をきそうように花を咲かせる。小学生の時はじめて牡丹を見て、こんな美しい花がこの世にあるのかとびっくりしたという。だが、長い間親しみながら句を作ろうという気持が起こらなかった。ところがある日、朝日を受けて花弁をひろげてゆく牡丹を見ているうちに、俄かに気持ちが一変したのだという。
――花は自分の美しさを誇っているのではなく、こちらに話しかけ、私を対話に誘ってくれていた。それなら、牡丹の話すところを聞き、それに答えたらよいのではないか――
 これがきっかけで牡丹の句が生まれるようになり、牡
丹を詠んだ句が比較的多いところから、『牡丹』を題名にした。いたってシンプルな心境である。
 ありのままの「あとがき」は、既に第五句集『夏の峠』の鑑賞に書いた通り、「俳句という詩のことばは、人間の心の単なる叫びではなく、山川草木との対話である」という師の俳句観として一貫している。
 つまりは芭蕉の「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」と同じ考えである。「松や竹が語りかけてくれている、その存在が語る言葉を聞いたら、自我は崩れ、自我の破れ目から存在の言葉に応える言葉が自然と出てくるのだ」と、繰り返し噛み砕いて説き続けられた、大峯あきらの終生変らない俳句の姿勢であった。
 
 一句目、はっと我に返ったら、「鉛筆を持って見てゐる」私であったというのだろう。鉛筆の軟らかさが牡丹によく呼応している。そういえば、師は何時も鉛筆で句帖に書き付けられていた。伊勢吟行の時であったか、鉛筆の先を切り立った岩石に当ててシュッシュと研いでおられた、純朴な仕草が忘れられない。
 小糠雨が降り、昼火事があり、何でもない出会いの風景ではあるが、まさに庭先のそこに読者も居合わせているかのようである。牡丹の存在感がたっぷりと感じられるのは、「見てゐる」、「今ゐる」という現在進行形であろうし、「郵便夫来る」、「赤子来る」という絶えざる時の移りゆきであろう。動的な時間の流れが牡丹の静寂の中に躍動している。

  どこからか揺れはじめたる桜かな  あきら   
  ライラック咲いて調度はもの古りて
  止みかけて又降る雨や桐の花
  降つて止み降つて止む雨女郎花

 一句目は吉野山上千本の桜。ふと風が来て桜の一木が揺れはじめると一斉に他の木も揺れ始めるさまは師に同行して見届けた。その夜の句会で言葉として「揺れはじめたる」とくると、思わず我が身も揺れるような錯覚に陥った。後に、一つの揺れが次々に伝わったのは「目に見えない山神の計算しつくした仕業かもしれない」という自註を読んで、これぞ想像力というものかと感じ入ったものである。
 二句目。「調度はもの古りて」とは絶妙の取合せ、ライラックが鮮やかに浮かび上がってくる。「もの古りて」というゆかしい余韻もひんやりとしている。
 三句目、四句目は微妙な雨の降り方の違いだが、中七で空間を広げて時の谷間を見せる「桐の花」と、そのままそこに降りかかってくるような「女郎花」と、雨に咲く花のありようを明らかに見せている。

  日輪の燃ゆる音ある蕨かな  あきら      
  がちやがちやに夜な夜な赤き火星かな
  水涸れて昼月にある浮力かな
  青空の太陽系に羽子をつく
  月はいま地球の裏か磯遊び

 大峯あきら俳句のテーマは、宇宙性である。俳句という詩は単なる社会ではなくて、宇宙の中に生きている人間の営みを詠うもの。一瞬も止まらず移り変わってゆく季節でありながら、同時にまた必ず戻ってくる季節というものの不思議はどうだろう。師が感じる季節というものは、そのまま宇宙を感じることにほかならない、そのあたりがよく分かる句群である。
 一句目。太陽の高熱はいかばかりか、原子核融合の凄まじきエネルギーの音響を最も遠くはなれた蕨がひそかにも聴き止めているというのである。蕨と言えば万葉集の〈石ばしる垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも〉の通り、かの渦を巻いた形状には、先駆けて芽吹くものの力強さがこもっている。作者は今、蕨になりきって、その静けさの中に立っている。
 二句目。赤い光を放ってやってくる火星、それも「夜な夜な」とは何ともリアルである。その接近をがちゃがちゃこと轡虫たちはひそかにも感じ取っているのである。がちゃがちゃの音色もまた夜々に大きく吉野の静寂を破っていたのであろう。
 三句目。冬場は最も雨量が少なく、川や池は水嵩が減り、川底が見えていたりする。周囲の草木も枯れ果てて、まことあたりは干涸びている。そんな風景に昼の月がまるで重量を失って浮力でもって懸かっているようだという。どうしてこんな捉え方が出来るのか。その不思議を問うてみたいものだが、これこそが、物との対話、その存在の語る言葉を聞きとめて、自然に言葉が出てくるという師の感性の鋭さであろう。
 俳句は「季語で決まり」、「助詞で決まり」そして、最後には「その人の持っているもんやね」と困ったような顔つきで言われたことがある。果たして大峯あきらは計り知れないものを持っている。
 宇宙は阿弥陀様と同義であろう。この真理は学問のそれとしても疑う余地はない。まさしく季語は宇宙へのパスポートになり得るのである。

  全集のフィヒテは古りぬ露の家  あきら
 第一句集に、〈フィヒテ全集鉄片のごと曝しけり〉がある。三十二歳の師が全集に対して突き刺さるような感覚を覚えられてから早や四十年の歳月を経て書棚に収まっている。「哲学の研究と俳句の実作は正反対の営みで、苦労の連続であったが、やがてヘルダーリンやハイデガーなどから学んだ詩の本質についての洞察に道が開かれてきた」との蛇笏賞受賞挨拶が偲ばれる。「古りぬ」はまた、人生のはかなさであろう。そんな「露の家」には風格が滲み出ている。一句の重みは大峯あきらならではのものであるが、そんな師が、

  初蝶の頃には逢はんかと思ふ  あきら   
と詠われると、うるわしい時空がどこまでもひらけていくような軽やかな思いに誘われもする。
 
 先に引用した「あとがき」は、こう締めくくられている。――「花と話ができるとよいな」と言うのは、鈴木大拙の言葉として知られています。最近の私にも、この思いは切実です。――
 この句集には、能登と前書きのある〈芳草の西田幾多郎生地なり〉がある。西田幾多郎と鈴木大拙は日本を代表する世界的な哲学者と宗教家であり、共に石川県の同じ年生まれ。大峯あきらにとっては、ご両人共に限りなく詳しく近しい存在であった。晩年の大峯あきらは着々と様々の仕事を成し遂げつつ、さらに無心に鈴木大拙と対話されていたのではなかろうか。


               


 秀句集

  雉鳴くやげんげ田に首浮かしつつ  二村結季
 吉野吟行の折など雉に出くわしても一瞬に見失ってしまう、いつかはしっかり見たいと願っていたが、何と掲句は紫雲英田に鳴いて現れたのだという。
「首浮かしつつ」と言われると、まさに目の当たりに見せてもらったような気分である。幸運なる出会いを的確に詠いあげて駘蕩たる詩情を醸し出している。

  奥つ城へ芒の坂を吹かれゆく  古舘千世
 少し高みの墓所へお参りに行くところ、折からの秋風に芒の穂が静かにも揺れている。何も言っていないが、その折の寂寥も、かの人へのよき思いも、すべては芒が密やかにも語ってくれている。                       

  鉄線花揃つてこちら向きにけり  松井あき子
 「揃って」、しかも「こちら向く」という鉄線花の把握は瑞々しくも手堅い。テッセンという響きの花ならではの明瞭なる印象を打ち出している。掲句から、山口青邨の〈窓ひらく鉄線の花咲きわたり〉が思い出された。両句とも平明にして透明感に満ちている。

  若返ることなどできぬ更衣  伊藤欣次  
 否定しているが実は若返りたいのである。時節らしく若々しくありたいという願いがあって、昨日とは一新すべく更衣するのである。更衣とはどういうものか、更衣を認識させるに充分の遠回しの一句が面白い。

  一点の雲広ごりて処暑の雨  松尾まつを
 処暑は八月二十三日の頃。さっきから不穏なる雲が一つ出ていたが終には雨を降らしたという。自然現象を描写して、暦通りの実感をもたらすものである。

 手花火やみんな不思議な顔となり  佐藤健成
  家族揃ってその手先に集中する手花火は鮮やかにも闇を照らし出す。子供たちの火花に吸い込まれてやまない様子が「不思議な顔」に言い尽くされている。

  揚羽来て庭木に風を起こしけり  奥山きよ子      
 風と共に庭にやってきた大きな揚羽蝶、その美しさにハッとした驚きがそのまま、「風を起こしけり」の感受になっている。作句のスピード感が涼しい。

  かの人の病は癒えて松の花  河野きなこ
 「かの人」が読者にもゆかしく思われるのは、安堵の気持ちを「松の花」に明らかに感じ入るからである。長寿の象徴である松に咲く花が何とも頼もしい。

  山小屋の一夜を共にはたた神  佐藤昌緒
 はたた神、そう雷さまと山小屋に一夜を共寝したというのである。凄まじいであろう雷鳴に息をひそめているエロス、それは敬虔なる祈りでもある。

 見るからに清楚なサマードレスかな  中澤翔風     
 「見るからに」という上五が中七下五を颯爽と引っ張って一気に読ませる。「清楚」もまこと清らにサマードレスに決着している。憧れのサマードレス。

  庭の木に鵯の卵や半夏生  石堂光子 
 半夏生は陽暦七月三日あたり。雨の日も多いこの頃、見つけたのは鵯の卵であった。鵯の卵と半夏生に何の因果関係もないが、半夏生の趣きが出ている。

  新茶汲む掛川城の奥座敷   平野 翠 
 掛川城は東海の名城である。そんな奥座敷にいただかれた新茶は掛川茶に決まっている。その味わいや香りのよろしさは無駄のない表現に滲み出ている。

  十二単庭の芝生に忍び寄る  加藤洋洋
 野草ながら十二単とは何とゆかしい名であろう。平安朝がイメージされるものである。そんな十二単がはびこってきた、そこを「忍び寄る」と言い切った詩心、まるでお姫さまがしずしずと寄り来るようではないか。
 
  秋の夜に母は一人で歌ひをり  市川わこ                
 母が歌うのは淋しいのだろうか、それとも楽しいのだろうか。いずれにしても秋の夜の情趣が、母をして歌わせしめているのである。温もりのある静けさ。

  雲海や飯盒飯の炊きあがり  冨沢詠司          
 雲海とは飛行機から見るものでなく、山の上から見下ろして雲が海面のように見える光景である。これぞ「雲海」というべき一句はまこと簡潔である。雲海の景観がどこまでも広がってゆくような気分が楽しい。

  女学生笑ひ転げて胡瓜かな  黒田珠水 
 何がおかしいのか、「胡瓜かな」には読者もまた笑い転げるほかないのである。無駄な説明や鑑賞など何も要らない。「俳句は韻文」という確かな認識を持つ作者の俳句からは、いつも笑いを誘い出されている。

  水打つて見る間に庭木立ちあがる  東小薗まさ一
 バケツかホースがたっぷりの打水であろう。庭木の緑が生き生きとしたところで、「庭木の立ちあがる」と言い切ったところに作者のやすらぎがある。

  ポケットに入れて犬の子冬隣  湯川桂香
 手のひらにあたたかい子犬の毛触りが心地よい。誰もが共鳴する実感に「冬隣」を付けた作者の感性が光っている。今という時を感じることが来たるべき時の思いに繋がってゆくのである。

  花四つどこも正面アマリリス  川井さとみ
 アマリリス、そう口遊むだけで甘やかな気分のする花である。よく見るとアマリリスのどの花もばっちり私の方を向いている。作者の眼はいつも輝いている。
 
  家見えてはたと重たき西瓜かな  小宮からす                 
 西瓜を頑張って運んで来たが、家近くになってぐっと重みがこたえたというのである。西瓜は重いという自明の理が、実感あるものとして打ち出された。

  半夏生母は農家の生れなり  長谷川美知江
 半夏生は農家では重要な節目であった。この日にタコが売り出されるのも、稲がタコの足のように根付きますようにという祈りだったと聞いている。「母は農家の生れなり」、半夏生を懐かしくも自身に引き寄せた。

  知らぬまに黴類食うて米寿かな  町田亮々
 黴は鬱陶しい梅雨時の象徴となっている。黴が菌糸であり胞子でもって繁殖することを思うと、まさに知らぬまに人の身に侵食しているのだが、黴にもめげず矍鑠として米寿を迎えられた。知らぬ間に食うた、即ち、知らぬ間に老いたのである。「黴が生える」どころか作者は冴えている。これに勝る目出度さはない。

 その他、注目句。
  画眉鳥が若葉の山によく鳴くよ  間  草蛙    
  込み合うて春の鴨ゐる鯉のゐる  山森小径   
  二つ星迎へ夜つぴて歌ひけり   石原虹子     
  百段登り切つたるパナマ帽    柴田博祥     
  囀や隣の墓は真新し       中原初雪
  霧襖いま雷鳥を見しといふ    森田ちとせ
  レースカーテン朝の電車の音強し 日下しょうこ
  火の気なき春の炬燵に足を入れ  伊藤 波   
  透かしては黄土の混じる露の玉  泉 いづ     
  台風の近づく匂ひ昼下り     田中朝子       
  打たせ湯の硝子の向かう青胡桃  木下野風   
  畦道を行くや二人の秋日傘    芳賀秀弥       
  掛筒に挿して傾く秋団扇     渡邉清枝   
  スカートの白きに止まる蛍かな  川北廣子   
  仏壇や朝一番の新茶の香     漆谷たから    
  空と雲きつぱり別れ夏来たる   神﨑ひで子      
  大山の鉄塔照るや牡鹿鳴く    加藤かづ乃       
  コスモスの赤一片をなくしけり  大村清和    
  ずぶ濡れに走る子犬や朝の露   岡本きさえ

「芳草集」は、巻頭・次席の他は句稿到着順、「青草集」は、上位十余の他は句稿到着順に掲載しています。

 

 
「青草」表紙について  松井あき子
 今号から表紙を一新した。表紙は俳句誌の顔である。青草創刊五周年記念号発刊を機に、表紙の変更について編集部で検討を重ねて来た。
 表紙絵はかねてより青草誌のイラストやカットでお世話になっている青草会員の黒田珠水さんに願いした。
 タイトルの文字は、墨書きでということで、思い浮かんだのは墨画家吟花さんである。毎年いただく年賀状は素晴らしい墨画である。華道家としてご活躍だが、吟花という雅号で墨画でもキャリアを重ねられて、六年前に奄美大島に移住された。
久々の電話での依頼を快く引き受けてくださり、「青草」に相応しい瑞々しくも勢いのある墨跡をいただくことが出来た。
 レイアウトは、佐藤昌緒さんが何種類もの組み合わせを作成してくださり新表紙が完成した。
 表紙の刷新をもって「青草」の一層の充実を目指すものである。              



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青草通信句会 2023年2月

2023年02月20日 | 俳句
 電車から、バスから、歩きながら、遠くの山近くの木々、
冬から春へ微妙な季節の移ろいを目に耳に感じながら。

草深昌子選 (順不同)
兼題「薄氷」

 

     鯉の口薄氷すーと連れてゆく     川井さとみ
 文字通り薄くも美しい薄氷がイメージされました。
「連れてゆく」も巧いです、「すーと」の表記がこれでいいのか、ちょっと悩みますが。

   裁ち板のヘリの節目や針供養   加藤かづ乃
 「裁ち板」とは忘れていました。古い言葉が懐かしいです、そういう措辞ならばこその「針供養」が身近に蘇ってきます。

  薄氷や畝にかつちり鍬の型   かづ乃
 俳句の形式、俳句の「型」を文字通りかっちり使い切りました。極寒の氷とは違った春先の氷が寒の戻りの中によく観察され、読者の想像力をさそいます。

   寒晴や鳥除けの缶よく鳴つて   石堂光子
 鳥除けの缶の音はいくつか重なりますと結構いい音ではないでしょうか。寒晴がスカッとしています、何とも心地よい一句です。

   上越の山に陽が射す雪の原   町田亮々
 「上越」というよき語感が、「雪の原」を広やかに美しく引き寄せてくれます。〈上越の山に日の射す雪の原〉、「の」の連続も弾みがあります。

  少年に遅き二月のお年玉   湯川桂香
 何らかの事情でお正月に渡せなかったお年玉。お年玉という季語は新年のものと決め込まないで柔軟に詠いあげたところ楽しいです。

  鉄柵に獣突つ込む寒波かな   泉 いづ
 上五中七を読み下ろし、まこと「寒波」であるなあと、ひしと実感されます。具体的に「猪(しし)の突っ込む」とする手もありますが、作者は「獣」を選択されたのでしょう。「鉄柵」も寒波によく呼応します。

   薄氷の下に何やら動くもの    松井あき子
 「何やら」と言いますと実体がはっきりしないものですから、俳句表現らしくなり、手練(てだれ)とも言えますが、この句の中では薄氷の透明感を見せて、春の息吹を思わせます。

   踏み外す畦のやはらや薄氷   森田ちとせ
 薄氷のありようが眼に見えるようです。「踏み外す」という瞬間、「畦のやはらや」という実体験の感覚、それらは、薄氷を背景とした早春の気配を広やかになお明らかに詠いあげています。

   大寒の頬さすりつつ目覚めかな   川北廣子
 大寒の日は節季通りの寒さであったのでしょう。中七の正直なことばが実感を伝えます。難しい言葉を使わないで一句のすがたが大ぶりになりました。

   薄氷を触りたき子の指の先 からす
 当り前のようなところを詠っていますが、下五「指の先」まではなかなか言えません。躊躇している指の動きを通して生き生きとした薄氷を見せます。

  

  薄氷に蓮の骨を立てにけり    昌子
  春待たる肥やしを積んで縁の下 昌子
  焚火跡孔雀の檻の前にある 昌子

 

令和5年2月青草通信句会講評・草深昌子

 2月の兼題は「薄氷」でした。
1月も末に、光則寺でこれぞ薄氷を見ました。蓮を植えた大きな水甕が三つ、そのどれにもうっすらと一面に氷が張っていたのです。そこには蓮の骨とも言われる枯れ切った茎が突っ立っていました。
 思えば寒の内ですから冬の氷そのものなのですが、「わっ、うすらい!」って声をあげて、同時に素十の句を思い出していました。
  泡のびて一動きしぬ薄氷   高野素十
 この擬人化した表現はどうでしょう。ほのかなる空気感もまた春浅き頃のものとして感嘆するばかりでした。甕の如き小さな天地にも冬から春へ選手交替の時期がやってきたのです。  
さて、私にとっての「薄氷」といえば、次の句です。
  たわたわと薄氷に乗る鴨の脚   松村蒼石
 「雲母」から始まった私の俳句歴のなかで、飯田龍太がその自然観照の冴えを絶賛してやまなかった松村蒼石の代表句です。
 この句も冬の季題「鴨」の中に、春の到来たる「薄氷」を「たわたわと」見事に描写しています。池の中にも季節の移りがやってきました。この「たわたわと」は、生き生きとした動きや音やたおやかさが理屈なく読み手の感覚に伝わってきます。

 そこでこの擬態、擬音、つまりオノマトペは詩歌文芸表現の大きな武器の一つであることを再認識しました。
  春の海終日のたりのたりかな     蕪村
  をりとりてはらりとおもきすすきかな 飯田蛇笏
  せりせりと薄氷杖のなすままに    山口誓子
  チチポポと鼓打たうよ花月夜     松本たかし
  鳥渡るこきこきこきと罐切れば    秋元不死男

 風はひゅうひゅう、雨はしとしと、雪はしんしん、雀はちゅんちゅん、これらはすべて散文の常識です。オノマトペというのはこれらの真逆です、お手軽なものではありません。〈ひらひらと月光降りぬ貝割菜〉の「ひらひら」など繰り返しでは常識的な表現もあります。
 要は、自分自身の感覚を磨いていくことが一番です。


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草深昌子を中心とする句会・選後に(令和5年1月)

2023年02月10日 | 俳句
草深昌子選
 
   
 

      病院のスタバ賑はふ松の内   奥山きよ子
 正月の門松は、大阪では14日まで立てていたが、東京に引っ越して6日になった。
 当時は折角のものを早々に外すのはもったいない気がしたが、今や飾りも簡素になり、そもそも正月気分そのものもなくなってしまった。
そんな松の内の実景の一つが掲句である。
病人やその関係の人たちには松の内も、外もないだろうが、病院内にあるスタバにはやはり松の内ならではの独得の雰囲気が醸し出されているのだろう。
街のそれとは違うが、スタバの賑わいは束の間の癒しの場として、快方の明るさを思わせるものがある。
それにしてもスターバックスことスタバが、俳句の素材としてすっかりなじんできたことを面白く思う。

       降る雪や父が一人の家明り  きよ子
 「降る雪や」、上五の余韻がしんしんと雪を降らせて淋しいが、
 遠く見て父のいる家にぽっと明かりのともっていることを見届けた作者の安堵。

       小寒や氏子総出の金種分け   神﨑ひで子
 小寒の日、つまり寒の入りである。24節季の一つで1月5日頃。
 折柄、「氏子総出の金種分け」とは何と面白い場面であろうか。
 聞けば想像通り、賽銭箱の中身をそっくり広げて、お札やら、硬貨の数々を仕分けしつつ総計を出すのだとか。
 これをもって地元の寺社の、正月詣も一段落であろう。
 さてまた厳しい寒気のなかに、人々の礼拝は絶えることがない。

       餅花に出しなの袖の触るるかな   二村結季
 餅花は餅切れをいっぱいつけた正月の飾り物で、文字通り花が咲いたように美しい。
「出しな」は今ちょうど出かけようとする時という意味で、「出がけ」と同義であるが、
「出しな」というちょっと引き伸ばしたような、みやびな言葉の感覚が、ふと「触るる」にいかにもかなっている。
 餅花もろともに、心の弾みがあでやかに浮かび上がってくるものである。

       女体群すりぬけて来し夢祝ひ   伊藤欣次
いきなり「女体群」とは圧倒されて、なんだろう、と思う。
そこを「すりぬけて」来たのだという、場面の想像を働かせるいとまもなく一句は「夢祝ひ」と決着する。
 なあんだ夢だったのか、それにしても堂々たる「夢祝ひ」が決まっていることよ、と思わず喝采したくなった。
 「初夢」では、このフレーズは持ち堪えない。
 かつて、京都の寺社の宝船の絵を枕の下に敷いて寝たこともあったが、夢に遊ぶ楽しさは正月ならばこそのものである。
 初夢には掲句ほどの大胆さがあってもいい。
 初夢の句といえば、〈初夢に見し踊子をつつしめり 森澄雄〉、〈初夢の扇ひろげしところまで  後藤夜半〉、
 等のほんのりした色気がよかったが、今や夢さえも真に迫ったものの方がよろしいようで。

 


       降り積もる雪に顔出す雪達磨   佐藤昌緒
 雪達磨の句も多々見てきたつもりであるが、「雪に顏出す」とは、思わずなるほどと大きく頷いたものである。
 東京では雪達磨を作ったとしても翌日には朝日燦燦たるもので、掲句のような景にはなかなか出くわさない。
 降りはじめると降ってやまない雪の中にあって、この雪達磨はいよいよふくらんで、腰を据えてもいるだろう。

       一限目田んぼ貸切り雪遊び   冨沢詠司
 なつかしの小学校時代であろうか。無論、目下の雪国の光景でもあろう。
 何とも伸びやかな「雪遊び」である。
 「雪投げ」「雪礫」「雪合戦」はもとより、「雪兎」「雪達磨」に余念のない子もいるだろう。
 雪月花という日本の四季の、日本人の心の風雅の根幹がこんなところから形成されていくのだろう。
 やがて、〈雪とけて村一ぱいの子どもかな  小林一茶〉である。

       煮凝をサイコロ状に分けにけり   関野瑛子
 煮魚を一晩おくと、煮汁が固まって、「煮凝」ができる。
 作者はそんな煮凝をサイコロ状に切り分けたというのである。
 一句はそのままで何の解釈もいらないものであるが、そのことがまた鮮やかな驚きとなって受け止められる。
 思えば、暖房の整わない昔の暮らしには、魚ごと鍋にかたまった煮凝を毎朝のようにこそげていた祖母がなつかしく思い出される。
 掲句は箱に流しこんで大きく綺麗に仕上げた煮凝であろうか。何やら西洋風の高級料理の一品が仕上りそうである。

       補聴器や咳の雑音もの凄く   町田亮々
「補聴器や」といきなり打ち出した俳句を見たのは、私としては、はじめてである。
 およそ俳句に似つかわしくない補聴器が、作者にとっては一大事なのである。
 だからこその上五である、しかも「や」という感嘆がすばらしい。
 はるばる補聴器をつけて出かけて、とある駅に降り立ったら、山裾の寒気に思わず咳込んだというのであろう。
 その時の「雑音もの凄く」は、感受したそのまんまであろうが、これまた一句のとどめを見事に決めている。
 およそ「咳」という、一瞬の刺激を瞬時に放出するも強烈なる息であるからには、
 投げ捨てるごと言い切ってしかるべき、心象もろともに読者に響いてやまない句である。

   


  人日の歩道や箒置忘れ  日下しょう子
  初句会橙色の短冊来   芳賀秀弥
  パンプスのつやつやとして初句会   小宮からす
  封切つて飴の飛び出す咳ひとつ    松井あき子
  雪の山ふたたび雲の中にあり   川井さとみ
  冬晴や昼の三時に月が見え   黒田珠水
  糞つけてまだ温かき寒卵   古舘千世
  家に居て男一人や女正月   中原初雪
  慎重に表紙外すは初暦   長谷川美知江
  髭の濃き自画像寒の無言館   東小薗まさ一
  をさな子と手を合はせたる初日かな   石堂光子
  雪見障子開けば雪は止みてをり   佐藤健成
  読初の旅のページや海の色   渡邉清枝
  雪の日や鳥はまあるく吾もまるく   海内七海
  失せものは炬燵布団に現るる   間草蛙
  読初の古書の埃を払ひけり   中澤翔風
  雪降りて眠るが如き庭の木々   矢島 静
  雪掻きの音にせかされ門を出る   鴨脚博光
  とりあへず米研いでゐる三日かな   山森小径



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WEP俳句年鑑 2023版  

2023年02月08日 | 俳句

自選七句

木々高く藪の大きく氷かな    草深昌子(青草・晨)
蛭子てふ社のあはれ日向ぼこ
遠足のどつと笑ふは代官所
春林のどこやら星のにほひせる
年寄りの四月ひまなき花の世話
手箒を石に遣うて花は葉に
とある日や寄席に笑うて章魚食うて


宰相の揮毫あざやか竹の春     川北廣子(青草)
をさな児の靴の片方返り花
底冷えの遺影の部屋の灯りかな
大き鈴付けて下校や草青む
広き畝種置くやうに花の散る
百獣の王の居眠り桜まじ
離陸するJALの三機や猫じやらし

山小屋の一夜を共にはたた神    佐藤昌緒(青草)
竹伐つて竹の始末の匂ひかな
蟷螂の影や紳士のごとくあり
鶏頭の赤や夕日の傾きて
蹴伸びしてプールの底に光かな
カーテンを繕ふ一日半夏生
松の花高きにあるや寺の門

元日の富士へ落ちゆく日なりけり  二村結季(青草)
道を掃く男同士の御慶かな
寒の水汲むやすぐさま牛のこゑ
ぽくぽくと菊菜折りとる真昼かな
いつせいに羽ばたく構へ葉鶏頭
毬栗を受くや男の帆前掛
鳥帰る寺の布袋のうすぼこり

信楽を終の住処と初便       松井あき子(青草)
植込みのこんな所に蕗の薹
ポピー咲くぷいつと殻を脱ぎ捨てて
十月や立体となる案内状
銀杏散る渦の真中にただ一人
ふつくらと包み千両持たさるる
一升餅背負ひ一と泣きクリスマス

慰霊の日みんみん蝉は静かなる   松尾まつを(青草)
せめぎ合ふ二川の水や雲の峰
一点の雲広ごりて処暑の雨
開式を告げる花火や音三つ
手花火の垂れ玉水に落つる音
疲れ目に浮きあがりたる水中花
梵鐘の響く地平やちちろ虫





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