令和4年8月、青草12号が発刊されました。
withコロナの状況で、依然として不安を抱えながらそれでも、
句会の日常がまた戻って来ましたことは大いなる歓びです。
その成果の一部をご紹介します。


青山抄 草深昌子
とある日や寄席に笑うて章魚食うて
夏や鳥水に映りて空をゆく
炎天や根から傾ぎて幹太く
年寄のひと躓きを茅の輪かな
撫物やきのふは蜂に刺されたる
炎天を来たる男のつつましく
毛虫ゆくエスカレーターゆくやうに
蒲に穂の出かかつてゐる蜻蛉の子
丘に見て向かうも丘の茂りかな
片陰や赤い服着て年老いて
今さらに椨は大木南吹く
十年をけふ一日の簾垂れ
扉は鉄の壁は煉瓦のゼラニウム
竹の葉の散るや蝲蛞一つ釣れ
アロハシャツ八幡さまに馴染みたる
虎の画をかけてありけり黴の宿
上水の底に日の差す枇杷黄なり
太宰忌の昼ごろ酔うて港かな
雨のほか音なかりけり黐の花
蝙蝠の飛んでディズニーランドかな
老醜のなんぢやもんぢやになかりけり
手帚を石に遣うて花は葉に
遠足のどつと笑ふは代官所
つちふるや一つ島もて一つ国
人々は橋にたかるや蜃気楼
しやぼん玉吹くとき風の港かな
三日月の落ちてきさうな春祭
笠欠きて石灯籠や鳥雲に
黄心樹の咲いて鰐口また鳴つて
春林のどこやら星のにほひせる
夏や鳥水に映りて空をゆく
炎天や根から傾ぎて幹太く
年寄のひと躓きを茅の輪かな
撫物やきのふは蜂に刺されたる
炎天を来たる男のつつましく
毛虫ゆくエスカレーターゆくやうに
蒲に穂の出かかつてゐる蜻蛉の子
丘に見て向かうも丘の茂りかな
片陰や赤い服着て年老いて
今さらに椨は大木南吹く
十年をけふ一日の簾垂れ
扉は鉄の壁は煉瓦のゼラニウム
竹の葉の散るや蝲蛞一つ釣れ
アロハシャツ八幡さまに馴染みたる
虎の画をかけてありけり黴の宿
上水の底に日の差す枇杷黄なり
太宰忌の昼ごろ酔うて港かな
雨のほか音なかりけり黐の花
蝙蝠の飛んでディズニーランドかな
老醜のなんぢやもんぢやになかりけり
手帚を石に遣うて花は葉に
遠足のどつと笑ふは代官所
つちふるや一つ島もて一つ国
人々は橋にたかるや蜃気楼
しやぼん玉吹くとき風の港かな
三日月の落ちてきさうな春祭
笠欠きて石灯籠や鳥雲に
黄心樹の咲いて鰐口また鳴つて
春林のどこやら星のにほひせる
(俳句誌「青草」2022年秋季 第12号所収)
青草往来 草深昌子
俳句は読者の想像力によって成り立ちます。作者は少ししか言えませんから、読者のよき鑑賞を得て初めて一句は成就するのです。私は、一句における作者の力は50%、選者の力が50%、合わせて100%だと思っています。極端かもしれませんが、これは私自身が拙い句を選者によって蘇らせていただいた体験を沢山もっているところからくる率直な思いです。
花散るや何遍見ても蔵王堂 昌子
大峯あきら先生に初めて花の吉野にお連れいただいた時の吟行句です。錚々たる俳人十数名の中で大峯先生だけが採って下さいました。言葉を尽して褒めていただきながら覚えているのは「花が咲いているのでなく花が散っているのがいい」と「一見稚拙に見える表現が生き生きと蔵王堂を捉えた」というところです。実は、「何遍見ても」なんて、果たして俳句になっているかしらと恐る恐る出句したもので、そのヘタクソがいいのだと言われますとまさにガッテンではありませんか。選評のあと、同席した方々からも「この句良かった」と共鳴していただけたのも嬉しいことでした。
自句を持ち出しましたのは、俳句は選者のおかげで一句になるという実例を示したかったのです。
大峯先生の教えは、新鮮な詩の出て来る源は自己中心の眼鏡を捨てて自然のなかに自分の心を開放するところにあるというのですが、こんなセオリーも選を通しておぼろげながら分かってきたような気がします。
もとより褒められるばかりが能ではありません。
選者に選ばれることなく、批判を仰いでこそ俳句の真価は発揮されてゆくのでしょう。どんな意見も素直に受け入れたいものです。
高浜虚子に「句を選まぬ親切」という文章があります。「~――価値の少ない句を選んでその人に安易な満足感を与えるほど、その人に対する不親切はないと思う。断じてそれを選まなかったことこそその人に対する本当の親切であらねばならない。句を選まないという親切が分かるようになれば一人前である――~」
今さらながら、虚子ならでは言葉が心に響きます。
芳草集
ひよいと乗る人日のエスカレーター 山森小径
大寒や枝を尾羽でたたく音
心なし手に艶のあり寒の明
建国日ゴミ収集車来たりけり
たんぽぽの花の地べたに張りついて
お砂場のみんなで作る春の山
梅雨出水灯す真昼のヘッドライト
寒明けの港の夜景月白く 古舘千世
風花や父の送金父の文
百千鳥下校の子等の口喧嘩
三度目の甥の結婚ラフランス
ビル街にのこる八百屋や秋夕焼
落葉踏み流るる落葉見てをりぬ
初茜風に乗り来る夫の声
青草集
をさな児の靴の片方帰り花 川北廣子
宰相の揮毫あざやか竹の春
片付かぬ遺品の嵩や去年今年
底冷えの遺影の部屋の灯りかな
寒風に押され信号待ちにけり
冬の灯や一合の粥炊き上がる
大き鈴付けて下校や草青む
頼りなきもの押し合うて枇杷の花 泉いづ
求人の札やふやけて冬に入る
看護師の冷たき指になすらるる
昆布巻のほどけて和む年始
巻尺を引き出すごとし去年今年
手を合はせ開きしほどの日記買ふ
盤石の爪の隙間やすみれ草
大峯あきらのコスモロジー 草深昌子
―私を映してくれる宇宙の愛に応えて、私の方からも無心に宇宙を映したい。わが俳句は宇宙とのそういう交流であって欲しいーそうあとがきに記された、大峯あきらの第六句集『宇宙塵』は、第四十二回俳人協会賞を受賞された、時に、氏は七十三歳であった。
大峯の考えは、ハイデッカーという現代屈指の哲学者が発掘したヘルダーリンの言葉「いさおしは多い、だが人はこの地上に詩人として住んでいる」という言葉の通りであった。これは、つまり人間のほとんどは功績をあげるために生きているが、人は「詩人として」生きている、詩を職業としてという意味ではなく詩的な生き方、功績を目的としないというものである。句集を作ることが句作の目的ではない、賞を貰うことが目的ではない、そういう目的意識を忘れたときに、詩人が本当に詩人として生きるのだというのであった。
そういう氏にふさわしいと言うべきかどうか、この受賞を皮切りに、八十二歳にして第八句集『群生海』で毎日芸術賞、詩歌文学館賞、八十六歳にして第九句集『短夜』で蛇笏賞、小野市詩歌文学賞を受賞、その晩年は受賞ラッシュであった。
大峯の考えは、ハイデッカーという現代屈指の哲学者が発掘したヘルダーリンの言葉「いさおしは多い、だが人はこの地上に詩人として住んでいる」という言葉の通りであった。これは、つまり人間のほとんどは功績をあげるために生きているが、人は「詩人として」生きている、詩を職業としてという意味ではなく詩的な生き方、功績を目的としないというものである。句集を作ることが句作の目的ではない、賞を貰うことが目的ではない、そういう目的意識を忘れたときに、詩人が本当に詩人として生きるのだというのであった。
そういう氏にふさわしいと言うべきかどうか、この受賞を皮切りに、八十二歳にして第八句集『群生海』で毎日芸術賞、詩歌文学館賞、八十六歳にして第九句集『短夜』で蛇笏賞、小野市詩歌文学賞を受賞、その晩年は受賞ラッシュであった。
よそほへば病なきごと妻の秋 あきら
俳句門外漢が一集の中で、この句が好きだと言っていることを師に伝えると、「あの句ねえ、いいと言う人結構多いのよ」とちょっと感慨深げであった。
坊守さまである奥様はいつも元気溌溂、聡明この上なく包容力の大きな方であった。平成九年のこの頃に難しい病をかかえておられことはうかがっていた。
妻を直に詠った句は珍しいが、いかに師は妻を愛しておられたか、妻が頼りのようであった。なぜか読者はそれを感じることができるのである。「妻の秋」、この季題をもって個人的な妻が普遍性をもった妻としてかがやいているのではなかろうか。
坊守さまである奥様はいつも元気溌溂、聡明この上なく包容力の大きな方であった。平成九年のこの頃に難しい病をかかえておられことはうかがっていた。
妻を直に詠った句は珍しいが、いかに師は妻を愛しておられたか、妻が頼りのようであった。なぜか読者はそれを感じることができるのである。「妻の秋」、この季題をもって個人的な妻が普遍性をもった妻としてかがやいているのではなかろうか。
初空といふ大いなるものの下 あきら
元日の白雲すみやかに通る
前の世もその前の世も飛ぶ蛍
時鳥啼けば人死ぬ在所かな
名月やひとり老いゆく峰の松
鳥雲に今もひとつの室生道
蜩の一本道を来りけり
星一つ連れて上りぬ寝待月
満月はのぼり落葉はさかんなり
一句目、「悠々たる初空は、肉眼に見える永遠である。この大いなるものの下では、人間の心配も気休めも何ものでもない」という自解がある。平成十一年作から、十数年後のことであるが、奥様は寝たきりの病床につかれてしまった。氏は看取りつつも、大きな命によって生かされているのだから、これでいいという肯定、ノープロブレムという生き方を貫かれたのであった。
人は生まれて老いて死んでいく存在であるが、死んでも自然の命の中に帰ってゆく。死ぬときは死ぬのではあるが、この世にある時だけが命ではないという、死んでも死なないのだという、そんな俳人の思いが宇宙と共にあってどの句も安らかである。
人は生まれて老いて死んでいく存在であるが、死んでも自然の命の中に帰ってゆく。死ぬときは死ぬのではあるが、この世にある時だけが命ではないという、死んでも死なないのだという、そんな俳人の思いが宇宙と共にあってどの句も安らかである。
末枯の夕日の前にゐる子かな あきら
茶の花にまだまだ沈む夕日かな
狐罠かけて夕日を大きうす
夕日さす書棚の端や松の内
金屏にしばらく夕日松の内
金星の生まれたてなるとんどかな
落日のひつついてゐる氷柱かな
自然観照の冴えにあって、ことのほか夕日が美しい。日の入る頃が山川草木との最もよき対話時であったのかもしれない。一瞬たりともとどまらない時を掴んで、その光芒を読者に見えるように差し出さている。
無作為に引き出してみたが、みな冬季であった。なるほどその明らかなる夕日の色彩は冷え切った大気あってこそのものかもしれない。
これ等の句の底には虚子の花鳥諷詠の思想が宿っている。芭蕉、子規、虚子を尊敬してやまない大峯の思想は大峯顯著『花月のコスモロジー』にくわしい。
又、意識してこさえた「為す句」はだめで、自然に生まれた「成る句」がいいのだという芭蕉の言葉をよく引き合いに出されたが、事実、氏は実作に於いて、哲学や宗教を持ち出されることは一切なかった。とは申せ、氏の物思いの中に磨きぬかれた学問や思想が金城鉄壁となっていることは隠しようもなかった。さりげない言葉が何の構えもなく必然のようにそこに収まって、まさにどの句も「成った」ものである。「どこからかしらやってきた」言葉を、黙って書き留められたであろう静けさに満ちている。
古町に古き菓子買ふ竹の秋 あきら
みどり子の匂ふ二日の日向かな
歯朶の塵こぼれて畳うつくしき
桃に色来そめし美濃の奥にあり
書く文の長くて草は芳しき
水仙を切れば霙にかはる雨
鈴鳴つて秋草を剪る鋏かな
まな板に置けば匂ふや寒の芹
一句目は平成十二年、私が初めて師と歩かせていただいた奈良県宇陀市の吟行の句である。何気ない句であるが、「竹の秋」に見合うものとして「古町に古き菓子買ふ」がついているのではなくて、「竹の秋」という季語が一句のテーマになっているものである。
この邂逅以来、二十年という長きにわたって、吟行や句会でご一緒させていただき指導を受ける中で、実作のみならず、何より氏の選句の確かさに触れて、目から鱗が落ちる思いを何度したことであろうか。
二句目以降、どの句もさりげないが、しみじみと読者の胸に下りて来る。作者の意識的な彩色はどこにもなく、自然そのものの詩情が行き渡っている。
「平明にして余韻ある」という俳句文芸の古今を貫く法則があらためて確認される。
俳句に向う氏の姿勢は、どっぷりと季節感に浸ることであった。そして俳句は季語で決まりという確信があって、歳時記を手放されることはなかった。
この頃であったろうか、晨同人堀江爽青氏の〈峠まで来てしまひけり桜狩〉に対する選評が忘れられない。
―事実だけを素朴に太い線で描く、爽青流。味もそっけもない、しかしこの句をもの足りないと思う人は句の表面の単純さに惑わされて句の深みから立ち上がるおのずからなる詩情というものを感じ取れないから。自分の心ではあまり感じてないことを言葉だけで大げさに飾り立てる競争が現代俳句の傾向。虚子が「自分が本当に感じたことを素直に言うのが俳句です」―詩の生れるところはどこかという大切なこと。―
この選評は、大峯あきら自身の俳句のありようを、図らずも語っておられるのではないだろうか。
歯朶の塵こぼれて畳うつくしき
桃に色来そめし美濃の奥にあり
書く文の長くて草は芳しき
水仙を切れば霙にかはる雨
鈴鳴つて秋草を剪る鋏かな
まな板に置けば匂ふや寒の芹
一句目は平成十二年、私が初めて師と歩かせていただいた奈良県宇陀市の吟行の句である。何気ない句であるが、「竹の秋」に見合うものとして「古町に古き菓子買ふ」がついているのではなくて、「竹の秋」という季語が一句のテーマになっているものである。
この邂逅以来、二十年という長きにわたって、吟行や句会でご一緒させていただき指導を受ける中で、実作のみならず、何より氏の選句の確かさに触れて、目から鱗が落ちる思いを何度したことであろうか。
二句目以降、どの句もさりげないが、しみじみと読者の胸に下りて来る。作者の意識的な彩色はどこにもなく、自然そのものの詩情が行き渡っている。
「平明にして余韻ある」という俳句文芸の古今を貫く法則があらためて確認される。
俳句に向う氏の姿勢は、どっぷりと季節感に浸ることであった。そして俳句は季語で決まりという確信があって、歳時記を手放されることはなかった。
この頃であったろうか、晨同人堀江爽青氏の〈峠まで来てしまひけり桜狩〉に対する選評が忘れられない。
―事実だけを素朴に太い線で描く、爽青流。味もそっけもない、しかしこの句をもの足りないと思う人は句の表面の単純さに惑わされて句の深みから立ち上がるおのずからなる詩情というものを感じ取れないから。自分の心ではあまり感じてないことを言葉だけで大げさに飾り立てる競争が現代俳句の傾向。虚子が「自分が本当に感じたことを素直に言うのが俳句です」―詩の生れるところはどこかという大切なこと。―
この選評は、大峯あきら自身の俳句のありようを、図らずも語っておられるのではないだろうか。
国境の冬日まいにち沈みけり あきら
冬日落つラインの鷗狂ふとき
先日、読売新聞に九十歳の詩人谷川俊太郎が現役ばりばり、詩集もよく売れて快進撃を続けているという特集が掲載された。谷川氏は二十歳のデビュー当時から、人間には他者と関わる「社会内存在」と「宇宙内存在」という二面性があるが、自分は宇宙内存在、他人が全部消えて自分一人になったもの、単独の人間として宇宙と対峙して宇宙を感じる、そういう感覚があったと語っていた。詩人は以来、同時代の主流などには関心がなく、自分の書きたいものを自然に書いてきたという。六十年安保の時代など詩人の活躍は活発だったが、谷川は「ある立場に立って反対というような詩は書かなかった。詩にできなかった、という表現の方が合っている」と語っている。
大峯あきらは谷川俊太郎と二歳違い、やはり詩人として生きてきた二人の姿勢はよく似ている。
大峯あきらも終生自身の俳句信念を曲げることはなかった。最期の最期まで闘志満々であったと感じ入るばかりである。
冬日落つラインの鷗狂ふとき
先日、読売新聞に九十歳の詩人谷川俊太郎が現役ばりばり、詩集もよく売れて快進撃を続けているという特集が掲載された。谷川氏は二十歳のデビュー当時から、人間には他者と関わる「社会内存在」と「宇宙内存在」という二面性があるが、自分は宇宙内存在、他人が全部消えて自分一人になったもの、単独の人間として宇宙と対峙して宇宙を感じる、そういう感覚があったと語っていた。詩人は以来、同時代の主流などには関心がなく、自分の書きたいものを自然に書いてきたという。六十年安保の時代など詩人の活躍は活発だったが、谷川は「ある立場に立って反対というような詩は書かなかった。詩にできなかった、という表現の方が合っている」と語っている。
大峯あきらは谷川俊太郎と二歳違い、やはり詩人として生きてきた二人の姿勢はよく似ている。
大峯あきらも終生自身の俳句信念を曲げることはなかった。最期の最期まで闘志満々であったと感じ入るばかりである。
秀句集 草深昌子
建国日ゴミ収集車来たりけり 山森小径
建国記念日は、二月十一日。「日本書紀」に神武天皇即位とされる日を陽暦に換算した日であり、明治五年に紀元節と名付けて建国祝日と定めたという。
過去には〈人の世になりても久し紀元節 正岡子規〉、〈大和なる雪の山々紀元節 富安風生〉、〈いと長き神の御名や紀元節 池上浩山人〉等、例句は厳かである。
令和の今を生きる作者は、〈ゴミ収集車来たりけり〉、ただそれだけである。当り前のようでありながら日常に繰り返しやってくるものの有難みをふと確認したのは、建国日ならではのことだろう。紛れもなくこの国を愛しているのである。
大き鈴付けて下校や草青む 川北廣子
鈴に触発されたかのように青草が輝いている。下校の子等は開放感にあふれていて、仲良しの楽しさがその音色に溢れているのだろう。そう、チリンチリンよりシャンシャンシャンと響いていそう。
古来、鈴は魔除けではあるが、ここ丹沢山麓辺りでは熊除けの鈴として昨今は必携になっている。
手を合はせ開きしほどの日記買ふ 泉いづ
日記を買うのは原則年一回のこととて、どんな日記を買おうかと文具屋であれこれ迷うのも年末の楽しみの一つである。
さて、作者の選んだものはというと、何ともささやかなものであった。だが、ここには自身の手をもって明日を切り開いてゆくのだという意志の確かさがある。手を合せただけでなく、開いてみたほどの大きさが秀逸。
毬栗を受くや男の帆前掛 二村結季
米屋か、酒屋か、かの仕事着の帆前掛が掲句に鮮やかに蘇った。栗の木のもとの栗拾いであろうか、店舗の裏手であろうか、さまざまのシチュエーションが思われるが、栗のイガイガにかなうのは帆前掛であろう、しかも「男」が頼もしいではないか。
毬栗のとげの感触を文字通り帆前掛のそれに包み込んだものである。
寒明や立たざる足のすつと立ち 石原虹子
これぞ「寒明」である。厳しい寒さを耐えてきた、そんな切ない思いがこもっている。虹子さんは骨折のため旧臘からリハビリを頑張っておられたが、寒明の今日、思わず真っ直ぐに立ち上ったのである。
人の生涯はまさに季節の推移にゆだねられているということの証のようではないか。多くの仲間が励まされた一句である。
米屋か、酒屋か、かの仕事着の帆前掛が掲句に鮮やかに蘇った。栗の木のもとの栗拾いであろうか、店舗の裏手であろうか、さまざまのシチュエーションが思われるが、栗のイガイガにかなうのは帆前掛であろう、しかも「男」が頼もしいではないか。
毬栗のとげの感触を文字通り帆前掛のそれに包み込んだものである。
寒明や立たざる足のすつと立ち 石原虹子
これぞ「寒明」である。厳しい寒さを耐えてきた、そんな切ない思いがこもっている。虹子さんは骨折のため旧臘からリハビリを頑張っておられたが、寒明の今日、思わず真っ直ぐに立ち上ったのである。
人の生涯はまさに季節の推移にゆだねられているということの証のようではないか。多くの仲間が励まされた一句である。
煮凝や喉に解けてしみじみと 佐藤昌緒
煮凝は煮魚を一晩仕舞っておくと、煮汁が固まるもので、寒冷の気候と共になつかしい味わいがある。
戦後のつつましい暮らしを代表するような惣菜の印象ではあるが、今や人工的に作って高級和食にもなっているようである。いずれにしても、「しみじみと」には咽に解けながら、心にもしんみりとしみるような食感のありようが明らかである。
このところ少しづつ色青木の実 森田ちとせ
青木は庭の片隅にあって地味な木である。ところが冬になると俄然その真っ赤な実をもって侘しい庭を引き立ててくれる。秋には実を結んでいたもののなかなか熟さなくて、やっと色づき始めたのである。
「このところ」には、心待ちの喜びがさりげなく表出されている。季題に心入れが十二分に行き渡っている好句である。
ソバージュの詩人に会うて一葉忌 奥山きよ子
樋口一葉の生涯を知る人にとっては、この「ソバージュの詩人」ほどそぐわない措辞はないであろう。まさに、そこのところが一葉忌の句として抽んでている句だと思う。作者の胸中には明らかに一葉が蘇ったのである。
もとより、ソバージュの詩人もまた作者にとって興味津々に惹かれる詩人であろう。
ふつくらと包み千両もたさるる 松井あき子
冬の寒さや寂寥の中で真っ赤な実をつける千両ほど目出度さを誘われるものはない。友人の庭にある見事な千両の実に見惚れていると、切りとって下さった。そうして新聞紙かそれとも和紙か、くるくるとまこと手際よく包み上げてくださったのである。
「ふっくらと包み」には、手渡されたときの驚きや感触までもが読者に伝わってくる。何より包みの中の実千両のありようが明らかである。
小なりと言へども初荷電子辞書 中原初雪
初荷というものが新年のはじめにふさわしい華やかな荷物、大層なものであることを承知している、そこを認めながらも自身の初荷で押し切った句である。些少なるものを初荷として言い切るには、「小なりと言へども」と、先手を打つほかなかったのである。
作者は電子辞書に心の中で紅白幕を張って、今年の俳句の成果を願われたに違いない。理屈っぽく詠っているようにみえて、その内容は実に率直で面白い。
生ひたちをはじめて聞蓬餅蓬餅 伊藤欣次
日当りのいい縁側で、いつもさり気なくお付き合いしている方々と蓬餅をいただいている光景。蓬の色合いや香りからついつい昔話に、また田舎のこと、はらからのことに話しが及んで、思いがけずその人の生い立ちを知ることになったのであろう。どんな生い立ちかは詮索する必要はない。自慢することでも卑下することでもなく、いまここに在ることの幸せをしみじみと感じ入るものであったに違いない。
作者は何も言っていないが、深く頷かされるものがあったことを「蓬餅」に語らせている。
早春の午後の薄日の机上かな 渡邉清枝
「の」を三つ畳みかけて、上から下まで十七音をひと息に読み下ろすように仕上げている。さり気なくも、よき余韻をひいて、もう一度読み直したくなるものである。「午後の薄日」は、写生の眼が的確である。
入口に泥つき葱は立ててあり 芳賀秀弥
掘りたての泥付き葱、それもびっくりするほどの太さであろうか、玄関かどこか入り口のところに誰かが立てかけて置いていってくれたのである。素朴にもシンプルな表現はいかにも葱にかなっている。
マラソンの足を止めたる冬の蜂 平野翠
冬の蝶は弱々しいと言われるが、果たしてそうであろうか。先日出くわした冬の黄蝶は菊から菊へ元気に飛び交していてしばらく見惚れてしまった。
掲句のマラソンランナーも蝶が飛びこむようにやってきて、思わず足を止められたのであろう。冬と言う厳しい季節の中にあって、人と蝶のふとした交流の心がやさしくも温かく伝わってくる。
早春の水吸ふ力鉢の花 日下しょ子
クリスマス頃に出回るシクラメンなど、観葉植物の美しい鉢は、冬の日々を楽しませてくれるものである。
よく日に当てて、水を切らさないように、手間を惜しまず注意深く育てていると、漸く春がやってきた。
しょう子さんはすかさず「水吸ふ力」を発見した。早春そのものをキャッチしたのである。
ふつくらと豆の煮上がる雨水かな 木下野風
「雨水」は二十四節気の一つ、雪や氷が解けて水になるという意味があって、この頃から農耕の準備にも力が入ってくるという。暦にのっとるように主婦業にも力が入ってきたのであろか、いつもにも増してふっくらと豆が煮上がったのである。よき日々あってこその一句。
小春日や道の向かうの嚔聞き 加藤かづ乃
小春日和の中を歩いていると、向うからくしゃみが聞こえた。その一瞬の心の揺らぎ、面白いといっては嚏の主に失礼だが、同じ人間としてふっと笑えるような感じがある。そういう心理もまた小春日和のものである。
その他、注目句。
煮凝は煮魚を一晩仕舞っておくと、煮汁が固まるもので、寒冷の気候と共になつかしい味わいがある。
戦後のつつましい暮らしを代表するような惣菜の印象ではあるが、今や人工的に作って高級和食にもなっているようである。いずれにしても、「しみじみと」には咽に解けながら、心にもしんみりとしみるような食感のありようが明らかである。
このところ少しづつ色青木の実 森田ちとせ
青木は庭の片隅にあって地味な木である。ところが冬になると俄然その真っ赤な実をもって侘しい庭を引き立ててくれる。秋には実を結んでいたもののなかなか熟さなくて、やっと色づき始めたのである。
「このところ」には、心待ちの喜びがさりげなく表出されている。季題に心入れが十二分に行き渡っている好句である。
ソバージュの詩人に会うて一葉忌 奥山きよ子
樋口一葉の生涯を知る人にとっては、この「ソバージュの詩人」ほどそぐわない措辞はないであろう。まさに、そこのところが一葉忌の句として抽んでている句だと思う。作者の胸中には明らかに一葉が蘇ったのである。
もとより、ソバージュの詩人もまた作者にとって興味津々に惹かれる詩人であろう。
ふつくらと包み千両もたさるる 松井あき子
冬の寒さや寂寥の中で真っ赤な実をつける千両ほど目出度さを誘われるものはない。友人の庭にある見事な千両の実に見惚れていると、切りとって下さった。そうして新聞紙かそれとも和紙か、くるくるとまこと手際よく包み上げてくださったのである。
「ふっくらと包み」には、手渡されたときの驚きや感触までもが読者に伝わってくる。何より包みの中の実千両のありようが明らかである。
小なりと言へども初荷電子辞書 中原初雪
初荷というものが新年のはじめにふさわしい華やかな荷物、大層なものであることを承知している、そこを認めながらも自身の初荷で押し切った句である。些少なるものを初荷として言い切るには、「小なりと言へども」と、先手を打つほかなかったのである。
作者は電子辞書に心の中で紅白幕を張って、今年の俳句の成果を願われたに違いない。理屈っぽく詠っているようにみえて、その内容は実に率直で面白い。
生ひたちをはじめて聞蓬餅蓬餅 伊藤欣次
日当りのいい縁側で、いつもさり気なくお付き合いしている方々と蓬餅をいただいている光景。蓬の色合いや香りからついつい昔話に、また田舎のこと、はらからのことに話しが及んで、思いがけずその人の生い立ちを知ることになったのであろう。どんな生い立ちかは詮索する必要はない。自慢することでも卑下することでもなく、いまここに在ることの幸せをしみじみと感じ入るものであったに違いない。
作者は何も言っていないが、深く頷かされるものがあったことを「蓬餅」に語らせている。
早春の午後の薄日の机上かな 渡邉清枝
「の」を三つ畳みかけて、上から下まで十七音をひと息に読み下ろすように仕上げている。さり気なくも、よき余韻をひいて、もう一度読み直したくなるものである。「午後の薄日」は、写生の眼が的確である。
入口に泥つき葱は立ててあり 芳賀秀弥
掘りたての泥付き葱、それもびっくりするほどの太さであろうか、玄関かどこか入り口のところに誰かが立てかけて置いていってくれたのである。素朴にもシンプルな表現はいかにも葱にかなっている。
マラソンの足を止めたる冬の蜂 平野翠
冬の蝶は弱々しいと言われるが、果たしてそうであろうか。先日出くわした冬の黄蝶は菊から菊へ元気に飛び交していてしばらく見惚れてしまった。
掲句のマラソンランナーも蝶が飛びこむようにやってきて、思わず足を止められたのであろう。冬と言う厳しい季節の中にあって、人と蝶のふとした交流の心がやさしくも温かく伝わってくる。
早春の水吸ふ力鉢の花 日下しょ子
クリスマス頃に出回るシクラメンなど、観葉植物の美しい鉢は、冬の日々を楽しませてくれるものである。
よく日に当てて、水を切らさないように、手間を惜しまず注意深く育てていると、漸く春がやってきた。
しょう子さんはすかさず「水吸ふ力」を発見した。早春そのものをキャッチしたのである。
ふつくらと豆の煮上がる雨水かな 木下野風
「雨水」は二十四節気の一つ、雪や氷が解けて水になるという意味があって、この頃から農耕の準備にも力が入ってくるという。暦にのっとるように主婦業にも力が入ってきたのであろか、いつもにも増してふっくらと豆が煮上がったのである。よき日々あってこその一句。
小春日や道の向かうの嚔聞き 加藤かづ乃
小春日和の中を歩いていると、向うからくしゃみが聞こえた。その一瞬の心の揺らぎ、面白いといっては嚏の主に失礼だが、同じ人間としてふっと笑えるような感じがある。そういう心理もまた小春日和のものである。
その他、注目句。
落葉踏み流るる落葉見てをりぬ 古舘千世
校庭の左はんぶん春の泥 佐藤健成
朝日射すところそろそろ蕗の薹 中澤翔風
初春や能装束は錦なる 間 草蛙
猫の子の頭数へて鈴買ひぬ 松尾まつを
山襞のくつきり見ゆる初氷 石堂光子
初雪やどの窓からも降り続け 伊藤 波
小春日や葉つぱの小舟ゆうらゆら 加藤洋洋
やや寒の丘の上から見てゐたり 市川わこ
部屋ごとに名のある豚舎枇杷の花 川井さとみ
春の波待つやボードに正座して 田中朝子
側溝の目皿を出づるゑのこぐさ 黒田珠水
囀や餌をほしがる雀たち 東小薗まさ一
銀杏散るかながわけんの形して 湯川桂香
青饅やいつからかしら好きになり 長谷川美知江
春炬燵首まで潜り空仰ぐ 漆谷たから
三椏の花に張り付く大き蜂 神﨑ひで子
下萌やにはか床屋の始まりぬ 河野きなこ
湯殿から爺の謡や豊の秋 冨沢詠司
「芳草集」は、巻頭・次席の他は句稿到着順、「青草集」は、上位十余の他は句稿到着順に掲載しています。
側溝の目皿を出づるゑのこぐさ 黒田珠水
囀や餌をほしがる雀たち 東小薗まさ一
銀杏散るかながわけんの形して 湯川桂香
青饅やいつからかしら好きになり 長谷川美知江
春炬燵首まで潜り空仰ぐ 漆谷たから
三椏の花に張り付く大き蜂 神﨑ひで子
下萌やにはか床屋の始まりぬ 河野きなこ
湯殿から爺の謡や豊の秋 冨沢詠司
「芳草集」は、巻頭・次席の他は句稿到着順、「青草集」は、上位十余の他は句稿到着順に掲載しています。












