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青草俳句会~命のよろこび

結社「青草」 主宰 草深昌子

青草12号 2022年 秋季 第12号

2022年08月26日 | 俳句
 令和4年8月、青草12号が発刊されました。
 withコロナの状況で、依然として不安を抱えながらそれでも、
句会の日常がまた戻って来ましたことは大いなる歓びです。
その成果の一部をご紹介します。



青山抄  草深昌子

 とある日や寄席に笑うて章魚食うて 
 夏や鳥水に映りて空をゆく      
 炎天や根から傾ぎて幹太く
 年寄のひと躓きを茅の輪かな
 撫物やきのふは蜂に刺されたる
 炎天を来たる男のつつましく
 毛虫ゆくエスカレーターゆくやうに 
 蒲に穂の出かかつてゐる蜻蛉の子
 丘に見て向かうも丘の茂りかな  
 片陰や赤い服着て年老いて   
 今さらに椨は大木南吹く
 十年をけふ一日の簾垂れ
 扉は鉄の壁は煉瓦のゼラニウム 
 竹の葉の散るや蝲蛞一つ釣れ    
 アロハシャツ八幡さまに馴染みたる
 虎の画をかけてありけり黴の宿
 上水の底に日の差す枇杷黄なり  
 太宰忌の昼ごろ酔うて港かな 
 雨のほか音なかりけり黐の花
 蝙蝠の飛んでディズニーランドかな
 老醜のなんぢやもんぢやになかりけり
 手帚を石に遣うて花は葉に    
 遠足のどつと笑ふは代官所
 つちふるや一つ島もて一つ国  
 人々は橋にたかるや蜃気楼
 しやぼん玉吹くとき風の港かな 
 三日月の落ちてきさうな春祭
 笠欠きて石灯籠や鳥雲に
 黄心樹の咲いて鰐口また鳴つて
 春林のどこやら星のにほひせる

(俳句誌「青草」2022年秋季 第12号所収)


青草往来  草深昌子
 俳句は読者の想像力によって成り立ちます。作者は少ししか言えませんから、読者のよき鑑賞を得て初めて一句は成就するのです。私は、一句における作者の力は50%、選者の力が50%、合わせて100%だと思っています。極端かもしれませんが、これは私自身が拙い句を選者によって蘇らせていただいた体験を沢山もっているところからくる率直な思いです。

  花散るや何遍見ても蔵王堂  昌子
 大峯あきら先生に初めて花の吉野にお連れいただいた時の吟行句です。錚々たる俳人十数名の中で大峯先生だけが採って下さいました。言葉を尽して褒めていただきながら覚えているのは「花が咲いているのでなく花が散っているのがいい」と「一見稚拙に見える表現が生き生きと蔵王堂を捉えた」というところです。実は、「何遍見ても」なんて、果たして俳句になっているかしらと恐る恐る出句したもので、そのヘタクソがいいのだと言われますとまさにガッテンではありませんか。選評のあと、同席した方々からも「この句良かった」と共鳴していただけたのも嬉しいことでした。
 自句を持ち出しましたのは、俳句は選者のおかげで一句になるという実例を示したかったのです。
    大峯先生の教えは、新鮮な詩の出て来る源は自己中心の眼鏡を捨てて自然のなかに自分の心を開放するところにあるというのですが、こんなセオリーも選を通しておぼろげながら分かってきたような気がします。
 もとより褒められるばかりが能ではありません。
    選者に選ばれることなく、批判を仰いでこそ俳句の真価は発揮されてゆくのでしょう。どんな意見も素直に受け入れたいものです。
 高浜虚子に「句を選まぬ親切」という文章があります。「~――価値の少ない句を選んでその人に安易な満足感を与えるほど、その人に対する不親切はないと思う。断じてそれを選まなかったことこそその人に対する本当の親切であらねばならない。句を選まないという親切が分かるようになれば一人前である――~」
    今さらながら、虚子ならでは言葉が心に響きます。


芳草集
 ひよいと乗る人日のエスカレーター  山森小径
 大寒や枝を尾羽でたたく音
 心なし手に艶のあり寒の明
 建国日ゴミ収集車来たりけり
 たんぽぽの花の地べたに張りついて
 お砂場のみんなで作る春の山
 梅雨出水灯す真昼のヘッドライト

 寒明けの港の夜景月白く   古舘千世
 風花や父の送金父の文
 百千鳥下校の子等の口喧嘩
 三度目の甥の結婚ラフランス
 ビル街にのこる八百屋や秋夕焼
 落葉踏み流るる落葉見てをりぬ
 初茜風に乗り来る夫の声

青草集
 をさな児の靴の片方帰り花  川北廣子
 宰相の揮毫あざやか竹の春
 片付かぬ遺品の嵩や去年今年
 底冷えの遺影の部屋の灯りかな
 寒風に押され信号待ちにけり
 冬の灯や一合の粥炊き上がる
 大き鈴付けて下校や草青む

 頼りなきもの押し合うて枇杷の花  泉いづ
 求人の札やふやけて冬に入る
 看護師の冷たき指になすらるる
 昆布巻のほどけて和む年始
 巻尺を引き出すごとし去年今年
 手を合はせ開きしほどの日記買ふ
 盤石の爪の隙間やすみれ草


大峯あきらのコスモロジー  草深昌子
 ―私を映してくれる宇宙の愛に応えて、私の方からも無心に宇宙を映したい。わが俳句は宇宙とのそういう交流であって欲しいーそうあとがきに記された、大峯あきらの第六句集『宇宙塵』は、第四十二回俳人協会賞を受賞された、時に、氏は七十三歳であった。
 大峯の考えは、ハイデッカーという現代屈指の哲学者が発掘したヘルダーリンの言葉「いさおしは多い、だが人はこの地上に詩人として住んでいる」という言葉の通りであった。これは、つまり人間のほとんどは功績をあげるために生きているが、人は「詩人として」生きている、詩を職業としてという意味ではなく詩的な生き方、功績を目的としないというものである。句集を作ることが句作の目的ではない、賞を貰うことが目的ではない、そういう目的意識を忘れたときに、詩人が本当に詩人として生きるのだというのであった。
 そういう氏にふさわしいと言うべきかどうか、この受賞を皮切りに、八十二歳にして第八句集『群生海』で毎日芸術賞、詩歌文学館賞、八十六歳にして第九句集『短夜』で蛇笏賞、小野市詩歌文学賞を受賞、その晩年は受賞ラッシュであった。

 よそほへば病なきごと妻の秋  あきら
 俳句門外漢が一集の中で、この句が好きだと言っていることを師に伝えると、「あの句ねえ、いいと言う人結構多いのよ」とちょっと感慨深げであった。
 坊守さまである奥様はいつも元気溌溂、聡明この上なく包容力の大きな方であった。平成九年のこの頃に難しい病をかかえておられことはうかがっていた。
 妻を直に詠った句は珍しいが、いかに師は妻を愛しておられたか、妻が頼りのようであった。なぜか読者はそれを感じることができるのである。「妻の秋」、この季題をもって個人的な妻が普遍性をもった妻としてかがやいているのではなかろうか。

 初空といふ大いなるものの下  あきら
 元日の白雲すみやかに通る
 前の世もその前の世も飛ぶ蛍
 時鳥啼けば人死ぬ在所かな
 名月やひとり老いゆく峰の松
 鳥雲に今もひとつの室生道
 蜩の一本道を来りけり
 星一つ連れて上りぬ寝待月
 満月はのぼり落葉はさかんなり
 一句目、「悠々たる初空は、肉眼に見える永遠である。この大いなるものの下では、人間の心配も気休めも何ものでもない」という自解がある。平成十一年作から、十数年後のことであるが、奥様は寝たきりの病床につかれてしまった。氏は看取りつつも、大きな命によって生かされているのだから、これでいいという肯定、ノープロブレムという生き方を貫かれたのであった。
 人は生まれて老いて死んでいく存在であるが、死んでも自然の命の中に帰ってゆく。死ぬときは死ぬのではあるが、この世にある時だけが命ではないという、死んでも死なないのだという、そんな俳人の思いが宇宙と共にあってどの句も安らかである。

 末枯の夕日の前にゐる子かな  あきら                
 茶の花にまだまだ沈む夕日かな
 狐罠かけて夕日を大きうす 
 夕日さす書棚の端や松の内 
 金屏にしばらく夕日松の内 
 金星の生まれたてなるとんどかな
 落日のひつついてゐる氷柱かな

 自然観照の冴えにあって、ことのほか夕日が美しい。日の入る頃が山川草木との最もよき対話時であったのかもしれない。一瞬たりともとどまらない時を掴んで、その光芒を読者に見えるように差し出さている。
 無作為に引き出してみたが、みな冬季であった。なるほどその明らかなる夕日の色彩は冷え切った大気あってこそのものかもしれない。
 これ等の句の底には虚子の花鳥諷詠の思想が宿っている。芭蕉、子規、虚子を尊敬してやまない大峯の思想は大峯顯著『花月のコスモロジー』にくわしい。
 又、意識してこさえた「為す句」はだめで、自然に生まれた「成る句」がいいのだという芭蕉の言葉をよく引き合いに出されたが、事実、氏は実作に於いて、哲学や宗教を持ち出されることは一切なかった。とは申せ、氏の物思いの中に磨きぬかれた学問や思想が金城鉄壁となっていることは隠しようもなかった。さりげない言葉が何の構えもなく必然のようにそこに収まって、まさにどの句も「成った」ものである。「どこからかしらやってきた」言葉を、黙って書き留められたであろう静けさに満ちている。

 古町に古き菓子買ふ竹の秋  あきら
 みどり子の匂ふ二日の日向かな         
 歯朶の塵こぼれて畳うつくしき
 桃に色来そめし美濃の奥にあり

 書く文の長くて草は芳しき
 水仙を切れば霙にかはる雨
 鈴鳴つて秋草を剪る鋏かな
 まな板に置けば匂ふや寒の芹

 一句目は平成十二年、私が初めて師と歩かせていただいた奈良県宇陀市の吟行の句である。何気ない句であるが、「竹の秋」に見合うものとして「古町に古き菓子買ふ」がついているのではなくて、「竹の秋」という季語が一句のテーマになっているものである。
 この邂逅以来、二十年という長きにわたって、吟行や句会でご一緒させていただき指導を受ける中で、実作のみならず、何より氏の選句の確かさに触れて、目から鱗が落ちる思いを何度したことであろうか。
 二句目以降、どの句もさりげないが、しみじみと読者の胸に下りて来る。作者の意識的な彩色はどこにもなく、自然そのものの詩情が行き渡っている。
 「平明にして余韻ある」という俳句文芸の古今を貫く法則があらためて確認される。 
俳句に向う氏の姿勢は、どっぷりと季節感に浸ることであった。そして俳句は季語で決まりという確信があって、歳時記を手放されることはなかった。
 この頃であったろうか、晨同人堀江爽青氏の〈峠まで来てしまひけり桜狩〉に対する選評が忘れられない。
 ―事実だけを素朴に太い線で描く、爽青流。味もそっけもない、しかしこの句をもの足りないと思う人は句の表面の単純さに惑わされて句の深みから立ち上がるおのずからなる詩情というものを感じ取れないから。自分の心ではあまり感じてないことを言葉だけで大げさに飾り立てる競争が現代俳句の傾向。虚子が「自分が本当に感じたことを素直に言うのが俳句です」―詩の生れるところはどこかという大切なこと。―
 この選評は、大峯あきら自身の俳句のありようを、図らずも語っておられるのではないだろうか。

 国境の冬日まいにち沈みけり  あきら      
 冬日落つラインの鷗狂ふとき

 先日、読売新聞に九十歳の詩人谷川俊太郎が現役ばりばり、詩集もよく売れて快進撃を続けているという特集が掲載された。谷川氏は二十歳のデビュー当時から、人間には他者と関わる「社会内存在」と「宇宙内存在」という二面性があるが、自分は宇宙内存在、他人が全部消えて自分一人になったもの、単独の人間として宇宙と対峙して宇宙を感じる、そういう感覚があったと語っていた。詩人は以来、同時代の主流などには関心がなく、自分の書きたいものを自然に書いてきたという。六十年安保の時代など詩人の活躍は活発だったが、谷川は「ある立場に立って反対というような詩は書かなかった。詩にできなかった、という表現の方が合っている」と語っている。
 大峯あきらは谷川俊太郎と二歳違い、やはり詩人として生きてきた二人の姿勢はよく似ている。
 大峯あきらも終生自身の俳句信念を曲げることはなかった。最期の最期まで闘志満々であったと感じ入るばかりである。


秀句集  草深昌子
  建国日ゴミ収集車来たりけり  山森小径    
 建国記念日は、二月十一日。「日本書紀」に神武天皇即位とされる日を陽暦に換算した日であり、明治五年に紀元節と名付けて建国祝日と定めたという。
 過去には〈人の世になりても久し紀元節 正岡子規〉、〈大和なる雪の山々紀元節 富安風生〉、〈いと長き神の御名や紀元節 池上浩山人〉等、例句は厳かである。
 令和の今を生きる作者は、〈ゴミ収集車来たりけり〉、ただそれだけである。当り前のようでありながら日常に繰り返しやってくるものの有難みをふと確認したのは、建国日ならではのことだろう。紛れもなくこの国を愛しているのである。

  大き鈴付けて下校や草青む  川北廣子    
 鈴に触発されたかのように青草が輝いている。下校の子等は開放感にあふれていて、仲良しの楽しさがその音色に溢れているのだろう。そう、チリンチリンよりシャンシャンシャンと響いていそう。
 古来、鈴は魔除けではあるが、ここ丹沢山麓辺りでは熊除けの鈴として昨今は必携になっている。

  手を合はせ開きしほどの日記買ふ  泉いづ 
 日記を買うのは原則年一回のこととて、どんな日記を買おうかと文具屋であれこれ迷うのも年末の楽しみの一つである。
 さて、作者の選んだものはというと、何ともささやかなものであった。だが、ここには自身の手をもって明日を切り開いてゆくのだという意志の確かさがある。手を合せただけでなく、開いてみたほどの大きさが秀逸。
 
  毬栗を受くや男の帆前掛   二村結季
 米屋か、酒屋か、かの仕事着の帆前掛が掲句に鮮やかに蘇った。栗の木のもとの栗拾いであろうか、店舗の裏手であろうか、さまざまのシチュエーションが思われるが、栗のイガイガにかなうのは帆前掛であろう、しかも「男」が頼もしいではないか。
 毬栗のとげの感触を文字通り帆前掛のそれに包み込んだものである。

  寒明や立たざる足のすつと立ち  石原虹子 
 これぞ「寒明」である。厳しい寒さを耐えてきた、そんな切ない思いがこもっている。虹子さんは骨折のため旧臘からリハビリを頑張っておられたが、寒明の今日、思わず真っ直ぐに立ち上ったのである。
 人の生涯はまさに季節の推移にゆだねられているということの証のようではないか。多くの仲間が励まされた一句である。

  煮凝や喉に解けてしみじみと  佐藤昌緒     
 煮凝は煮魚を一晩仕舞っておくと、煮汁が固まるもので、寒冷の気候と共になつかしい味わいがある。
 戦後のつつましい暮らしを代表するような惣菜の印象ではあるが、今や人工的に作って高級和食にもなっているようである。いずれにしても、「しみじみと」には咽に解けながら、心にもしんみりとしみるような食感のありようが明らかである。

  このところ少しづつ色青木の実  森田ちとせ    
 青木は庭の片隅にあって地味な木である。ところが冬になると俄然その真っ赤な実をもって侘しい庭を引き立ててくれる。秋には実を結んでいたもののなかなか熟さなくて、やっと色づき始めたのである。
「このところ」には、心待ちの喜びがさりげなく表出されている。季題に心入れが十二分に行き渡っている好句である。
  
  ソバージュの詩人に会うて一葉忌  奥山きよ子
 樋口一葉の生涯を知る人にとっては、この「ソバージュの詩人」ほどそぐわない措辞はないであろう。まさに、そこのところが一葉忌の句として抽んでている句だと思う。作者の胸中には明らかに一葉が蘇ったのである。  
 もとより、ソバージュの詩人もまた作者にとって興味津々に惹かれる詩人であろう。

  ふつくらと包み千両もたさるる  松井あき子 
 冬の寒さや寂寥の中で真っ赤な実をつける千両ほど目出度さを誘われるものはない。友人の庭にある見事な千両の実に見惚れていると、切りとって下さった。そうして新聞紙かそれとも和紙か、くるくるとまこと手際よく包み上げてくださったのである。
 「ふっくらと包み」には、手渡されたときの驚きや感触までもが読者に伝わってくる。何より包みの中の実千両のありようが明らかである。

  小なりと言へども初荷電子辞書  中原初雪  
 初荷というものが新年のはじめにふさわしい華やかな荷物、大層なものであることを承知している、そこを認めながらも自身の初荷で押し切った句である。些少なるものを初荷として言い切るには、「小なりと言へども」と、先手を打つほかなかったのである。
 作者は電子辞書に心の中で紅白幕を張って、今年の俳句の成果を願われたに違いない。理屈っぽく詠っているようにみえて、その内容は実に率直で面白い。

  生ひたちをはじめて聞蓬餅蓬餅  伊藤欣次  
日当りのいい縁側で、いつもさり気なくお付き合いしている方々と蓬餅をいただいている光景。蓬の色合いや香りからついつい昔話に、また田舎のこと、はらからのことに話しが及んで、思いがけずその人の生い立ちを知ることになったのであろう。どんな生い立ちかは詮索する必要はない。自慢することでも卑下することでもなく、いまここに在ることの幸せをしみじみと感じ入るものであったに違いない。
作者は何も言っていないが、深く頷かされるものがあったことを「蓬餅」に語らせている。

  早春の午後の薄日の机上かな  渡邉清枝
「の」を三つ畳みかけて、上から下まで十七音をひと息に読み下ろすように仕上げている。さり気なくも、よき余韻をひいて、もう一度読み直したくなるものである。「午後の薄日」は、写生の眼が的確である。

  入口に泥つき葱は立ててあり  芳賀秀弥    
掘りたての泥付き葱、それもびっくりするほどの太さであろうか、玄関かどこか入り口のところに誰かが立てかけて置いていってくれたのである。素朴にもシンプルな表現はいかにも葱にかなっている。

  マラソンの足を止めたる冬の蜂  平野翠 
 冬の蝶は弱々しいと言われるが、果たしてそうであろうか。先日出くわした冬の黄蝶は菊から菊へ元気に飛び交していてしばらく見惚れてしまった。
 掲句のマラソンランナーも蝶が飛びこむようにやってきて、思わず足を止められたのであろう。冬と言う厳しい季節の中にあって、人と蝶のふとした交流の心がやさしくも温かく伝わってくる。

  早春の水吸ふ力鉢の花  日下しょ子
 クリスマス頃に出回るシクラメンなど、観葉植物の美しい鉢は、冬の日々を楽しませてくれるものである。 
 よく日に当てて、水を切らさないように、手間を惜しまず注意深く育てていると、漸く春がやってきた。
しょう子さんはすかさず「水吸ふ力」を発見した。早春そのものをキャッチしたのである。

  ふつくらと豆の煮上がる雨水かな  木下野風
 「雨水」は二十四節気の一つ、雪や氷が解けて水になるという意味があって、この頃から農耕の準備にも力が入ってくるという。暦にのっとるように主婦業にも力が入ってきたのであろか、いつもにも増してふっくらと豆が煮上がったのである。よき日々あってこその一句。

  小春日や道の向かうの嚔聞き  加藤かづ乃
 小春日和の中を歩いていると、向うからくしゃみが聞こえた。その一瞬の心の揺らぎ、面白いといっては嚏の主に失礼だが、同じ人間としてふっと笑えるような感じがある。そういう心理もまた小春日和のものである。


その他、注目句。

 落葉踏み流るる落葉見てをりぬ  古舘千世    
 校庭の左はんぶん春の泥  佐藤健成    
 朝日射すところそろそろ蕗の薹  中澤翔風    
 初春や能装束は錦なる  間 草蛙       
 猫の子の頭数へて鈴買ひぬ  松尾まつを 
 山襞のくつきり見ゆる初氷  石堂光子      
 初雪やどの窓からも降り続け  伊藤 波     
 小春日や葉つぱの小舟ゆうらゆら  加藤洋洋   
 やや寒の丘の上から見てゐたり  市川わこ    
 部屋ごとに名のある豚舎枇杷の花  川井さとみ
 春の波待つやボードに正座して  田中朝子    
 側溝の目皿を出づるゑのこぐさ  黒田珠水    
 囀や餌をほしがる雀たち  東小薗まさ一     
 銀杏散るかながわけんの形して  湯川桂香    
 青饅やいつからかしら好きになり  長谷川美知江 
 春炬燵首まで潜り空仰ぐ  漆谷たから      
 三椏の花に張り付く大き蜂  神﨑ひで子     
 下萌やにはか床屋の始まりぬ  河野きなこ      
 湯殿から爺の謡や豊の秋  冨沢詠司

「芳草集」は、巻頭・次席の他は句稿到着順、「青草集」は、上位十余の他は句稿到着順に掲載しています。  




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草深昌子を中心とする句会・選後に 令和4年7月

2022年08月13日 | 俳句
草深昌子選

 

  揚羽来て庭木に風を起こしけり  奥山きよ子
 一読、涼しい風が体を吹きぬけるようである。
 いや、夏のことなら生ぬるい風でしょうと言われてはおしまい、この鮮やかな表現こそが涼しいというほかないのである。
 風と共に庭にやってきた揚羽蝶、その美しさの大きさにハッとした驚きががそのまま、「庭木に風を起こしけり」となったのであろう。
 庭の草や花でなく「庭木」というところに夏の句の芯が通っている。

  庭の木に鵯の卵や半夏生  石堂光子
 「半夏生」は72侯の一つで、陽暦7月3日の頃のこと。
 半夏生草という葉が半分だけ白くなる草が生え始める頃であり、雨の日も多々ありながら田植はほぼ終わっている。
 そんな日の庭に見つけたのは鵯の卵であったという。
 それだけのことが妙に半夏生だなと思われるは、作者自身が間違いなく半夏生を認識したからであろう。
 逆に言えば、たとえ鵯の卵を見つけたとしても、その日が半夏生でなければ一句にならなかったといえるものである。

  カーテンを繕ふ一日半夏生  佐藤昌緒
 同じ「半夏生」だが、作者は居間にかかっているカーテンの裾のほつれを繕われたのである。
 カーテンを繕うのは一年のうちの何時であってもいいのだが、何故か半夏生という日によくかなっているように思われる。
 先の句同様、何の因果関係もないところに、その日、その時でなければならな季節の移ろいというものを他の誰のためでもない、自分自身のこととして納得し、ゆかしく感受されているのである。
 だからこそ読者もまた、その心を静かにも共有させてもらえるのである。

  半夏生母は農家の生れなり  長谷川美知江
 半夏生は先に述べた通りであるが、農家ではやはり重要な節季であったであろうことが一句から大きく頷かされるものである。
 土用の丑の日に鰻が売り出されるように、半夏生にはタコが売り出されるというのも、
あとで知ったことであるが「稲がタコの足のように根付きますように」という祈りがあるのだとか。
 半夏生に当って思い出されるあれやこれやを、シンプルに「母は農家の生れなり」と言い切った。
 こう詠いあげて、作者のもっとも腑に落ちるなつかしの半夏生になったに違いない。

  梅干すや日に日に白く皴深く  石野すみれ
 先日、湘南の海辺の大きなお宅の庭で筵に干し、笊に干し、見ているだけで酸っぱくなるような梅干しの光景に出くわした。
 ところが私のような傍観者には梅干しの句は成らない。
 作者の誠心誠意を込めた梅干しは「日に日に白く」、もうそれ以上言うべき言葉もないほど充実している。
 「皴深く」に喜びがこもっているのである。

  四角西瓜神に背いて鎮座せる  中原初雪
 この句もまた、西瓜は丸いと決め込んでいるものには成らないものである。
高野フルーツ等で見届けたものかも知れないが、四角の西瓜があります、というただの報告に終らないのは「神に背いて」、なお「鎮座せる」という描写があるからである。
 大袈裟な物言いに見せて、言外に「西瓜は丸いのが本当だよ」という作者の叫びがこもっている。

  黴の本世の中知らぬことばかり  初雪
 「世の中知らぬことばかり」はただの観念ではないことを、正直「黴の本」で納得させられるのではなかろうか。

  灯の点るダンス教室星祭  宮前ゆき
 陰暦7月7日の夜、牽牛星と織女星が一年に一度だけ会うことを許されるという伝説に基づく祭があり、また「棚機つ女」に由来する祭もある、いずれも「七夕」のことである。
 そんな七夕の夕べ、ダンス教室にぽっと灯がともっていたというのである。
 星祭が絵空事でなく、すぐそこにある現実のよろしさとして認識されたであろう「灯の点る」が涼しくも美しく感じられるものである。


 


  水泳や減量分はほぼ汗か  町田亮々
 「汗」という文字通り夏の暑さを代弁するような措辞でもって、このような一句が成立するとは思いもよらなかった。
「汗」の兼題から発生してこの句は「水泳」が主題となるであろうが、それも屋内の水泳であろうか。
 私もジムに通っていて、プールの水を押し分けて歩いているのだが、トレーニング後に体重計に乗ると500グラムほど減っていることがある。
もとより水中だから目に見えない汗ではあるが、まるで見えるかのように詠いあげたところが愉快。
作者88歳の生気を見習いたい。

  女学生笑ひ転げて胡瓜かな  黒田珠水
 女学生ともども笑ひ転げるほかない一句である。何より「胡瓜」が決まっている。
 無駄な説明や鑑賞など何も要らない、そのまんまが楽しい。
 俳句初心者は、散文の切れはしのような常識的な句を作りがちであるが、
 作者は初めから「俳句は韻文である」という私の繰り返し述べる言葉をよく理解して下さって、誰にも媚びない句をさっそうとものにされてきた。
手垢のつかない作者ならではの句が頼もしい。


   百姓の振り向きざまや汗雫  二村結季
   干し梅の数だけ匂ふ夜の家  冨沢詠司
   雨の日の向日葵すこし聞き上手  松井あき子
   身構へる髪切虫の面構へ  日下しょう子
   撒水の果は茗荷の葉を叩き  湯川桂香
   家見えてはたと重たき西瓜かな  小宮からす
   スカートの白きに止まる蛍かな  川北廣子
   白靴の医師の日本語よどみなく  伊藤波
   菅貫を跨げば宮の大庇  松尾まつを
   村鍛冶や汗と火花を飛び散らし  東小薗まさ一
   仙人掌の花やその色けがれなき  平野 翠
   丸なすび強く圧へる板の上  関野瑛子
   雑踏の遠のく路地やどぜう鍋  中澤翔風
   虫干や子らの手垢の参考書  石本りょうこ
   ビール干すバレーボールはフルセット  山森小径


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青草通信句会 2022年8月

2022年08月11日 | 俳句
草深昌子選  (順不同)
兼題「西瓜」

     

  炎天や顔をまつ赤に下校の子  市川わこ
 「炎天」は灼けつくような暑い空です。「日盛」と似ていますが、炎天というからには「炎」の字を生かしたい、そんな炎立つような暑さを「顏をまつ赤に下校の子」という描写は見事です。

  茅刈つて瓜に敷き足す大暑かな  二村結季
 瓜の生育に日々心身を費やす人ならではの心配りが大暑をあますなく表現しています。大暑は極暑と同義でもありますが、やはり暦に表された一つの節目をよく詠いあげています。

  図らずも僧の点前や土用あい   結季
 思いがけず僧侶がお茶を立ててくれたというのです、まさにその心はと問えば「土用あい」ではないでしょうか。「土用あい」は、土用の中に吹く風のことですが、この句には、その風のよろしさ、ふとした涼しさが十二分に詠いあげられています。モデルの僧は漆谷たからさんでしょうか。

  切分けて神輿待ちたる西瓜かな   奥村きよ子
 まだいただかぬ西瓜ですが、さも瑞々しく切りそろえてある光景がしんとして美しい。そこには祭の神輿を今や遅しと待ち受けている心象がこもっているからでしょう。

  鼻の穴大きく広げ西瓜食ふ   川井さとみ
 いやはや、面白いです。子供に限らず、大人であっても西瓜はざっくばらんにかぶりつくのが一番です。上五中七あってこその西瓜の美味さ、作者もそこを詠いたかったのです。

  小玉西瓜いい子いい子と子のさする   小宮からす
 小さな西瓜は核家族にぴったり、もてあますことはありません。小振りの西瓜を、まるで西瓜の子供のように、人間の子供が撫でるという、可愛いショットです。「さする」、実感があります。

  先づ西瓜冷やしてからの川遊び   佐藤健成
 真っ先に西瓜を沈めたという川遊び、さあどんな遊びが始まるのでしょうか、楽しそうです。何気ないものですが、このさりげなさがなつかしさを誘い出すのです。

  流れ星待つ間の空の広さかな   健成
 「流星」は季節にかかわりなく見られますが、やはり秋が多いようです。宇宙塵が大気で発光するその瞬間は、待つほどにやってこないので、自ら「空の広さ」を思うばかりです。現実にしてロマンある一句です。  
              
  ひとかじり西瓜が好きと歯抜けの子   松井あき子
 「ひとかじり」という出だしがあって、「歯抜け」に焦点を絞った描写、何とも愛らしい一句です。読んで何でもないような句こそ、作るのは難しいものです。
 




  雨樋に露草生ふる土用かな     草深昌子
  大和くんなかの西瓜ぞいや重た
  網戸してありのままなる暮し向き

 令和4年8月・青草通信句会・選後に  草深昌子

 「西瓜」は、かつては「秋」の部でしたが、今や出荷が早まり、「夏」そのもののイメージです。子供の頃は夏休みの絵日記にノートをはみ出さんばかりに毎日のように西瓜を描いたものです。井戸水に冷した西瓜、浜辺の西瓜割りなど、思い出の西瓜はすべて丸ごとですが、今や六分の一の西瓜を一人静かにすすっています。この度の「西瓜」のイメージは皆さんと、よく共通するものがありました。

  三人に見つめられゐて西瓜切る   岩田由美
  風呂敷のうすくて西瓜まんまるし  右城暮石
  見られゐて種出しにくき西瓜かな  稲畑汀子
 一句目、三人の子供に囲まれて、大きいの小さいのと喧嘩にならぬよう均等に切り分けんとする母親です、その心もまたわくわくしていることでしょう。私が昔、その作成に協力した歳時記に〈大西瓜等しく分くる主婦の腕〉が例句として掲載されていますが、由美氏の句の方が各段に上質です。この違い分かりますでしょうか。

 ところで原石鼎の西瓜の句に、
  西瓜うまし皮の緑を遠く赤     原 石鼎
  西瓜食ふ鴉に爪と嘴とあり      〃
  割られたりはじめてうごく大西瓜   〃
 などがあります。「皮の緑を遠く赤」なんて本当にそうだなってびっくりしますが、果たしてこんな表現が出来るでしょうか。さすがに石鼎は見るところも違いますが、その「言い表しよう」が違います。
 石鼎と作者が分かっていますから凄いと思いますが、句会で果たしてこんな句が出てきたら採れるでしょうか。
 俳句は常識的でなく、作者の驚きや発見のあるものが望ましいのですが、実作にしても選句にしても、それはなかなか難しいものです。だからこそ俳句には尽きない魅力があると言えましょう。
 
 本部句会でも申しあげましたが、兼題が出ましたら、同じ兼題で
20句、30句、いや50句と「多作多捨」に徹してみましょう。
たった17音ですから、作っては捨て、作っては捨てを繰り返しているうちに、ふっと新鮮な言葉が下りて来るかも知れません。


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角川『俳句』令和4年7月号・新刊サロン 書評

2022年08月08日 | 俳句
茨木和生句集『みなみ』(朔出版)
今生の桜 
   草深昌子 
  


     六十年見続けて来て山桜 
  
 茨木和生は、高校生にして右城暮石の「運河」、山口誓子の「天狼」に入会、やがて「運河」主宰となり、暮石先生の酬恩の精神継承に徹してこられた。
 深山に分け入り、怒涛に真向い、季語の現場に立つこと六十年余、先人が定着させてきた季語を死なせずに、息を吹き返させる手腕において右に出る俳人はいないのではなかろうか。

       谷川に濁り江あらず山桜
       地に適ふ在所の名なり山桜
       なによりも山よく晴れて山桜
       青空は動かざるもの山桜

       美しき水湧く山の山桜
       山上りつめしところに山桜


 静けさの迫力、ここには自然への感謝の気持ちが沁み込んでいる。
 こまごましいことは言わない。何の構えもなく、今あるものが過去から未来へ繋がって在ることを認識するばかり。
 山桜は茨木和生になりきっている。

       賑やかなこと大阪の芭蕉忌は
       真白なる峰雲大阪にも立つよ


   大阪に没した芭蕉、大阪には芭蕉好きの俳人が多い。芭蕉のなつかしさは大阪のなつかしさに繋がっている。
〈大阪は育ちが悪し雲の峰〉と詠った暮石師に呼び掛けるよろこび。

       山ほめをして入り行けり菌狩
       一本を採ればつぎつぎ菌狩
       突つかかり来たり蝮の子なれども


    茨木和生著『季語を生きる』にあるように、筆者は昔、東吉野村の松茸狩に誘っていただいた。
    氏の凄腕のおかげで四十本収穫の松茸の美味と共に、自然を慈しむ田舎の暮らしの厚みは忘れることができない。
   出喰わした蝮を打ち叩いて捕らえられた、その俳人とも思えぬ野人ぶりに驚かされもした。

    小砂噛み当てたることも苦うるか
    熊鍋や山田弘子の話出て
    魚うまし冬の潮を呑みたるは
    山の日が土間に届けり飾臼

 第十六句集『みなみ』には、実践のエキスが詰まっていて、巧いというような域をはるかに超えた作品群となっている。
 読者が体験し得ないことであっても、その景を切り開いて見せるところに作者の勁い意志が通っている。 
 俳人協会賞受賞『往馬』ほか、多くの受賞句集は全て熊野や大和の固有名詞が句集名であったが、近年の句集はお孫さんの名前がタイトルである。 
 ここには、愛しい妻の命が今を生きる作者の命となって切なくも鮮やかに立ちのぼってくる。

     橡の花妻と見上げし日を思ふ
     妻来ると思ふ花野に待ちをれば
     われを呼ぶ妻の声かとふくろふは



(角川「俳句」令和4年7月号所収)

 



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青草本部句会 2022年8月

2022年08月07日 | 俳句
草深昌子選  (順不同)
兼題「墓参」席題「熱」
 
 

新涼や鯛のうす塩かぶと焼き   中澤翔風
落蝉のその一声に立ち止まる   松井あき子
熱風の渦巻くビルの狭間かな   あき子
地蔵会や桔梗撫子女郎花   川井さとみ 
頓服の効き目速やかつく法師   さとみ          
よるべなく蓮から蓮へ糸とんぼ   平野翠
三百の葱植う喜雨の来たりけり   二村結季
蒟蒻に隠し包丁蝉しぐれ   結季
熱の児を寝かせ寝入るや星月夜   結季          
人の子が迷ひ込んだる墓参り   湯川桂香           
情熱を句にとぢ込めむ夜の秋   佐藤昌緒
蹴伸びしてプールの底に光かな   昌緒
煉獄の炎もかくや油蝉   間草蛙
角ビンの肩のぶ厚き熱帯魚   山森小径    

 
 
すがしさは姉につきゆく展墓かな   草深昌子
夜の秋のラップに包むご飯かな
熱々のものを干したる今朝の秋
夏負けて俳句の熱に浮かさるる
走り根に石の食ひ込む展墓かな
墓洗ふこのつめたさのぬくとさの



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