goo blog サービス終了のお知らせ 

青草俳句会~命のよろこび

結社「青草」 主宰 草深昌子

草深昌子を中心とする句会・選後に・令和6年5月          

2024年06月14日 | 俳句
 草深昌子選

 


  小満や切つた豆苗またも伸び   松原白士
 小満は二十四節気の一つ、陽暦5月21日頃である。
 歳時記にあたると、「陽気盛んにして万物長じ、草木が茂って天地に満ちはじめる意である」とある。
 こんな堅苦しい説明を聞くより、一句を読めばまことガッテン、ああ小満だなあと感じさせてもらえるもの。
 ちなみに豆苗は「とうみょう」と読む。「まめなえ」と訓読みの方がリアルではないか、
 あるいは「とうびょう」というフシもあるが、やはりこの句において「とうみょう」の韻律にまさるものはない。
 それこそ微妙に伸びあがる感じが小満をよく詠いあげている。
 調べると、「苗」は漢音で「ビョウ」だが、ビョウは「病」と音が同じで嫌われたのではないだろうかという。
 そういえば「葦」は「アシ」だが「悪し」になるので「ヨシ」ということはよく知られている。
 豆苗を教えていただいた選者は、早速サッと炒めて、グイッとビールで満喫、草木の勢いを我が身のものにしたのだった。

  流鏑馬や戻り馬には武者幟   中原初雪
 夏の季題「騎射」(きしゃ・うまゆみ)の傍題に「流鏑馬」がある。
 流鏑馬は騎射の一種で、疾走する馬上から矢を的に射る武術である。
 古来より武士の嗜みとして盛んに行われてきたという。
掲句は鎌倉八幡宮の流鏑馬祭に写真を撮りに出かけた折のものだという。
 流鏑馬の技のほどはさておいて、ともかくも走り切って、流鏑馬を奉納した戻りの馬には武者幟が掲げられているというのだ。
 人馬ともども目出度くも安堵する様子が伝わってくる。
 さて写真の仕上りは如何であったろうか、武者幟を見せてもらいたいものである。
 
   日めくりの日にちの合はぬ葱坊主   山森小径
 「日めくりの日にちの合はぬ」のフレーズに大いにうなずかされた。
 律儀に毎日、毎日捲ってこその日めくりながら、そうはいかないのがずぼらな私の毎度のことである。
 誰しもに思いあたるような、ささいな体験をふとすくいあげるのが俳句の楽しみの一つである。
 さて、そこで「葱坊主」と来ると、ふむふむと自身のいい加減さを棚上げにして納得してしまうのである。
 葱は晩春から初夏にかけて、葉の間から茎が伸びて、てっぺんに無数の花が球になっている。
 それを坊主という擬人化に反応するのだろうか、好きな女流俳人に好きな句が多い。
 〈葱坊主干しひろげあり儚々と 飯島晴子〉〈書くうちに覚悟となりぬ葱坊主 宇多喜代子〉
 〈先生の名を言うてみよ葱坊主 大石悦子〉

 蚕豆や今にも空へ飛び出さう   佐藤健成
 一読、そら豆だ!って思わせる勢いのある新鮮さが決まっている。
 正直、そら豆が畝に生っているさまをよくも知らないのに直感で感じ入った。
 多分作者も直感ではなかろうか。そのまんま、ここには何のはからいもない。
 直感で得られた句を、間髪を容れずにいただけたときこそ選者冥利につきるのである。
 辞書に当たれば「そらまめ(空豆・蚕豆)は、莢(さや)が空に向いてつくからいう」とあるが、それは単なる知識。
 だからといって、誰が「今にも」、しかも「飛び出さう」と詠えるだろうか。
 それが俳句の喜び、そら豆のいのちを詠いあげたのである。

  夏立つや船のしぶきの七色に   松井あき子
 何と意気盛んな美しさであろうか。
 しぶきのさまはいかばかりであろうか、想像力全開にして、しばし一句の光景に引き込まれた。
 折柄、立夏である、その認識がいっそうしぶいてやまない、七色の確かさ。
 前途洋々がまぶしい。

  玄関に客間に居間に牡丹かな   森田ちとせ
 あらためて「牡丹」は「花の王」と思わせる一句。
 次々にたたみかけて、要は家じゅう牡丹で埋め尽くしたと言わんばかりの喜びが静かにも伝わってくる。
 一つ一つに「に」という助詞が息をとどめる働きをして、落ち着いた牡丹の気品が打ち出されている。

 俳句総合誌「角川」5月号の付録「俳句手帖」に作者の一句が掲載された。
 〈日焼子の顔から水を飲みに来る  森田ちとせ〉 
 「青草」13号から抽いていただいた、有難いことである。

  平穏な旅の知覧の新茶かな   柴田博祥
 一息に、17音を詠み下ろして、しみじみと味わいのある新茶がいただけた。
 「知覧」はもとより知覧茶で知られるところだが、同時に、かの大戦の特攻隊の出撃基地を思わない人はいないだろう。
 そんな固有名詞が浮き立たず沈まず、そうまこと「平穏」に一句そのものになってしみ込んでいる。
 句作において、安易に熟語を使わないこと、安易に固有名詞を使わないこと、そう導きながら、 掲句においては「平穏」も「知覧」も生きた言葉となって新茶に集約されている。

 卯の花に肩を濡らして行かんかな   二村結季
 さりげない表出が余韻をひいて、それこそこの一句のあとについてゆきたい詩情にかられている。
 卯の花はいうまでもなく「夏は来ぬ」の唱歌を思い出させるなつかしい花であり、
 初夏の明るさの中に、白さの引き立つ花である。
 「肩を濡らして」は、崖にしだれていたりして、ちょうど位置的に肩あたりはかなっているのだが、 それだけでなく「肩」の一字からは瑞々しき卯の花に心をよせてやまない心情が切なくも伝わってくるように思われる。
 どこまでもついて行きたいと思ったのは「肩」のせいかもしれない。

  昼寝どき顔でいやがる赤子かな    葉山 蛍
 言葉を発しない赤子は泣くか笑うかと思っていたが、なんと「顔でいやがる」という手があったのだった。
 暑い午後のひととき親もちょっと昼寝をしたい気分で、赤子をあやしているのだろうが、
なかなか寝入ってくれそうもないというのだろう。赤子の可愛さが滲み出ている。
「顔」の席題でこの句が出るとは、幸せな翁の日常が察せられた。

 筍をどんと荷台にころがしぬ   鴨脚博光
 「どんと」の迫力、それも「荷台」、それも「ころがしぬ」、
 もう筍以外の何ものでもないという筍丸出しの新鮮さ。料理にしたらあれやこれや、満点のご馳走であろう。
 これなら私にも作れそう、そう思わせる、こんな俳句こそ私には出来ない俳句なのである。
 「文は人なり」というが、「俳句は人なり」もまた。

  初夏や路地を曲れば夏目坂   田中朝子
 「路地を曲れば」、これも軽いタッチで私にも言えそうと思われるであろうがそうではない、作者ならではのもの。
 お目当てだった夏目坂が、あっあった!という出くわしがあって、そこでグッときた、
 その瞬間に「路地を曲れば」の感慨が出るのである。「初夏」もざっくり詠って、晴れやか。
 「漱石山房記念館」を訪ねられたのであろうか。
 新宿は漱石の生まれ故郷であり、夏目坂は、漱石の生家がこの坂にあったところから名付けられたという。

 


    
  四時半のかくも明るき五月かな   小宮からす
  車体全面広告のバス五月      黒田珠水
  降り立ちて土を突くや夏燕     石堂光子
  薔薇の門くぐる工場開放日     奥山きよ子
  干し物を払ふ二階や花くぬぎ    きよ子
  大凧を手繰る百人夏河原      泉 いづ
  夏薊ゆるぎもせずに風の中     石野すみれ
  夏近しああアラームの電子音    永瀬なつき
  マンションの窓にはためく鯉のぼり 滝澤さくら
  蚕豆の畝長々とありにけり     川井さとみ
  境内にお化け屋敷の始まりぬ    東小薗まさ一
  薔薇活けていつものおかず誕生日  福本金魚
  余り苗四隅にありて一番田     河野きなこ
  掘りたての筍重し四本目      竹内あや
  夏来たる回転寿司にプリンかな   石井久美
  小さき子の手のひらひらと薄暑かな 市川わこ
  藍染の座敷幟や水の町       日下しょう子





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青草通信句会 2024年6月

2024年06月14日 | 俳句
草深昌子選  「順不同」
兼題「雨蛙」

 

  雨蛙手足伸ばして動かざる      田中朝子
 思わず、その肢体を想像して楽しくなりました。葉っぱの上に座っているのはよく見かけますが、これは面白い。

  雨粒の跳ねて棚田や雨蛙   間 草蛙
 
棚田は山の斜面にある田んぼです。雨の粒々が跳ねあがるという臨場感に、雨蛙も喜んでいるような気がします。
 
  子の袖を登つてゐたる雨蛙   二村結季
 雨蛙が子のシャツの袖のあたりを上っていくのでしょうか、珍しい場面です。雨蛙はこの子をすっかり好きになったようです、時の流れもゆったりと。 

  手から手へそして葉の上雨蛙   川井さとみ
 母と子でしょうか、幾人かが雨蛙を見つけました。皆で慈しんで、葉の上に戻しました。人と雨蛙の交歓。

  住み着いて庭守りとなる雨蛙   鴨脚博光
いつも庭のどこかに雨蛙がいます、すっかり溶け込んでいるようです。喜びを庭守と詠いあげました。

  木の洞や丸い眼の雨蛙   竹内あや
 洞があると覗き込みたくなります。近々と見届けた丸い眼です。いっそう愛らしい雨蛙です。上五の切れが見事。

  田水跳ね空に飛びけり雨蛙   渡邉清枝
 自然界の「跳ね」また「飛び」がダイナミック、それはそのまま雨蛙のいのちの華やぎのようです。

  鉄塔のある畦道や余り苗        松井あき子
 大らかに情景を広げて、余り苗のありようを地道に明らかに見せています。「畦道」から〈膝ついて見るは早苗の機嫌かな 山本洋子〉が思い出されます。

  木天蓼の白葉の下を登りけり   加藤かづ乃
 昔見たものですが、吉野も奥の川向うの切岸に木天蓼の木々が真っ白に連なっていました。花も白いのですが葉先も白いので驚きの光景でした。掲句はそんな木のもとを一歩又一歩慎重にたどっていくのです、美しい姿です。

  木の瘤と見まがふ今朝の雨蛙   二宮からす
 雨蛙は自然の中で身を潜めて保護色になっているのでしょう。「瘤」に、「今朝」に、リアリティ―があります。
 

 


  雨蛙鳴いて正門けふ開かぬ     草深昌子
  紫陽花や蝶の越えたり潜つたり
  老鶯や寺のうしろが藪表



令和6年6月・青草通信句会講評   草深昌子

 令和6年6月の兼題は「雨蛙」。
 「青蛙」は雨蛙の傍題ですが、歳時記によっては別に立ててもいます。実体の違いはありますが、雨蛙を眼前にしながら、フレーズによって青蛙に詠いあげることも多々あります。
  青蛙おのれもペンキぬりたてか  芥川我鬼
  青蛙ぱつちり金の瞼かな     川端茅舎
  幔幕に鳴いてやめたる雨蛙    中村汀女

 目の確かさや表現の明快さなど、愛情あってこそのものでしょう。
 
 静岡県駿河区丸子の誓願寺は森青蛙(もりあおがえる)の産卵池があることで有名です。初学の頃先輩に連れてもらって、泡状の卵をいくつも見た覚えがありますが、一句も残っていないのは残念です。
 当時は動物、分けても虫が大の苦手でしたが、俳句のおかげで漸く親しめるようになりました。六月は小さな虫が躍動します。
  草抜けばよるべなき蚊のさしにけり  高浜虚子
  塵取の手にも夕べの蜘蛛の糸     鈴木花蓑
  蟻の道まことしやかに曲りたる    阿波野青畝
  蠅とんでくるや箪笥の角よけて    京極杞陽


 蠅から浮かび上がる無季の句があります。
  戦争にたかる無数の蠅しづか     三橋敏雄
 戦争という抽象が、蠅という具体的な命あるものを通して、さりげなくもおそろしいほどの真実をもって詠いあげられています。
物を見ることに端を発しない名句はないのではないでしょうか。

 ――「どこまでも深く写生を」というのが俳句の正道だと信じています――句作に行き詰まりますと、大峯先生からいただいたハガキの言葉を反芻します。写生は第一段階から第四段階へとだんだん上達していかねばなりませんが、とにかく第一段階は見たまま、正直に詠うことです。といっても、そのまま作って、その一句が俳句になるわけはありませんから、沢山作って、ほとんどを捨てなければなりません。作っては捨て、作っては捨ての繰り返しです。
 毎回同じことを申し上げますのも、私自身への戒めにほかなりません。修練の賜たる名句をよく読み、よく覚えてまいりましょう。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青草本部句会 令和6年6月7日

2024年06月14日 | 俳句
草深昌子選 「順不同」 
 兼題「夏木立」 席題「冷」

 

 あぢさゐや揺すつて軽き貯金箱   二村結季 
 一夜城跡の標や夏木立   結季
 青竹に風の分け入る芒種かな   結季        
 鳥取の砂丘育ちのらつきよかな   小宮からす
 六月や畳敷なる礼拝堂   からす
 老鶯や大楼門は雨に濡れ   柴田
博祥
 六月の川に溶けたる夕日かな   佐藤昌緒
 夕雲の迫り上がりたる夏木立   奥山きよ子
 瓦屋根青鷺一羽のせてをり   平野 翠


 


 百段を来たれば鎮守夏木立   草深昌子
 ドアノブに触れて冷たき避暑の宿
 ラムネ玉ここは都のどまんなか
 夕日やや冷えてきたるかビアホール
 皿までも冷えてありけり夏料理
 冷蔵庫あけてあらまし発泡酒


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする