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青草俳句会~命のよろこび

結社「青草」 主宰 草深昌子

靖国神社 みたま祭献納句 令和4年

2022年07月18日 | 俳句
入選
 
  

  昭和二十年餅の無き雑煮椀   松尾まつを




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草深昌子を中心とする句会・選後に 令和4年6月

2022年07月17日 | 俳句
草深昌子選

  


       知らぬまに黴類食うて米寿かな   町田亮々
 黴は植物・飲食物・衣類などあらゆる有機物に生えて梅雨時など家中が黴くさくなるものである。
 俳句を習いはじめた五十年ほど昔、黴の句に出会ってびっくりしたのが中村汀女の〈末の子がかびと言葉をつかふほど〉であった。
 現代ではさほど黴の発生を見ないものの、「黴が生える」、即ち物事が古くさくなるという風刺の言葉は生きているようである。
こんな「黴」の句で、久々にあっと驚かされたのが掲句である。
 黴というものが菌糸であり、胞子でもって繁殖することを思うと、まさに「知らぬまに」、人の身に侵食していることに間違いはないであろう。
 作者は旺盛なる黴にもめげず矍鑠として米寿を迎えられた。
 作者ご自身は「知らぬまに」齢を取ったという、率直なる感慨をもこめておられるのであろう。
 黴が生えるどころか、新鮮なる頭脳に降参である、これに勝る目出度さはないだろう。

  緑蔭のどこか長寿の泉あり   泉 いづ
 厚木市の奥の奥、愛甲郡清川村にお住まいの作者は、日常的に田畠を耕しておられるのであろう、土着の精神の漲った佳き句を拝見することが多い。
 掲句の「緑蔭」も季語に負担をかけず、何の気張りもなく、よろこびをもって「長寿の泉あり」とさらりと言ってのけるところが爽やかそのもの。
 思わず読者も泉の恵みを想い、木蔭の清らかさを想うものである。
 それなりにご年配かもしれないが、いつお会いしても青年風に感じられるのは作者の俳句の世界からもたらされる印象が若々しいからであろう。

  夏至の日の世界の天気予報かな   山森小径
 「夏至」は、毎年6月21日頃、一年で最も太陽が高く昇って、昼がもっとも長く、夜がもっとも短い節季である。
 この夏至を境に昼間の時間が少しずつ短くなるのを思うと、ああもう夏至かと、いささか淋しく思うのは私だけだろうか。
 そんな夏至にあって、作者は晴れ晴れと世界の天気予報に心を飛ばされたのである。
 そういえば、地球の最北端にある北極圏では白夜となって太陽は24時間沈まないし、南半球では真逆の現象であろうし、世界各国でみな状況は違うのであるから日本だけでなく世界に思いを馳せるのも夏至ならではの心象にかなっているものである。
 もとより掲句は、理屈抜きの、作者の直感そのものであるが、読者は勝手に想像力を広げることができるのである。

  良き知らせ昼寝の後に届きけり   中原初雪
 先の句の天気予報ではないが、「昼寝」もまた世界各国では事情が違うだろう。
 四季を通して昼寝の国もあろうが、日本の昼寝は暑さをやり過ごすためのもので夏ならではのものである。
 作者もご多分に洩れずちょっと昼寝をされた、ほっと休養がとれたであろう、そこへ良き知らせが届いたというのである。
 何とスカッとすることであろうか、この昼寝のよろしさが倍増して感じられるものである。
 一方で、一体どんな知らせであろうかと、思わせぶりであるところに昼寝覚めのぼんやり感もだぶってくるようである。

  
 

  雲海や飯盒飯の炊き上がり   冨沢詠司
 雲海とは飛行機から見るものでなく、山の上から見下ろして雲が海面のように見える光景である。
 これぞ「雲海」というべき一句に初めて出会った気がして爽快である。
 まこと簡潔に的確に言い止めて、その雲海の景観がどこまでも広がってゆくような気分が楽しい。
「や」の切字が、空間や余情の広がりをかくも明らかに見せてくれるのである。

  見るからに清楚なサマードレスかな   中澤翔風
 「清」の席題からもたらされた、まさにストレートな一句。
 作者の意中の女性かもしれない、思わず引き出されたかのような「清楚」が決まっている。
 だが何より「サマードレス」に決着したところが見事である。
 逆に言えば 「見るからに」も「清楚」も、サマードレスだからこそ許される言葉であるとしか言いようがない。
 あこがれのサマードレスである。

  紫陽花や介護車両の駐車場   松尾まつを
 紫陽花と言えば鎌倉の明月院、箱根の登山鉄道などすぐに名勝の数々が浮かび上がるものである。
 ところが作者は何と介護車の止まる駐車場に見届けたのである。
 どこに咲く紫陽花よりもしっとりと、折からの雨に滴っているような情景が美しい。
 紫陽花は梅雨入りから咲き始め、梅雨の上がるころに花期を終えるもので、雨というマイナーな印象を持ちながら、その青々としたボリューム感のあるやさしさは「介護」たる措辞に格別の輝きをもたらすものである。

  竹箒振り回しけり蛍狩   関野瑛子
 夏の夜、涼みがてらに蛍を捕まえる遊びが「蛍狩」である。
掲句の蛍狩は竹箒を振り回したというのである。
「ほーほー、蛍来い、あっちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ」なんて歌いながら、オッカケまわされたのであろうか。
 蛍の生息が少なくなった昨今、思わず忘れてしまった光景に「えっ、そんなことしたの?」って、誰もが身を乗り出して作者に確かめたりして句座が俄然楽しくなった。
 作者の幼き日々の忘れ得ぬ思い出が、現在ただ今の蛍狩の句としていきいきと蘇ったことを喜び合ったのである。


 

  夏空にUMIを呼ぶ声響きけり  永瀬なつき
  教室に汲みおく水の目高かな  奥山きよ子
  短夜の思ひ離れぬ一事かな  伊藤欣次
  重たげな尻あらはるる蛍かな  石本りょうこ
  短夜や寝袋に聞く恋のこと  松井あき子
  子を迎へ蟇をむかへて寝入るかな  二村結季
  日の薄きされどじつとりけふは夏至 河野きなこ
  人生の相談したき蛍の夜  山崎得真
  短夜の赤子を抱いて明けにけり  石堂光子
  大いなる皿に盛らるる湯引鱧  加藤洋洋
  夏薊野太き茎に絮付けて  石野すみれ
  アカシアの花の向かうの海光る  古舘千世
  いつまでも睨み合ふかな羽抜鶏   佐藤昌緒
  梅雨晴や三浦三崎の鰺フライ   佐藤健成
  六月や縋る手摺の黒光り  小宮からす
  下り線先頭車両雲の峰   長谷川美知江
  打たせ湯の硝子の向かう青胡桃   木下野風
  窪みたる我のソフアーや梅雨ぐもり  川北廣子




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青草通信句会 2022年7月

2022年07月11日 | 俳句
草深昌子選 (順不同)
兼題「打水」

   

  バスを待つ列に日傘の老紳士      佐藤健成
 すらっと読み下ろして、とどめの「老紳士」がさも涼しげに浮かび上がります。夏の句はなべて涼しさを旨として作りたいと、あらためて思います。

  打水の鼻緒ぬらして終はりけり    二村結季
 内容的には25と同じで、当然足は濡れるのですが、上から下まで通して「終はりけり」と言い切った表現が、いかにもスッキリしています。

  打ち水の名人見たり先斗町    泉 いづ
 先斗町は京都の鴨川近く、花街、歓楽街です。「打水の名人」とは恐れ入りました。さすがに先祖代々の打水上手がいるのでしょう。舞妓さんもしずしず行くようなイメージが湧いてきます。

  水撒くやホースの先に小さき虹    神﨑ひで子
 「小さき虹」とは、よくぞ見届けられました。丁寧に生きる詩人の日常が察せられます。あたりの涼しさも倍増の下五です。内容、表現ともに見事です。

  籐椅子は指定席なり北廊下    ひで子
 北の廊下に置かれた籐椅子はひやりと冷たい感覚があって、この指定席のお方様は気分よろしいでしょう。「北廊下」は苦しいので、〈籐椅子や北の廊下の指定席〉で如何でしょうか。

  風呂敷のほのかな温み土用入り   伊藤 波
 「ほのかな温み」が、太陽熱によるものなのか、風呂敷の中身のもたらすものなのかわかりません。それでも作者がふと把握されたフレーズに対して、「土用入り」が直感的に決まっています。風呂敷のもたらす感覚も土用入りに一役買ってます。

  打水やほらだんご虫ころころと    松井あき子
 打水のそこに団子虫がいたというだけの句です。只事にしてただごとならぬありようが素晴らしいのです。オノマトぺも効いています。ちょっと推敲してみましたが、やはりここは作者のママにしておきましょう。
  番付を貼られ盥の金魚かな    あき子
 ある種、金魚のあわれというものでしょうか、面白いところに目を付けられました。東京は本郷に、こんな金魚屋さんがあります、品評会等では相撲の格付けみたいな番付が要るのでしょう。

  打水や小さき砂利の跳ねる音    渡邉清枝 
 料亭へ入ってゆく道でしょうか、相当勢いのある打水が思われます。砂利のかすかな音はいっそう涼しげです。砂利が小さい、つまり小砂利なのか、いや音が小さいのか、推敲の余地はありますが、よくぞ聞きとめられました。

  打水に迎へらるるや柊家    石堂光子
 かの有名な京都の老舗旅館柊家です。最高級の柊家の打水を進み行かれるとは、うらやましい限り、さぞかしの涼しさでしょう。

  打水を豪快にして蕎麦屋かな    川北廣子
 「豪快」、こんな言葉を使わないようにと言いたいところですが、ここでは豪快が決まっています。打水ならばこその豪快、しかも蕎麦屋ですもの。

  風凪ぎて登りつつ見るお花畑    市川わこ
 白馬か乗鞍か、「お花畑」なんて高所は、私には夢見るばかりですが、「風凪ぎて」に一緒に登っているような気がします。


       


  炎天や根から傾ぎて幹太く   草深昌子
  素足置くところのどこも黒光り
  打水に端居の足を浮かしけり


  

令和4年7月・青草通信句会・選後に    草深昌子
                                
 「打水」とは、
真夏の乾ききった暑さを鎮めるため、玄関先や庭、路地などに水を打つこと。夕方の打水は、木も草も人もその涼気に生き返る。

  打水に濡れにぞぬるる木賊かな    原石鼎
  水打ってそれより女将の貌となる   鈴木真砂女

 歳時記にはこのように季語の本意本情といいますか、日本の伝統的な情緒というものがよく説明されています。また例句として秀句の数々が掲載されています。そこで、俳句はそういう本情にかなうように、そういう例句にかなうように作るのがいいのかと言いますと、答はノーです。私の場合、例句は何のために読むのかと言えば、「わかった、こういう俳句は作りません」、「こういう俳句を作ってはいけません」と自分自身に言い聞かすために読んでいます。
 今回の「打水」には、なつかしい共通認識があるのですが、あらためて類句類想が生まれやすいことに気付かされました。
 類句類想も体験してこそ我が身の糧になりますので、気にするほどのことではありません、誰しもがその線上を通過しなければ前へ進めません。ただ、選者の務めとして、今後も「俳句らしい俳句」、いわゆる「予定調和の俳句」には慎重に対処してまいります。
 俳句を作るきっかけは、世の中の自然の在りよう、人の在りようを見て、「これって不思議だと思われませんか?」という問いかけのようなものではないでしょうか。自分で答を出すものではありません。俳句の答は、読んでくださる方におまかせするのが一番です。
 またしても飯田龍太の言葉が思い出されます。
 「実作と鑑賞は車の両輪にたとえられるようであるが、私はむしろ歩行のようなものではないかと考えている。実作がおのずから鑑賞を求め、解釈鑑賞の興味が実作を助けながら、両々相俟って進んでゆく。この両者不可分の関係に、俳句の醍醐味がある」







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青草本部句会 2022年7月

2022年07月04日 | 俳句
草深昌子選     (順不同)
兼題「玫瑰」 席題「水」

    

かんぱちに酒の澄みたる真昼かな   奥山きよ子
延長す独身生活雲の峰   川井さとみ
店名は壁に直書き氷店     さとみ         
水しぶき浴る垂水の涼しけれ   間 草蛙          
梅雨曇りローズマリーの香を放ち   渡邉清枝      
玫瑰の風に向へる力あり   芳賀秀弥
はまなすや沖に還らぬ島四つ   松尾まつを
はまなすや草田男ここに今も居り   まつを
五歩半の横断歩道油照   小宮からす
雑踏の遠のく路地やどぜう鍋   中澤翔風
女学生笑ひ転げて胡瓜かな   黒田珠水
仏桑花角に飾つて水牛車   山森小径
早苗饗や庭に乾されて臼と杵   二村結季
竹垣に垂るる花あり半夏生      結季
撒水の果は茗荷の葉を叩き   湯川桂香
 
  


炎天を来たる畳にあおむけに   草深昌子
はまなすのにほひの草田男の思想
大いなる砂塵のあがる夏越かな
玫瑰やそこなる番屋開け放ち
涼しさの添水の音のまた一つ
今しがた蛇のよぎりし日向水



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