草深昌子選 (順不同)
兼題「打水」
バスを待つ列に日傘の老紳士 佐藤健成
すらっと読み下ろして、とどめの「老紳士」がさも涼しげに浮かび上がります。夏の句はなべて涼しさを旨として作りたいと、あらためて思います。
打水の鼻緒ぬらして終はりけり 二村結季
内容的には25と同じで、当然足は濡れるのですが、上から下まで通して「終はりけり」と言い切った表現が、いかにもスッキリしています。
打ち水の名人見たり先斗町 泉 いづ
先斗町は京都の鴨川近く、花街、歓楽街です。「打水の名人」とは恐れ入りました。さすがに先祖代々の打水上手がいるのでしょう。舞妓さんもしずしず行くようなイメージが湧いてきます。
水撒くやホースの先に小さき虹 神﨑ひで子
「小さき虹」とは、よくぞ見届けられました。丁寧に生きる詩人の日常が察せられます。あたりの涼しさも倍増の下五です。内容、表現ともに見事です。
籐椅子は指定席なり北廊下 ひで子
北の廊下に置かれた籐椅子はひやりと冷たい感覚があって、この指定席のお方様は気分よろしいでしょう。「北廊下」は苦しいので、〈籐椅子や北の廊下の指定席〉で如何でしょうか。
風呂敷のほのかな温み土用入り 伊藤 波
「ほのかな温み」が、太陽熱によるものなのか、風呂敷の中身のもたらすものなのかわかりません。それでも作者がふと把握されたフレーズに対して、「土用入り」が直感的に決まっています。風呂敷のもたらす感覚も土用入りに一役買ってます。
打水やほらだんご虫ころころと 松井あき子
打水のそこに団子虫がいたというだけの句です。只事にしてただごとならぬありようが素晴らしいのです。オノマトぺも効いています。ちょっと推敲してみましたが、やはりここは作者のママにしておきましょう。
番付を貼られ盥の金魚かな あき子
ある種、金魚のあわれというものでしょうか、面白いところに目を付けられました。東京は本郷に、こんな金魚屋さんがあります、品評会等では相撲の格付けみたいな番付が要るのでしょう。
打水や小さき砂利の跳ねる音 渡邉清枝
料亭へ入ってゆく道でしょうか、相当勢いのある打水が思われます。砂利のかすかな音はいっそう涼しげです。砂利が小さい、つまり小砂利なのか、いや音が小さいのか、推敲の余地はありますが、よくぞ聞きとめられました。
打水に迎へらるるや柊家 石堂光子
かの有名な京都の老舗旅館柊家です。最高級の柊家の打水を進み行かれるとは、うらやましい限り、さぞかしの涼しさでしょう。
打水を豪快にして蕎麦屋かな 川北廣子
「豪快」、こんな言葉を使わないようにと言いたいところですが、ここでは豪快が決まっています。打水ならばこその豪快、しかも蕎麦屋ですもの。
風凪ぎて登りつつ見るお花畑 市川わこ
白馬か乗鞍か、「お花畑」なんて高所は、私には夢見るばかりですが、「風凪ぎて」に一緒に登っているような気がします。
炎天や根から傾ぎて幹太く 草深昌子
素足置くところのどこも黒光り
打水に端居の足を浮かしけり
令和4年7月・青草通信句会・選後に 草深昌子
「打水」とは、
真夏の乾ききった暑さを鎮めるため、玄関先や庭、路地などに水を打つこと。夕方の打水は、木も草も人もその涼気に生き返る。
打水に濡れにぞぬるる木賊かな 原石鼎
水打ってそれより女将の貌となる 鈴木真砂女
歳時記にはこのように季語の本意本情といいますか、日本の伝統的な情緒というものがよく説明されています。また例句として秀句の数々が掲載されています。そこで、俳句はそういう本情にかなうように、そういう例句にかなうように作るのがいいのかと言いますと、答はノーです。私の場合、例句は何のために読むのかと言えば、「わかった、こういう俳句は作りません」、「こういう俳句を作ってはいけません」と自分自身に言い聞かすために読んでいます。
今回の「打水」には、なつかしい共通認識があるのですが、あらためて類句類想が生まれやすいことに気付かされました。
類句類想も体験してこそ我が身の糧になりますので、気にするほどのことではありません、誰しもがその線上を通過しなければ前へ進めません。ただ、選者の務めとして、今後も「俳句らしい俳句」、いわゆる「予定調和の俳句」には慎重に対処してまいります。
俳句を作るきっかけは、世の中の自然の在りよう、人の在りようを見て、「これって不思議だと思われませんか?」という問いかけのようなものではないでしょうか。自分で答を出すものではありません。俳句の答は、読んでくださる方におまかせするのが一番です。
またしても飯田龍太の言葉が思い出されます。
「実作と鑑賞は車の両輪にたとえられるようであるが、私はむしろ歩行のようなものではないかと考えている。実作がおのずから鑑賞を求め、解釈鑑賞の興味が実作を助けながら、両々相俟って進んでゆく。この両者不可分の関係に、俳句の醍醐味がある」