令和4年2月、「青草」11号 創刊五周年記念号 が発刊されました。
昨年に継ぐコロナ禍の影響下で、五周年記念号の発刊にいたりましたことは、
私たち会員にとりましても、感慨深いものがあります。
記念号として、全会員による特集記事を掲載しました。
その一部をご紹介いたします。
青山抄 草深昌子
きのふ降りけふ吹く落葉掻きにけり
寒禽の一羽に枝のこみあへる
鍋焼や葛西に鷹を見たといふ
土嚢などめり込む水の涸れにけり
道々に見上ぐる崖の冬日かな
雪棹や飛行機がゆき鵯がゆき
悴むやいまうらごゑのハワイアン
芥川龍之介墓や一の霜
塩壺に塩のかたまるクリスマス
その人は日向ぼこりの前をゆく
小春日の風を涼しと思ひけり
おでん屋の離れ座敷にとほさるる
野晒しの臼また杵や柿熟るる
蜻蛉に肥やし袋の裂けてあり
鉄棒の高いのがある園の秋
幹につぐ幹見て通るやや寒う
草庵は寺のはじめのさねかづら
惑星に見て惑星や衣被
狂言の稽古を二百十日かな
読み書きのいよよ楽しやけふ子規忌
風来たる蒲の隙間に蒲見えて
稲に穂の出掛かりてゐる野菊かな
エロスとはこれこの芋虫のかたち
墓あれば蚊のくる水の澄みにけり
行合の空や簾を竿に掛け
柏の木枇杷の木律の調べかな
カウボーイめきたる老いの夏帽子
舟虫や無声映画を見るやうに
夕立の有平棒をけぶらする
四つ角やその角角の大夏木
青草往来 草深昌子
「青草」の会が発足して、十三年の歳月が流れました。そして、松尾まつを編集長はじめ会員の皆さまの熱情でもって、「青草」創刊号が発刊され、早くも五周年。
皆さまと共に楽しくも真剣に学び合えましたこと、心より有り難く感謝申しあげます。
「青草」はあおあおとしています。
「青草」はいきいきとしています。
春は芳しく、夏は茂って、秋は紅葉し、冬は枯れ、やがてまた萌えはじめます。
四季折々の変化こそがもののあわれです。
二度と還らない私たちの命は、変わることなく巡ってくる永遠の命の中にあるのです。
さあ、今を生きる「命のよろこび」を詠いましょう。
「青草」創刊の言葉です。さらさらと書き流したことだけを覚えていましたが、今読み返してもこの思いは変わっていません。それは今も昔も大峯あきらの「花月のコスモロジー」を頼りにしているからです。この季節の宇宙の中で起こっている変化を敏感に受け止め、それを言葉にしていきたいと願っています。松尾芭蕉の「乾坤の変は風雅の種なり」に繋がっているものです。
「自分が本当に感じたことを、正直に述べたのがいい句です」という高浜虚子の言葉は、詩が生まれる唯一の源泉だと、師から繰り返し教えられました。
「自分が本当に感じる」という時の自分とは、人間の意識的な自我のことでなく、そんな自己意識を忘れた自分です。物を本当に感じる時には自我というものはなく、自我は破綻しています、自我意識のこの破れ目から物が我々に出現して物自身の言葉を語るというのです。
わかったつもりですが、いざ句作に実践しようとしますと分かっていないことに気付かされます。
遥かな道のりですが、「青草」は命ある限り、一緒に考えて参りましょう、一緒に笑って参りましょう。
芳草集
蘇鉄の葉落としてからの年用意 間草蛙
星の夜や蕾真白に夏椿
谷川は底の岩盤水涼し
けさ処暑のこほろぎの声蝉の声
青天は一つ色なり冷やかに
石垣に萩の乱るる坂の家
寒林に穿つ音あり小げらなる
あたたかやテトラポットに鳥の羽 二村結季
花水木屋根の高さにそよぎけり
囀や厚木神社の楠大樹
客人のごと蟇門を入る
空を掃くなんじやもんじやの花の寺
中元の長子夜来て朝帰る
稲妻や転居五か月目の玻璃戸
青草集
春泥に張り付く鴨の羽色かな 伊藤波
鴨引きて微睡む亀の水となり
春鴨や胸つき上げて白き月
熟麦の匂ひを知るか鳶来たる
青鷺の老尼の如くひもすがら
凌霄花を揺らす雀の飽きもせで
白靴を下げて早退する子かな
花満ちて加賀の銘菓の届きたる 川北廣子
老いてなほ当主の意気や松の芯
病棟の朝の始まり蜆汁
雷鳴やドクターヘリは飛び立ちぬ
幾度もポストを覗く厄日かな
無花果の熟れてはがゆき高さかな
まだ土の湿る筍分け合ひぬ
青草創刊五周年記念特集 私の一句
(一部を掲載します)
≪石原虹子≫
夏座敷大きな闇の中にあり 虹子
生家は岡山県の農家です。九人兄弟の末子で両親兄弟は日の出前から日没まで畑仕事です。小学生の私は自分で弁当を詰めて登校し、帰ったら家族十一人の食事を作って待つのです。だだっ広い家でいつも一人で留守番をしていましたから、子供の頃の原風景が口から出てきたのがこの句です。
≪石堂光子≫
ひよいと子を抱き上げてほら青葡萄 光子
初孫が一歳半を過ぎたある日、孫の家の周辺を散歩していた時のこと。住宅街に僅かに残る畑の一角に葡萄棚があり青い小さな実をつけているのを見つけた。間近で見せて上げたいと思って取った仕種がそのまま句となった。句会「青葡萄」の解散句会に出句したこともあり、思い出の一句です。
≪市川わこ≫
蔓強く軒まで覆ふ葉月かな わこ
庭先の藤は毎年見事な花を咲かせますが、花が散るにつれ房の下から葉は繁り、蔓はどんどん伸びてきます。伸びた蔓を手入れするのですが、いくらでも伸びます。植物の生命力に驚かされます。
この藤棚には五年程前から毎年鳩が巣を作り今年も二羽が巣立ちました。
秀句集 草深昌子
青天は一つ色なり冷やかに 間 草蛙
一読、真っ青な冷やかさが肌身に添ってくるように感じられます。「青天は一つ色なり」と、上五中七が切れずに続きます、そして一息を入れて、「冷やかに」と念をいれたような下五につながっていきます。このように整った形式があって、はじめて一句の内容が際だってきます。
佳き句にはデジャブを感じますが、草蛙さんのご努力の賜物と信じています。奇しくも、同人会長が記念号の巻頭を飾られましたことに感慨ひとしおです。
熟麦の匂ひを知るか鳶来たる 伊藤 波
白靴を下げて早退する子かな
一句目、黄金色に熟した麦畑が広がっています。さっきから鳶のさっそうたる飛翔がやみません。ダイナミックな光景に読者まで匂いを嗅ぎ取りたくなります。
二句目、「白靴」には元気溌溂のイメージがありますが、掲句には意外性があります。一体どうして早退するのでしょうか、何故白靴を下げているのでしょうか。手に下げた白靴を通して、この子の気持ちのありようまで覗いてみたいような衝動にかられます。
空を掃くなんじやもんじやの花の寺 二村結季
落葉高木の「ヒトツバタゴ」を、「ナンジャモンジャ」ともいいます。初夏ながら、まるで雪の降り積もったように真っ白な花を咲かせます。「空を掃く」それだけで大いなる木のありようが思われます。作者の実家のある茅ヶ崎の成就院のもののようです。
幾度もポストを覗く厄日かな 川北廣子
「幾度もポストを覗く」ことと「厄日」との間には何の因果関係もありません。何度もポストを覗くのは気がかりな知らせがあるのでしょうか、それとも期待の便りを今や遅しと待っているのでしょうか、いずれにしましてもどこか落ち着かない無為なる動作、心のありようが、厄日のそれに通底しています。
さざなみがとびうつりゆく柳かな 川井さとみ
句意は説明するまでもありません。さざ波のささやかにも力強い躍動感でもって、水すれすれに垂れさがっている柳の生命力の美しさが描かれています。
雨蛙一つ跳んでは考へる 佐藤健成
「うーん、雨蛙って本当にそうだな」って誰しもが共鳴することでしょう。それは「一つ跳んでは」という確かなる写実が、「考へる」という措辞に紛れもなきリアリティーを付加しているからではないでしょうか。
本棚に鬼平シリーズ梅雨に入る 古舘千世
池波正太郎原作の鬼平犯科帳は、何となく知っているという程度の私ですが、鬼平という字面やその語感から「梅雨に入る」という実感がよく伝わってきます。
本棚に専門書が揃っていることを詠っても野暮なだけです。鬼平シリーズであればこそ人の温もりが思われ、梅雨の到来をしみじみと受け入れることができるのです。
薫風や四つ葉探しをひとしきり 石堂光子
クローバーの群生に出会ったら、人はみな幸運の四つ葉はないかしらと思わず探し求めます。いつだったか小田原城下を吟行中に、名のある俳人が無我夢中になって摘まれたことを思い出しました。今もって夢みるような他愛ない希求が、薫風とともにやってきたのです。
鰯雲十九階の和食膳 中原初雪
秋の大空に鰯雲がさざなみの如く敷きのべられています。十九階という高階、それも高級なる和食膳をいただいているのですから、気分のよろしさは格別です。人の姿や心のありようを鰯雲が明らかに代弁しています。
実家とは古きソフアに古団扇 奥山きよ子
ソフアも団扇も古いということは、そこらにあるものはなべて古いのでしょう。こんな実家ながら落着きのある黒光りの情趣を覚えるのは「古団扇」と抑えたからです。ここには愛情の染み渡った、いぶし銀のような実家のよろしさが窺われます。
日射病大地に頬を慰撫されし 伊藤欣次
これぞ日射病というもののありようではないでしょうか。「慰撫」という思いがけない措辞は、「日射病」なる季題に斬新なる命を与えられました。なつかしくも身にしみて感じるものがあります。
甘井や夏の朝の始まりぬ 松井あき子
「甘井」といううまい水の出る井戸があります。この井戸の周辺から人々の一日が始まるのです。わけても「夏」の朝が鮮やかにも涼しげに感じられます。
リフトよりひらりと下りる草刈女 森田ちとせ
草刈女と言いますと、ただひたすらに炎天に耐えて作業するという地道な姿を思い浮かべますが、何とまあこの草刈女は、「ひらりと」と颯爽たるものです。眼下には大草原が広がっていることでしょう。
ゆつくりと落穂を食めよ雀どち 河野きなこ
ついこの間まで熟した稲穂に襲い掛かっていた雀です。もう鳥威しも外されました。収穫のあとの落穂拾いは人間にとっても大事なもののようですが、今はいたいけな雀にもやさしく呼びかけたい作者です。
白頭鳥とガラス戸越しの会話かな 平野翠
白頭鳥とはヒヨドリのことです、ボサボサの毛の鵯もこう表記されると美しい感じがします。作者は硝子戸越しに鵯を見つけて、まるで友達を迎えるように語りかけたのでしょう。爽やかな一句です。
特訓の泥にまみるる遅日かな 中澤翔風
何の特訓でしょうか、さしずめ中学や高校の運動部の部活がしのばれます。「泥にまみるる」は、暮れそうで暮れない、これでもかという動きを目の当たりに見せて、「遅日」に大いなる説得力をもたらしました。
梅雨晴や隣の部屋の青畳 佐藤昌緒
「隣の部屋の青畳」は、取り替えたばかりの新調の畳ではないでしょうか、梅雨のさ中に藺草の匂いが立ち込めるようです。「隣」という一字が、梅雨晴の距離感を晴れやかに見せています。
我が庭の草よく伸びる秋の雲 東小薗まさ一
残暑の日々が続きますと、よき草も悪しき草も繁殖するばかりで困ったものですが、作者は「よく伸びる」ことを素直に肯定しています。秋の雲が爽やかに見渡せます。プラス思考の句は元気をいただけます。
七月やこの坂越せば日本海 湯川桂香
「七月や」の打ち出しに、「この坂越せば日本海」がピタッと胸に沁み込むようにはりつきました。やがてじんわりと日本海が真っ青に見えてきます。なるほど作者の故郷は長岡市でした。七月という盆を控えた最も暑い時期に、素朴かつ情熱的な何らかの心の動きがあったのでしょう。俳句は理屈では分からないものですが、その分からないところに魅了されもするのです。
富士の背にたたみ込まるる秋夕焼 松尾まつを
秋の夕焼は夏のそれとは違って、何とも言えぬ寂寥感を覚えるものです。そんな秋の夕焼が、かの壮大なる富士山の向かうにみるみる褪せゆくさまを「たたみ込まるる」と表現しました。
余韻余情にしばし佇むばかりです。
その他、注目句をあげます。
葉桜の枝しなやかに夕日かな 石原虹子
籾を焼く煙流るる誰もゐぬ 山森小径
山鳩の刈田で遊ぶ番かな 鈴木一父
寒川や恋の水鳥葦の堰 栗田白雲
清水ある側の学校静かなり 市川わこ
秋風に庭の手入れの長びけり 加藤か乃乃
硝子戸に歪んで見ゆる春の海 加藤洋洋
手の平に二つはのらぬなすびかな 泉 いづ
一合の米炊きあがり秋の暮 木下野風
前日にハンカチーフを手渡され 黒田珠水
半夏生墓に水打つ人のあり 田中朝子
松葉かと拾ふ指からばつた飛ぶ 神﨑ひで子
木箱揺れ駅舎に届く林檎かな 渡邉清枝
女見て連れの男の浴衣見る 冨沢詠司
緑蔭や人待ちながら風を見て 堀川一枝
天辺へ梯子掛けたるさくらんぼ 長谷川美知江
春鴨や飛びつつ落とすひと雫 日下しょうこ
夏木立回りに回る逆上り 芳賀秀弥
向日葵の葉を食べ尽す芸術家 漆谷たから