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青草俳句会~命のよろこび

結社「青草」 主宰 草深昌子

青草・春の吟行句会 小田原 2025年4月15日(火)

2025年04月20日 | 俳句
前日からの雨が早朝には上がり、
雲間に青空が見えてほっとしました。
とは言え空の様相は慌ただしく、
白くて厚い雲間に青空はありましたが、
時おり風に取られそうになる帽子を押さえなければなりませんでした
しだれ桜、八重桜、花吹雪、桜蘂降る、葉桜。
季節は春から夏へと移ろうとしていました。


   

日時  令和7年4月15日(火) 
吟行地 小田原城及び周辺
句会場 小田原市民交流センターumeco 会議室4
参加者 29名

    


草深昌子選 (順不同)
      
 天守閣左廻りに春惜しむ     冨沢詠司
 花吹雪城へ行きかふ石の橋    市川わこ                            
 桜散る手裏剣道場屋根低し    平野 翠
 海風の轟くほどや竹の秋     大村清和
 行く春やいづれも小さき城の窓  森田ちとせ          
 天守閣見えて菖蒲の根分かな   奥山きよ子
 植込みに絡んでゐるや花通草   石堂光子
 空堀に傾く古木春惜しむ     松井あき子

  
   


 鷺のせて一枝しだるる夏隣    昌子
 尊徳のあはれ金色花惜しむ             
 蕊や葉や花や実の降る暮春かな
 猫の子の洞にくぐまる城下かな
 ゆく春の曲輪を松の老いにけり



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草深昌子を中心とす句会・選後に・ 令和7年3月

2025年04月17日 | 俳句
草深昌子選

    


  困りごとなにも無き日やぺんぺん草   山森小径
 「困りごとなにも無き日」、一体そんな日があるのだろうかと思う間もなく「ぺんぺん草」がやってきて、それはそうだなといっぺんに共鳴する。
 上12の思いがあってぺんぺん草が付いたのではなく、ぺんぺん草に見惚れているうちに、
平凡な日のささやかなありようをうべなわれたのではなかろうか。
 ぺんぺん草は薺の花のこと、花はみな小さな実となって 三味線の撥(ばち)のような形をしていることからぺんぺん草の名が起こったと言われる。
 その「ぺんぺん」が一句全体によく響いている。
 
  まな板に菠薐草のもりあがる   小径
 菠薐草といえば遠い昔のことながら、〈夫愛すはうれん草の紅愛す 岡本眸〉に心惹かれたことを思いだす。
 今や愛や恋もなく、ひたすら老体の健康維持のために菠薐草をおいしくいただいている。
 そんな身にとって、掲句の気勢のよさが嬉しい。
 洗いあげた葉っぱの緑の鮮やかさ、その嵩高いありようはポパイの好きな菠薐草以外の何ものでもないのではなかろうか。

  風車際立つ色となりにけり   大村清和
 セルロイド、今どきそんなシロモノがあるのかないのか風車といえばセルロイドといういうことばの響きもろともになつかしい。
 風を受けるとくるくる回る美しい仕掛けのおもちゃは、春の祭の神社や境内に風車売りが出ると、一気に春満載の雰囲気になったものである。
 〈廻らねば魂ぬけし風車 高浜虚子〉の句の通り、春風あってこその風車。
 掲句はいっときのよき風にいっせいに廻りだしたのであろう、
 その一瞬の色彩を「際立つ色」として見事に捉えられたものである。
 見事に、などど言ったが作者は何一つ力まずして、風車そのものから賜ったことばのようにごく自然に詠いあげている。

  お互ひのまなざし知らぬ内裏雛   佐藤昌緒
 雛は雛でも「内裏雛」であるところが決まっている。
 天皇と皇后、男女一対のお姿。思えば先祖代々雛壇にあって女児の幸せを祈り続けてこられたまなざしである。
 そういえば向き合われたことはなかったのであった。
 何と言っても、この「まなざし」の措辞が気品高くもやさしく魅了される。
 句歴が長くなると一読ふっとデジャビュを感じてしまうことが多々ある。
 掲句もそうであった、それは即ち佳き句の証しのようなものかもしれない。
 
  くすくすと木の芽の笑まふ南口   石野すみれ
 「くすくすと木の芽の笑まふ」読むからに楽しい、釣られて笑いそうになる。
 そこで「南口」とくると、うんそうだろうな、そうだよね、と納得する。
 東口でも北口でも西口でもよさそうだが、南口がぴったり。
 ただ作者の見届けた情景が南口であったというだけであろう、そのたまたまを迷わずに断定するのが俳句の直感である。

  金縷梅や暴れん坊のきかん坊   すみれ
 金縷梅の花は他の花々に咲きがけて、先ず咲く、それが訛って「まんさく」になったと言われている。
 余寒の中にあって、もじゃもじゃというか、ちりぢりというか、こぞって捩れた黄色の花を咲かせる。
 そんな曰く言い難き花の印象を「暴れん坊のきかん坊」と親心のようなやさしさをもって言いとどめた。
 描写でありながら、お気に入りの心情がよく出ている。

 
   


  野遊や池のあひるは柵を越え   松井あき子
 うららかな野遊びのさなかに、あひるが柵を越えてやってきたとは驚きである。
 キャーとかワーッとか言いながら、追っかけたり逃げたりしながら、いっそう楽しくなったのではないだろうか。
  蛇足ながら昔、橿原神宮にて、七五三詣でをした折、ため池のあひるが我が一人娘に嚙みついて、晴着を着たまま大泣きをされた苦い思い出がある。
 以来、あひるはちょっと怖いイメージではあるが、野遊びの頃なら繁殖期を思いやってもいいだろう、いずれにしても予期せぬ自然界の出会いである。

  啓蟄の雨や地べたに染み入りて   あき子
 雨は地べたに染み入るものではありながら、「啓蟄の雨」という断定がゆるぎなき印象をもたらしている。
 啓蟄は3月5日頃、地中の虫がみな動き、戸を啓(ひら)きて初めて出ることを言う。
 「啓蟄や雨の地べたに染み入りて」とは違うのである。
 「切れ」なくして俳句はあり得ないが、どこでどう切るかが、俳句表現の大いなる面白さである。

  シクラメン南の窓に移しけり   高橋 麦
 
何てことない、地味な詠いぶりだが、これぞシクラメンだなと思わせる。
 拙宅にもシクラメンの一鉢があって、年末から春も闌の頃になっても、茎をのばしてピンクの花をいっぱいつけている。
 水加減を考え、日当たりを考え、それなりに手間を惜しまないのだがそのことがまた楽しい。
 その心をこめた喜びが「南の窓に移しけり」に十全に言い表されている。

  送水会白装束に導かれ   村岡穂高
 送水会(そうすいえ)は「若狭のお水送り」のこと。
 福井市小浜市の神宮寺境内から汲み上げられた水を鵜の瀬から奈良へ送る神事だという。
 奈良東大寺で行われる「お水取」の水の水源である。
 神事であるからには松明があり護摩があり様々の手順がおごそかに行われたであろうことは想像に難くない。
 実際に見るとあれもこれも言いたくなる。
だが、作者は「白装束に導かれ」のひと言に言い切られた。
この清々しさに、まこと尊きお水が思わるばかりである。

  母をらぬ春分の日や麩まんぢゆう   小宮からす
 「春分の日」は彼岸の中日、二十四節気の一つである。
 「母をらぬ」は、この春分の日にたまたまお出かけなのかもしれないが、
 下五にポツンと置かれた「麩まんぢゆう」の味わいからは永遠のお留守を思わせていただいた。
 つやつやの笹の葉の包を開くと見るからに柔らかそうな麩まんぢゆうがあらわれる。
 しっとりとした香りに、もちもちのおいしさをかみしめながら、
 まぎれなく母と共にあるよきひとときを過ごされているのであろう。

  春昼やニッキの匂ふ祖母の部屋   からす
 こちらは母ならぬ思い出の祖母の部屋である。
 もとより俳句としては現実に生きてある祖母の匂い、その匂いのままにある祖母の部屋を詠いあげていると解した方が新鮮だろう。
 ニッキは肉桂のことで、その独特の芳香を祖母の匂いとして一句に染みわたらせているのは、
  ほかならぬ「春の昼」がもたらす芳潤の趣にほかならない。


  花きぶし遠く列車の響きけり    奥山きよ子
  売り渡す母の底地や沈丁花       きよ子

     

  踏青や紙の袋にりんごジャム     石井久美
  大き木の梅や夕日の庭のうち     葉山 蛍
  叱られて伏せの犬の目鼓草      日下しょう子
  杖白くすれ違ひたる梅林       中原初雪
  タンカーの沖を動かぬ霞かな     岩城泰成
  春服を買ふ気もなしにららぽーと   滝澤さくら
  田の神の祠のあとの仏の座      河野きなこ
  席取りの花は蕾の上野かな      柴田博祥
    




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青草通信句会 2025年4月

2025年04月10日 | 俳句
草深昌子選  (順不同)
兼題「石鹸玉」

       


  しやぼん玉城のお堀を渡りけり    奥山 きよ子
 よきところを渡ってゆきました。場所のイメージからゆうゆうと、長閑な感じが漂います。

  大楠の幹に吸はるる石鹸玉   二村結季
 楠の太々とした幹のあたりを上っては失せる石鹸玉でしょうか。「吸はるる」には石鹸玉の幽けき感じがよく出ています。

  石鹼玉括れて大き一つなり   日下しょう子
 ここまでよく観察されますと石鹸玉も喜んでいることでしよう。ちょっと歪になってもすぐに立ち直るのはこういうことだったのですね。いろいろの飛び方が本当に楽しいと気付かされます。
  相模より安房に棚引く霞かな   中原初雪
 相模は神奈川県、安房は千葉県の南部のこと、旧国名が古来から詠われ続けてきた「霞」を文字通り趣をもってぼんやりと棚引かせます。
 相模から安房の方面へということでしょうね、〈相模より安房へ棚引く〉

  豆苗に蔓の出でたる四月かな   日下しょう子
 豆苗はつぎつぎ葉っぱが出ますが、ついには蔓になって伸びていくのでしょう、それは四月のことなのですね。ほおっとばかり一句に教えていただきました。俳句の楽しさはこんなところにもあります。
 表現が的確です。


       


  しやぼん玉飛ばさんD51たかだかと      昌子

  蛇出づる屋敷のここに屋敷神   
  浜風の吹き来る春の涼しさよ


     

令和7年4月・青草通信句会講評        草深昌子

 令和7年4月の兼題は「石鹸玉」
 石鹸玉はいつの季節でもいいですが、やはり春らしい遊びです。

  流れつつ色を変へけり石鹸玉   松本たかし 
 飛んでゆく石鹸玉の美しさや愛らしさが目に見えるようで、何回読んでも本当にそうだなと感嘆します。何気ない表出ですが、大気の日の光や風の具合までをも描写しているのです。
  赤松の幹をのぼるや石鹸玉   大峯あきら
 赤松の樹皮は赤みがかっています。黒松は雄松、赤松は雌松、その幹の優美さを石鹸玉はするすると上昇してゆきます。

 「青草」誌において、これまで「大峯あきらのコスモロジー」を連載してきましたのは、青草の皆さまに大峯あきら俳句を理解していただく手立てになればという思いがあったからでした。
こつこつと13回続きましたところで『大峯あきら全句集』が刊行されました。これを機に、全句集を紐解きながら、併せて草深昌子拙稿「大峯あきらのコスモロジー」をじっくり読み直していただきたいと願っています。大峯あきら俳句を前よりも、もっと親しく感じていただけるものと期待しています。
 大峯あきら俳句は宇宙性のある俳句と評されていますが、「宇宙はあそこではなく、ここである。宇宙の中以外に自分が生きている場所はない」というのが先生の宇宙です。科学者のような目をもって天体を眺めるものでなく、作者自身が日や風や雨を宇宙の中に感じとっていることが分かってくるでしょう。
 大峯先生から、「自分が本当に感じたことを言葉で巧みに飾り立てないで、正直に述べたのがいい俳句です」という虚子の言葉を繰り返し教えられました。「自分が本当に感じる」というときの「自分」とは、人間の意識的な自我のことばではなく、そんな自己意識を忘れた自分のことです。われわれが物を本当に感じるときには自我というものはないのです。自我意識が破綻して、その破れ目から物がわれわれに出現して、もの自身の言葉を語ってくれるというのです。
従って、大峯あきら俳句のすべては平明、かつ鮮やかにストレートです。何より精神の若々しさが桁違いであったと今さらに気づかされます。思えば『群生海』発刊が82歳、『短夜』発刊が86歳、その意気軒昂は驚くばかりです。最期まで、花鳥と共に永遠の今を言葉にとどめられたのでした。
  忘れては思ひ出しては春の行く   あきら
  玄関に蝶一つ来て夏に入る 






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本部句会 令和7年4月4日(金)

2025年04月10日 | 俳句
草深昌子選 
兼題「亀鳴く」 席題「体」


       


 あやしくも小糠雨かな花衣    柴田博祥
 春寒や体温計の音小さ     小宮からす
 伸びやかに川原育ちや諸葛菜  木下野風    
 応援歌時に桜をおどろかす    二村結季
 放課後の長き廊下に亀鳴けり  奥山きよ子

       

 亀鳴くか松を来たれる風の音か    昌子   
 亀鳴いてあはれ体面失へる
 蛙子や体のうすく頭のぶあつ
 体もなく茎を曲げたるチューリップ
 すつぽんのあとくる亀の鳴きにけり
 春興の水の流れにしたがへる




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