ぶらり紀行

宝塚市近郊の神社仏閣・祭り山車を中心に訪れた様子をレポート

竹田城

2015年03月10日 21時08分20秒 | 史跡

兵庫県朝来市和田山町 竹田城跡

山城遺跡として全国でもまれな完存する遺構であり、天守台は標高353.7メートルの山頂に築かれてる。現存の遺構は、豊臣秀吉が但馬攻め(天正5年)の後、近世の城郭に普請するように命じたものとみられている。別の名を“虎臥城(とらふすじょう・こがじょう)”とも呼ばれ、国の史跡に指定。

竹田城は、嘉吉年間(1441-43)、但馬の守護大名、山名 宗全が出石城の出城として播磨・丹波から但馬への侵略路に位置するこの地に、13か年を費やして築いたと伝えられている。当時は、土塁をもとに作られた城と考えられ、山名氏の武将、太田垣氏が7代にわたって城主となり治める。しかし、天正5年(1577)、天正8年(1580)秀吉の2度の但馬征伐で竹田城は落城、山名氏とともに太田垣氏は没落す。
その後、秀吉の弟、秀長の属将的な地位にあった桑山修理太夫重晴、続いて播磨龍野城主 赤松政秀の子、赤松広秀が城主となる。広秀は朝来郡2万2000石を領有し、文禄年間から慶長の初期(1600年頃)に、現在のような豪壮な石垣積みの城郭を築く。
竹田城の石垣の積み方は、織田信長の安土城と同じ技術で、自然石の石の声を聞きながら積むと言われる、近江穴太衆の手による穴太流石積み技法が用いられている。野面積みで、石材は現地のほか山麓付近から集めたものと考えられ、花崗岩で最大のものは5トンと推測される。その石垣は、400年を経た現在でも、当時の偉容をそのままに誇っている。
竹田城の最後の城主、赤松 広秀は、関ヶ原の役で西軍に属し敗北、その後、徳川方として鳥取城攻めに加わり戦功をあげますが、城下に火を放ったとの罪を押しつけられ自刃、竹田城は廃城となった。

朝来市HPより



2013年6月 訪問

入場規制や有料になる前に訪問 中腹まで当時はマイカーで行けました。

日本のマチュピチュ・天空の城




















































ネットより拝借 ↓





城下の社寺彫刻









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