
そもそも相野安右衛門との出会いは、約3年前福知山教育委員会資料題より「京町の彫物師相野氏について」と言う題目を目にし関係各庁に連絡をし研究発表された方を紹介してもらったのが始まりである。
研究者塩見昭吾氏
氏より発表資料をいただき、相野安右衛門社寺彫刻現地確認へ
都合3度ほど丹後、丹波へ相野安右衛門調査行くも途中で頓挫し現在に至る。
福智山京町住人御彫物師相野安右エ門儀一
氏の資料内にもあるのですが同じ所在で丹州福知山京町住人御彫物師安井安右エ門儀一
相野・安井と氏は違うが他はすべて同じ。
塩見氏資料では、同人物として彫物師安井=相野と一応社寺紹介してあります。
安井師彫刻については、以前紹介
↓
http://blog.goo.ne.jp/aniki0528/e/7c2686c330f95e5b026a796bd8a1f577
聞き取り調査も安井師末裔にてさせていただきましたが相野については不明
当初は私も同一人物では?と思いましたが・・・・・
再度資料・彫刻画像検討した結果
私の推測ではありますが、相野安右エ門儀一と安井安右エ門儀一は別人と判断します。
安井安右エ門儀一は、相野安右エ門儀一の弟子ではないかと推定。
となると相野安右エ門儀一まったくもって詳細不明となりました。
現在私のもっている資料で解っている範囲
福知山、綾部、宮津にて江戸後期~明治初期に活躍した彫物師
はっきり年代解っているもの古い分安政2年(1855)・新しいもの明治10年(1877)
特長
木鼻・獅子、獏は浪花彫刻の特長あり
その他は正直浪花相野とは、似ていないように感じますが・・・・・。
年代的には、浪花相野全盛と同時代ですね。
一応カテゴリーは相野一門に入れましたが、浪花相野一門とのつながりの根拠なし。
宮津市内神社
万延元年(1860) 丹州福知山彫物相野安右エ門儀一作

















私も、中井彫刻の見聞していると福知山方面でちらほら見かけます。
私も、あにきさんと同じく、「相野安右エ門儀一」と「安井安右エ門儀一」は別人と思います。彫りの印象がちがいますよね。
推測で書いてはいけないのかもしれませんが、相野安右エ門儀一は、綾部市高津八幡宮の「相野徳兵衛」の彫刻造営に関わっていたと思います。
高津八幡さんは、一八三九~一八五二年の約12年がかりの事業でそれだけの、雇用が見込めたと思います。
しかし、当時の大阪から綾部までの行程を考えたら、ちょっとやそっとで行ける距離ではなかったはず、それにあの大作の彫り物を作り上げようとすると、地元での人足や見習い衆を雇っていたとも考えられる。そこでの現場監督的なポジションに「相野安右エ門儀一」であり、その中で腕の立つ一人に「安井安右エ門儀一」がいたと考えて、その相野安右エ衛門は福知山に根付いたと思います。あくまでも推測・・・
でもたしかに気になっていた部分です。
高津八幡宮!!
徳兵衛間違いなく、長期滞在ですよね・・・・・
しかも遠距離、道すがらどこぞ彫ってないですかね?
と考えるのですが・・・・
安右衛門も高津八幡宮間違いなく携わっていると私も推定
高津八幡宮また行きたくなりました。(笑)