彫刻師列伝とまでいきませんが・・・
彫刻師相野一門
仔細詳しくは今だわからず、教科書は大坂浪花木彫史
祖は相野一門=相藤と言われる所以か?相野藤七とされていますが・・・・・
相藤という名称も含め疑問あり。
現存する彫刻にて推測するなら
刻銘(墨書)建造年判明を揃えているものは少なく少々危険ではありますが、
相野一門の核するなら「相野伊兵衛」「相野徳兵衛」「相野藤七」か・・・・・
相野徳兵衛が嘉永年間以前に社寺彫刻の商売カタログと思われる彫刻画集(下絵図)を発刊している。もちろん分家がそのような本を出しては、いけないとする掟?のような事案も考えにくく、イコール本家とするのも危険。
ノミ跡的には、それぞれ基本的には似ている。しかしこの三師同門、親子、兄弟の血縁関係か?どうかは、はっきりしません。
伊兵衛・徳兵衛に関するなら、判明している刻印銘よりその名を代々襲名したと考えるのが自然である。
今回は、相野伊兵衛直之
先代伊兵衛がいた可能性は大いにあり。ただし彫刻師ではない可能性もあるが、なんとなく匂いがする彫刻があるにはある。まだなんとも言えず。
地車彫刻及び社寺において残している刻銘(墨書)を見ると
伊兵衛直之の場合と伊兵衛のみの場合が混在する。
それぞれに詳細見比べる必要があるが、年代判明している彫刻はすべて直之と推定。
資料として古くは、天保3年発刊の浪華買物独案内に掲載あり。
神社仏閣彫物細工所 彫刻師 相野伊兵衛
少なくとも天保3年(1832)年以前より相野伊兵衛は相野一門より独立した状態で彫物師業を営んでいた。
銘が残る彫刻最古は同じ年、天保3年(1832)太子町・西町地車彫刻・墨書きによる
この墨書きは伊兵衛のみ・彫刻より直之本人と推定。
直之=高齢までがんばっていたかもしれませんが、私的には、幕末までに彫刻師人生は終えているように考える。
もちろん次代の伊兵衛○○もいた可能性は大いにありえる。
今後伊兵衛○○(直之と異なる)銘が発見されることを期待。
特長ある伊兵衛直之作 「虎」
天保3年(1832)伊兵衛
天保10年(1839)伊兵衛直之推定
嘉永7年(1854)伊兵衛直之
嘉永7年(1854)年代推定 伊兵衛直之
江戸後期年代推定 伊兵衛直之
江戸後期年代推定 伊兵衛直之 少々この部分は違和感あり。
江戸時代 伊兵衛直之推定
時代不詳 伊兵衛直之推定
やっと時間ができてスタバより。
ゴールデンウィークは関西におもどりでしたか?
刻み薄いですね・・・・?
元々あの部分がどこにあったか?微妙に疑問な板です。
それと新たに取付した部分が漆喰ですからね・・・・
少々痛むかも
あまり働らきすぎないように、お体ご自愛ください。(笑)