ANANDA BHAVAN 人生の芯

ヨガを通じた哲学日記

環境世界に浸(ひた)る

2024年03月16日 | 日記
 環境世界に浸(ひた)る

 カルカッタのカーリー寺院の暑い石畳の打ち水と原色の花々。カルカッタ郊外のドッキンネッショル寺院ではラーマクリシュナの寝室のベッドの白いシーツと室内の微風。ヴァラナシ(ベナレス)では早朝のガンジス川に漕ぎ出した小舟ですくい上げたガンジスの水の手触り。そして夕暮れ時のラヒリ・マハサヤのお寺の冷たい石の床。アラハバード(プラヤグ)では合流するガンジス川の泥色とジャムナ川の乳白色の交わる事が無くどこまでも続く2本の線。あれは34才の時でした。

 ヴァラナシ(ベナレス)のガンジス川で沐浴をした時に私の前を横切ったマッツヤ・アーサナ(魚のポーズ)で浮かんでいるおじさん。カルカッタ近郊のタラケッシャルでは昼食の食堂の土埃(つちぼこり)で汚れた重そうなテーブルと椅子。カルカッタ近郊のドッキンネッショル寺院では12個が並ぶシヴァ神の祠とその向こうを流れる悠久のフーグリ川(ガンジス川)。そして更にラーマクリシュナが瞑想をしていたと言う5本の木の場所(パンチャムンディ)。あれは40才の時か。

 夜のヴァラナシ(ベナレス)で訪問したラヒリ・マハサヤのお寺のリフォームされていてやたらに明るい部屋の茶色のフローリング。カジュラホでは寺に彫刻された数多くのミトゥナ像(男女交歓の像)とその向こうの青空。オルチャの村では点在する近代イスラム建築と川の流れと青い空。レストランを出て外で煙草を吸ったっけ。あれは2014年の3月。

 南インドではカーンチプラムのエーカンバラナータル寺院の黄土色の巨大なゴープラム(塔門)、中に入るとシヴァ神とパールヴァティーが結婚式を挙げたと言うマンゴーの樹の下に小さな祠が有りました。マドゥライではミーナクシーアンマン寺院の極彩色のゴープラム(塔門)、中に入って象にその鼻で頭を撫でてもらいました。そしてインド最南端のカンニャクマリ(コモリン岬)ではアラビア海に沈む夕日とベンガル湾に昇る朝日。あれは2019年の事。

 国内では2023年に南九州へ行き、鹿児島の霧島神宮では近くのパワースポットの山神社で湿潤なパワーを浴び、宮崎では高千穂峡の切り立った目を見張る崖と色が転変する川の流れに驚き、青島では澄み切った青空と砂と緑と海に私は天国に居るのかと思わせてくれました。

 さてこのようにありありとその情景がビジュアルに蘇って来ますけれども、不思議な事に、何かを達成した時の喜びの記憶はちっとも蘇ってはくれません。大学入試に合格した時の情景や結婚式の時の情景は強いては(自然にでは無く)蘇って来ますけれども、高校入試に合格した時や入社試験に合格した時、また大きな得意先を獲得した時の喜びの情景は全く蘇って来ませんし思い出しもしません。不思議ですね、何故でしょうか。

 何かを達成した時、その時には自我意識が強く出ていたのだと思います。自我意識が活発な時には自分が立ち過ぎていて心と環境世界の間に断絶の溝が出来、主観だけとなって環境世界が立ち上がらず(見えず)、一方で環境世界に対して自我意識の働きが微弱で受け身に転じた時には環境世界と心が響き合っていた、その印象が強烈なものだったんでしょうね。

 ラマナ・マハリシが「一人称が消えると二人称も三人称も無くなる」と言っていますように、自我意識が鎮まると世界はひとつ、心と環境世界が共に響き合うのでしょうね。

 私達は日常、環境世界に浸(ひた)る事無く目の前の問題をちまちまと片づけていますでしょう。ですから環境世界に浸(ひた)って心と環境世界が響き合うようになるには、旅行は貴重な体験なのだと思います。


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