ラーマクリシュナとラマナマハリシ
ラーマクリシュナ(1836-1886)とラマナマハリシ(1879-1950)は近代インドが生んだ精神世界の2人の巨人です。ラーマクリシュナはカルカッタのドッキンネッショル寺院を生活の場としました。一方ラマナマハリシは南インドの人です。私のヨガのグルであるジバナンダ・ゴーシュ先生の奥様のコルナ・ゴーシュ先生の伯父にあたるパラマハンサ・ヨガナンダがラマナマハリシを訪ねてその教えを受けたという記録もあります。またゴーシュ先生の本部道場はカルカッタにありますので、ラーマクリシュナとも接点がありそうです。ですから私はこの2人には近しみを感じるのです。
ラーマクリシュナがバクティ・ヨガ(信仰のヨガ)の人であるのに対し、ラマナマハリシはジュニャーナ・ヨガ(智恵のヨガ)の人です。ラーマクリシュナは泣くは、歌うは、踊るは、の人ですが、ラマナマハリシは静かで寡黙です。ラマナマハリシは弟子達に対してあまり話しはせず、ただ自らの発する穏やかなバイブレーションで弟子達を魅了していたようです。
随分とタイプの違う2人ですので、私はこの2人にはあまり共通点は無いと思っていました。ところが最近、この2人の共通点に私は気付きました。解脱(サマディ)に至る過程と、解脱(サマディ)を得た後の勉強のしかたがどうも同じなのです。
ラーマクリシュナはある日突然に解脱(サマディ)に捉えられます。またラマナマハリシもある日突然に死の恐怖に襲われ、その時に「私とは誰か」を問い詰めた最後に解脱(サマディ)を得ます。この2人共解脱(サマディ)を求めて大変な修行をした後にようやく解脱(サマディ)を得た訳ではありません。2人共ちょっとしたきっかけで解脱(サマディ)に至っています。そして解脱(サマディ)の経験が確固たるものになったその後で2人は古代インドの聖典の勉強を始めています。
この古代インドの聖典とは、大体つぎの3つです。先ず、ヴェーダの時代の最後にあたるヴェーダーンタ哲学、次にサーンキヤ哲学、そしてバガヴァッド・ギーターの哲学です。
ラーマクリシュナやラマナマハリシはどうして解脱(サマディ)の経験の後にこういった古代インドの聖典の勉強を始めたのでしょうか。気になるところです。普通に考えれば、解脱(サマディ)を得るためにこういった古代インドの聖典を勉強する筈です。そして解脱(サマディ)を得た後にはそういった勉強は要らない筈です。2人共既に解脱(サマディ)を得ていますから、もう、そういった勉強は要らないと思いますよね。ところが違うのです。
2人共、解脱(サマディ)の経験が確固たるものになった時、その解脱(サマディ)の体験の有り様を人に伝える必要を感じたのでしょう。こういった体験は言葉で伝えることが大変に難しいのですが、それでも言葉で伝える必要があったのでしょう。そうした時にこういう古代インドの聖典は役に立つのです。
先ほどこの古代インドの聖典とは、ヴェーダーンタ哲学と、サーンキヤ哲学と、バガヴァッド・ギーターの哲学の3つだと申し上げましたが、それらの哲学がどんなものか簡単にお話ししましょう。
先ずヴェーダーンタ哲学は一元論です。この世界の全ての源はブラフマン(梵)であると言います。次にサーンキヤ哲学は二元論です。根本にプルシャ(精神原理)とプラクリティ(物質原理)の2つをたてます。そしてバガヴァッド・ギーターの哲学はこの一元論と二元論の合一を主張します。
ラーマクリシュナは先ず、神様には人格が無いと言います。そしてまた、神様には人格が有ると言います。さて、神様には人格が無いとするのはヴェーダーンタ哲学のブラフマン(梵)のことです。そして神様には人格が有るとするのはサーンキヤ哲学のプラクリティ(物質原理)のことです。ラーマクリシュナは先ずヴェーダーンタ哲学の一元論とサーンキヤ哲学の二元論を合一させる訳です。ラーマクリシュナはこの世界は実在しないと言います。そしてまた、この世界は実在するとも言います。この世界は実在しないと言うのはヴェーダーンタ哲学のブラフマン(梵)のことです。そして、この世界は実在すると言うのはサーンキヤ哲学のプラクリティ(物質原理)のことです。
次にラーマクリシュナはサーンキヤ哲学の二元論について、時間や空間の制約を受けないプルシャ(精神原理)と時間や空間そのものであるプラクリティ(物質原理)とが寄り添っているのだと、うっとりと主張します。この世界を実在するもの、実態のあるものとするところがラーマクリシュナの人格の暖かさを感じさせるところです。
一方、ラマナマハリシは私とは何かを問い詰めます。私とは何か、私とは肉体か?いや違う。私とは何か、私とは心か?いや違う。私とは何か、私とは自我意識(アハンカーラ)か?いや違う。こうしてラマナマハリシはサーンキヤ哲学のプラクリティ(物質原理)の展開を、結果の方から始まりの方へ遡るように探求を進めて、最後にはプルシャ(精神原理)に辿りつきます。ラマナマハリシはこれをアートマンと呼んでいます。
ラーマクリシュナとラマナマハリシは2人共サーンキヤ哲学の言葉を使って解脱(サマディ)の有り様を説明していますが、この2人はそのアプローチの仕方が違います。ラーマクリシュナはプルシャ(精神原理)とプラクリティ(物質原理)を使って非人格神と人格神の並立を主張しています。一方でラマナマハリシはプラクリティ(物質原理)の展開を遡ることで「私とは何か」を問い詰めていきます。
解脱(サマディ)の経験を確かにした2人ですが、ラーマクリシュナはやはりバクティ・ヨガ(信仰のヨガ)の人であり、ラマナマハリシはやはりジュニャーナ・ヨガ(智恵のヨガ)の人です。人は解脱(サマディ)を得たあとも、それより以前の人格を持ち続けていることが分かりますね。
ラーマクリシュナ(1836-1886)とラマナマハリシ(1879-1950)は近代インドが生んだ精神世界の2人の巨人です。ラーマクリシュナはカルカッタのドッキンネッショル寺院を生活の場としました。一方ラマナマハリシは南インドの人です。私のヨガのグルであるジバナンダ・ゴーシュ先生の奥様のコルナ・ゴーシュ先生の伯父にあたるパラマハンサ・ヨガナンダがラマナマハリシを訪ねてその教えを受けたという記録もあります。またゴーシュ先生の本部道場はカルカッタにありますので、ラーマクリシュナとも接点がありそうです。ですから私はこの2人には近しみを感じるのです。
ラーマクリシュナがバクティ・ヨガ(信仰のヨガ)の人であるのに対し、ラマナマハリシはジュニャーナ・ヨガ(智恵のヨガ)の人です。ラーマクリシュナは泣くは、歌うは、踊るは、の人ですが、ラマナマハリシは静かで寡黙です。ラマナマハリシは弟子達に対してあまり話しはせず、ただ自らの発する穏やかなバイブレーションで弟子達を魅了していたようです。
随分とタイプの違う2人ですので、私はこの2人にはあまり共通点は無いと思っていました。ところが最近、この2人の共通点に私は気付きました。解脱(サマディ)に至る過程と、解脱(サマディ)を得た後の勉強のしかたがどうも同じなのです。
ラーマクリシュナはある日突然に解脱(サマディ)に捉えられます。またラマナマハリシもある日突然に死の恐怖に襲われ、その時に「私とは誰か」を問い詰めた最後に解脱(サマディ)を得ます。この2人共解脱(サマディ)を求めて大変な修行をした後にようやく解脱(サマディ)を得た訳ではありません。2人共ちょっとしたきっかけで解脱(サマディ)に至っています。そして解脱(サマディ)の経験が確固たるものになったその後で2人は古代インドの聖典の勉強を始めています。
この古代インドの聖典とは、大体つぎの3つです。先ず、ヴェーダの時代の最後にあたるヴェーダーンタ哲学、次にサーンキヤ哲学、そしてバガヴァッド・ギーターの哲学です。
ラーマクリシュナやラマナマハリシはどうして解脱(サマディ)の経験の後にこういった古代インドの聖典の勉強を始めたのでしょうか。気になるところです。普通に考えれば、解脱(サマディ)を得るためにこういった古代インドの聖典を勉強する筈です。そして解脱(サマディ)を得た後にはそういった勉強は要らない筈です。2人共既に解脱(サマディ)を得ていますから、もう、そういった勉強は要らないと思いますよね。ところが違うのです。
2人共、解脱(サマディ)の経験が確固たるものになった時、その解脱(サマディ)の体験の有り様を人に伝える必要を感じたのでしょう。こういった体験は言葉で伝えることが大変に難しいのですが、それでも言葉で伝える必要があったのでしょう。そうした時にこういう古代インドの聖典は役に立つのです。
先ほどこの古代インドの聖典とは、ヴェーダーンタ哲学と、サーンキヤ哲学と、バガヴァッド・ギーターの哲学の3つだと申し上げましたが、それらの哲学がどんなものか簡単にお話ししましょう。
先ずヴェーダーンタ哲学は一元論です。この世界の全ての源はブラフマン(梵)であると言います。次にサーンキヤ哲学は二元論です。根本にプルシャ(精神原理)とプラクリティ(物質原理)の2つをたてます。そしてバガヴァッド・ギーターの哲学はこの一元論と二元論の合一を主張します。
ラーマクリシュナは先ず、神様には人格が無いと言います。そしてまた、神様には人格が有ると言います。さて、神様には人格が無いとするのはヴェーダーンタ哲学のブラフマン(梵)のことです。そして神様には人格が有るとするのはサーンキヤ哲学のプラクリティ(物質原理)のことです。ラーマクリシュナは先ずヴェーダーンタ哲学の一元論とサーンキヤ哲学の二元論を合一させる訳です。ラーマクリシュナはこの世界は実在しないと言います。そしてまた、この世界は実在するとも言います。この世界は実在しないと言うのはヴェーダーンタ哲学のブラフマン(梵)のことです。そして、この世界は実在すると言うのはサーンキヤ哲学のプラクリティ(物質原理)のことです。
次にラーマクリシュナはサーンキヤ哲学の二元論について、時間や空間の制約を受けないプルシャ(精神原理)と時間や空間そのものであるプラクリティ(物質原理)とが寄り添っているのだと、うっとりと主張します。この世界を実在するもの、実態のあるものとするところがラーマクリシュナの人格の暖かさを感じさせるところです。
一方、ラマナマハリシは私とは何かを問い詰めます。私とは何か、私とは肉体か?いや違う。私とは何か、私とは心か?いや違う。私とは何か、私とは自我意識(アハンカーラ)か?いや違う。こうしてラマナマハリシはサーンキヤ哲学のプラクリティ(物質原理)の展開を、結果の方から始まりの方へ遡るように探求を進めて、最後にはプルシャ(精神原理)に辿りつきます。ラマナマハリシはこれをアートマンと呼んでいます。
ラーマクリシュナとラマナマハリシは2人共サーンキヤ哲学の言葉を使って解脱(サマディ)の有り様を説明していますが、この2人はそのアプローチの仕方が違います。ラーマクリシュナはプルシャ(精神原理)とプラクリティ(物質原理)を使って非人格神と人格神の並立を主張しています。一方でラマナマハリシはプラクリティ(物質原理)の展開を遡ることで「私とは何か」を問い詰めていきます。
解脱(サマディ)の経験を確かにした2人ですが、ラーマクリシュナはやはりバクティ・ヨガ(信仰のヨガ)の人であり、ラマナマハリシはやはりジュニャーナ・ヨガ(智恵のヨガ)の人です。人は解脱(サマディ)を得たあとも、それより以前の人格を持ち続けていることが分かりますね。
どれだけ細かく説明しても、インドの哲学は言葉で理解するには膨大すぎるし、本当に難しいですよね。
「あの世だけでは退屈、でもこの世だけだと人間の半分しか分からない」が最近の私の心境です。