梵我一如
日本には昔から梵我一如と言う言葉が有りますが、私は30才でヨガを始めるまでは梵我一如とは仏教思想の事だと思っていました。今でも多くの人が漠然とそう思っているのでは無いでしょうか。しかし仏教にはブラフマン(梵)と言う概念も有りませんしアートマン(我)と言う概念も有りません。ここでありありと竹の皮で編み上げた手毬(てまり)を想像して見ましょう。竹の皮は因縁、つまり因と縁です。そして因と縁で形どられた手毬(てまり)の中は空っぽで手毬(てまり)の中に実体は有りません。これを諸法無我と言います。
仏教が現れて以降、インドではヴェーダーンタ思想が起こりました。ヴェーダーンタ思想と言う言葉は一般的な日本人にはあまり馴染みが有りませんね。ヴェーダーンタ思想では環境世界を環境世界と見るのはマーヤー(幻)で、環境世界の全ての実態はブラフマン(梵)で有るとし、ブラフマン(梵)と真の自己で有るアートマン(我)との合一を見よと主張します。これが梵我一如です。ですから梵我一如は仏教思想では無くヴェーダーンタ思想です。ヴェーダーンタ思想を「不二一元論」と言います。
高校時代でしたか、禅の言葉なのでしょうが、「調身→調息→調心」と言うのを知りました。体を整え、呼吸を整え、そして心を整えると言う事でしょうが、これがやって見るとなかなか難しい。なかなか難しいのですが、「調身→調息→調心」が完成すれば仏道の完成なのかと言いますと、これが違います。「調身→調息→調心」が出来上がった所で跳躍が起こります。そしてこの「跳躍」の先に何が有るかによってそれが仏教かヴェーダーンタ思想かサーンキヤ哲学かになります。インドの3大思想で有る仏教とヴェーダーンタ思想とサーンキヤ哲学のいずれも「調身→調息→調心」までは一緒です。どうしてかと言いますと、「調身→調息→調心」はヨガだからです。インドの3大思想の仏教もヴェーダーンタ思想もサーンキヤ哲学も基礎にはヨガが有ります。
「調身→調息→調心」が整って跳躍が起こったその先に、先程申し上げました竹の皮で編み上げた手毬(てまり)を見ますと、それが仏教です。因縁と言うエネルギーが渦巻く中に永遠の魂などと言うものは無く、因縁の中身は空(くう)で有ると言う訳です。この思想は大変難しく、間違えますと虚無思想に陥る危険も有ります。そしてまた仏教では永遠の魂を認めませんが輪廻転生は認めます。これをどう解釈しましょうか。因と縁のエネルギーの転変は止む事無く継続するので、それを輪廻転生と呼ぶのでしょう。
次に、「調身→調息→調心」が整った時に環境世界をマーヤー(幻)と見て跳躍が起こり、跳躍のその先にブラフマン(梵)と合一するアートマン(真我)を見ますと、それはヴェーダーンタ思想です。ブラフマン(梵)とアートマン(我)の合一を主張するヴェーダーンタ思想は簡潔な一元論なので頭では理解し易いのですが、アートマン(真我)の定義にはっきりした所が無く、「本当にその通りだ」と実感するのが難しいと言う難点も有ります。そしてアートマン(真我)は時間や空間の制約を受けませんから、輪廻転生には全く問題が有りません。
さて、サーンキヤ哲学はヨガの哲学です。根本に、現実世界を展開させる物質原理であるプラクリティ(自然)と、何の属性も持たずプラクリティの展開を見ているだけの精神原理であるプルシャ(真我、絶対主観)のふたつを立てます。プラクリティは時間や空間そのものですがプルシャは時間や空間の制約を受けません。サーンキヤ哲学は二元論です。サーンキヤ哲学では心も体も環境世界もプラクリティから展開するので、同根でひとくくりです。そこで、「調身→調息→調心」が整った時に跳躍が起こり、跳躍のその先に心とは全く別のプルシャ(真我、絶対主観)を見た時、それがサーンキヤ哲学です。サーンキヤ哲学では「心や体や環境世界」と「真我」の両方が実在します。そしてサーンキヤ哲学のプルシャ(真我、絶対主観)はヴェーダーンタ哲学のアートマン(真我)と同一ですから、輪廻転生にも全く問題は有りません。
このように、インドの3大思想である仏教とヴェーダーンタ思想とサーンキヤ哲学とは理屈の上では相矛盾していますが、実際には矛盾してはいません。解脱体験をどう表現するかの違いだけで解脱体験そのものには違いは無いのです。ここが理屈が合わなければ矛盾としてしまう、頭で考える西洋哲学と違う所ですね。
最後に、諸行無常について考えて見ましょう。平家物語の影響なのでしょうが、諸行無常と言う言葉には暗くてネガティブな、そして静的な印象が有りますね。これはいけません。そして諸行無常の「無常」が「無情」に重なってしまうのも日本人の特徴なのでしょうが、実際には有情(うじょう)が転変する事を無常と言います。万物は転変しているのですがその有様は暗くもネガティブでも静的でも有りません。インドにはナタラージャ(踊るシヴァ神)のブロンズ像が有りますが、シヴァ神は転変する「今」を踊り進みます。ですから「諸行無常」と言う時には、「万事転変」と言い直した方が良いように思うのですが、如何でしょうか。
日本には昔から梵我一如と言う言葉が有りますが、私は30才でヨガを始めるまでは梵我一如とは仏教思想の事だと思っていました。今でも多くの人が漠然とそう思っているのでは無いでしょうか。しかし仏教にはブラフマン(梵)と言う概念も有りませんしアートマン(我)と言う概念も有りません。ここでありありと竹の皮で編み上げた手毬(てまり)を想像して見ましょう。竹の皮は因縁、つまり因と縁です。そして因と縁で形どられた手毬(てまり)の中は空っぽで手毬(てまり)の中に実体は有りません。これを諸法無我と言います。
仏教が現れて以降、インドではヴェーダーンタ思想が起こりました。ヴェーダーンタ思想と言う言葉は一般的な日本人にはあまり馴染みが有りませんね。ヴェーダーンタ思想では環境世界を環境世界と見るのはマーヤー(幻)で、環境世界の全ての実態はブラフマン(梵)で有るとし、ブラフマン(梵)と真の自己で有るアートマン(我)との合一を見よと主張します。これが梵我一如です。ですから梵我一如は仏教思想では無くヴェーダーンタ思想です。ヴェーダーンタ思想を「不二一元論」と言います。
高校時代でしたか、禅の言葉なのでしょうが、「調身→調息→調心」と言うのを知りました。体を整え、呼吸を整え、そして心を整えると言う事でしょうが、これがやって見るとなかなか難しい。なかなか難しいのですが、「調身→調息→調心」が完成すれば仏道の完成なのかと言いますと、これが違います。「調身→調息→調心」が出来上がった所で跳躍が起こります。そしてこの「跳躍」の先に何が有るかによってそれが仏教かヴェーダーンタ思想かサーンキヤ哲学かになります。インドの3大思想で有る仏教とヴェーダーンタ思想とサーンキヤ哲学のいずれも「調身→調息→調心」までは一緒です。どうしてかと言いますと、「調身→調息→調心」はヨガだからです。インドの3大思想の仏教もヴェーダーンタ思想もサーンキヤ哲学も基礎にはヨガが有ります。
「調身→調息→調心」が整って跳躍が起こったその先に、先程申し上げました竹の皮で編み上げた手毬(てまり)を見ますと、それが仏教です。因縁と言うエネルギーが渦巻く中に永遠の魂などと言うものは無く、因縁の中身は空(くう)で有ると言う訳です。この思想は大変難しく、間違えますと虚無思想に陥る危険も有ります。そしてまた仏教では永遠の魂を認めませんが輪廻転生は認めます。これをどう解釈しましょうか。因と縁のエネルギーの転変は止む事無く継続するので、それを輪廻転生と呼ぶのでしょう。
次に、「調身→調息→調心」が整った時に環境世界をマーヤー(幻)と見て跳躍が起こり、跳躍のその先にブラフマン(梵)と合一するアートマン(真我)を見ますと、それはヴェーダーンタ思想です。ブラフマン(梵)とアートマン(我)の合一を主張するヴェーダーンタ思想は簡潔な一元論なので頭では理解し易いのですが、アートマン(真我)の定義にはっきりした所が無く、「本当にその通りだ」と実感するのが難しいと言う難点も有ります。そしてアートマン(真我)は時間や空間の制約を受けませんから、輪廻転生には全く問題が有りません。
さて、サーンキヤ哲学はヨガの哲学です。根本に、現実世界を展開させる物質原理であるプラクリティ(自然)と、何の属性も持たずプラクリティの展開を見ているだけの精神原理であるプルシャ(真我、絶対主観)のふたつを立てます。プラクリティは時間や空間そのものですがプルシャは時間や空間の制約を受けません。サーンキヤ哲学は二元論です。サーンキヤ哲学では心も体も環境世界もプラクリティから展開するので、同根でひとくくりです。そこで、「調身→調息→調心」が整った時に跳躍が起こり、跳躍のその先に心とは全く別のプルシャ(真我、絶対主観)を見た時、それがサーンキヤ哲学です。サーンキヤ哲学では「心や体や環境世界」と「真我」の両方が実在します。そしてサーンキヤ哲学のプルシャ(真我、絶対主観)はヴェーダーンタ哲学のアートマン(真我)と同一ですから、輪廻転生にも全く問題は有りません。
このように、インドの3大思想である仏教とヴェーダーンタ思想とサーンキヤ哲学とは理屈の上では相矛盾していますが、実際には矛盾してはいません。解脱体験をどう表現するかの違いだけで解脱体験そのものには違いは無いのです。ここが理屈が合わなければ矛盾としてしまう、頭で考える西洋哲学と違う所ですね。
最後に、諸行無常について考えて見ましょう。平家物語の影響なのでしょうが、諸行無常と言う言葉には暗くてネガティブな、そして静的な印象が有りますね。これはいけません。そして諸行無常の「無常」が「無情」に重なってしまうのも日本人の特徴なのでしょうが、実際には有情(うじょう)が転変する事を無常と言います。万物は転変しているのですがその有様は暗くもネガティブでも静的でも有りません。インドにはナタラージャ(踊るシヴァ神)のブロンズ像が有りますが、シヴァ神は転変する「今」を踊り進みます。ですから「諸行無常」と言う時には、「万事転変」と言い直した方が良いように思うのですが、如何でしょうか。
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