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ANANDA BHAVAN 人生の芯

ヨガを通じた哲学日記

息継ぎは大事

2025年03月29日 | 日記
息継ぎは大事

 最近のJPOPは面白く無いですね。例えばYOASOBI、伴奏の楽器演奏は表面に出ないし歌詞は文字数がやたらに多いのにその中身は薄く世界は半径3mの恋愛未満な様子。ところどころでファルセット(高音)を使っては感情の高ぶりを演出、そして何よりもどこで息継ぎをしているのか分からない。頭で考えて作った音楽、これは今の他のグループも似たり寄ったりです。

 息継ぎが大事と言えば60~70年代の欧米のポップス(R&Bやロックやカントリー&ウエスタンも含めて)は息継ぎを使っては感情の高まりを表現していました。音楽は頭脳では無く衝動の感情的な表現です。

 例えばオーティス・レディングの「ドック オブ ベイ」、60年代のR&Bの傑作ヒット曲ですが今も色あせていません。オーティス・レディングの歌声も良いけれど伴奏の楽器演奏もそれぞれの楽器が良い味を出しています。そしてオーティス・レディングは息継ぎの直後に強い声で絶望的な心情を歌い上げます。彼は当時26才だったそうですがまるで中高年の錆びついた哀愁の声。息継ぎが切ないのです。

 インターネットで「ドック オブ ベイ」の日本語訳つきの歌詞を見つけましたのでそれをコピー&ペイストしておきます。どこで息継ぎをするのか想像しながら読んでくださいね。

 The Dock Of The Bay

Sittin' in the morning sun
朝日のなか、僕は座りこんでいる
I'll be sittin' when the evening comes
夜が来るまで座り続けよう
Watching the ships roll in
船が集まっては、また遠ざかっていくのを
Then I watch them roll away again, yeah
ずっと見つめているのさ

I'm sittin' on the dock of the bay
僕は波止場に座って
Watchin' the tide roll away, ooh
潮の満ち引きを眺めている
I'm just sittin' on the dock of the bay
ただ波止場に座って
Wastin' time
時間を浪費していく

I left my home in Georgia
僕は故郷のジョージアを離れて
Headed for the Frisco Bay
サンフランシスコの港へと向かった
Cuz I've had nothing to live for
生きていく目標も無く
And look like nothing's gonna come my way
何もうまくいきそうにないから

So,I'm sittin' on the dock of the bay
だから僕は波止場に腰掛けて
Watchin' the tide roll away, ooh
潮の満ち引きを眺めている
I'm just sittin' on the dock of the bay
ただ波止場に座って
Wastin' time
時間を無駄にしているだけ

Looks like nothing's gonna change
これからだって何も変わることはないだろうし
Everything still remains the same
全てが同じように思えるんだ
I can't do what ten people tell me to do
やれと言われたことを充分にこなせない
So I guess I'll remain the same, listen
だから僕もずっと変わらずに生きていくよ。いいかい?

Sittin' here resting my bones
ここに座って骨を休めているけど
And this loneliness won't leave me alone, listen
この孤独はどこまでもつきまとうだろう
Two thousand miles I roam
2千マイルも彷徨い続けるんだ
Just to make this dock my home, now
結局は同じ場所に戻ってくるのに

I'm just gon' sit at the dock of a bay
僕は波止場に腰掛けて
Watchin' the tide roll away, ooh
潮の満ち引きを眺めている
Sittin' on the dock of the bay
ただ波止場に座って
Wastin' time
時間を浪費していく

 ここにはURLを貼り付けられないのでコメント欄にオーティス・レディングの「ドック オブ ベイ」の動画を貼り付けておきます。良かったら聞いてください。



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太陽と私

2025年03月15日 | 日記
太陽と私

 朝、玄関先へ出て太陽の光を額(ひたい)に浴びながら煙草を吸っていますと、太陽と私とが夫々別個のものでは無い事が分かります。この、太陽と私に共通するものをインドの人達はブラフマン(梵)と呼ぶのでしょうね。これは正法眼蔵の「山動く」や「梅花」に通底します。

 大海原の向こうに沈む太陽を眺め続ける事をスーリヤ・ディヤーン(太陽の瞑想)、また満月の夜空を見上げ続ける事をチャンドラ・ディヤーン(月の瞑想)と言います。

 日本でも神様を感じる事は出来ますが、インドでは神様を朝日や夕日のように大きく身近に感じますのに、日本では神様を真昼の太陽のように小さく遠くに感じますね。
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記憶はジュークボックス?

2025年03月01日 | 日記
記憶はジュークボックス?

 私が小学生の頃、熊本には進駐軍の米軍キャンプが有りました。私の両親はキャンプの中の人に用事が有って私を連れてキャンプへ行きましたが、用事が終わって日が暮れますとキャンプ内のレストランで夕食を取る事にしました。私達がレストランのカウンターに座っていますと若い兵士が入って来まして、扉の横のジュークボックスにコインを入れて好きな曲を聞き始めます。ここで私はアメリカ人は凄いなあ、音楽を聴くのにお金を払うなんてどんなお金持ちなんだろうと思いました。当時の私達の暮らしでは流行りの音楽はラジオで(無料で)聞くだけのものでした。

 今ではジュークボックスを知らない方もおられるでしょう。ジュークボックスは会社のコピー機くらいの大きさと重量感の有る機械でして、中に数10枚のEPレコードを仕込んで有ります。お客がコインを投入し聴きたいレコードのボタンを押しますと機械がレコード盤をピックアップして中央の回転盤へ運びそこに針が落ちて曲が流れる仕組みでしたね。ジュークボックスは私が入社した頃のスキー場にもまだ有りまして、そこでサンタナの「ブラック マジック ウーマン」を聞いた記憶が有ります。

 さて、リタイア生活で毎日を穏やかに暮らしていますと、突然昔の日常の何でもない出来事の記憶がありありと蘇って来ては消えて行く事が有ります。何でこんな些細なさもない出来事が蘇って来るのだろう、またこの思い出は今の私にとってどんな意味が有るのだろうかと思いを巡らせますが、全く何の意味も有りません。これはどうした事でしょうか。

 ヨガでは経験した事の記憶が潜在意識化したものの事をサムスカーラと言います。そしてヨーガ・スートラには瞑想の際に最も消滅させるのが難しいのがこのサムスカーラだと書いて有ります。サムスカーラ(経験した事の記憶が潜在意識化したもの)は記憶の倉庫(仏教では阿頼耶識と呼びます)にどんどん蓄積されて行きます。そしてそれがランダムに無秩序に顕在意識に戻って来るようです。これがリタイア生活の年代になりますとこのサムスカーラの量も相当ボリューミーになっているようです。

 例えて見ますと、経験した事の記憶はクリアファイルのようなものに保管されてひとつのフォルダーになり、そしてこの無数のフォルダーの束が扇風機の羽のように脳内で回転していて、それらの中のひとつがそれこそランダムに無秩序に顕在意識化しているようです。

 あれ、これってジュークボックスみたいなもの?いやいやどうも違うようです。ジュークボックスでは聞きたいレコードを選び、それを引っ張り出して聴きますが、サムスカーラの顕在化は取り出したいと思って取り出せるものでは無く、それこそランダムに(無意志に)顕在化するようです。

 昔の楽しかった出来事や嬉しかった出来事をありありと思い出そうとしても駄目ですね、言葉では蘇りますがヴィジュアルには蘇って来ませんでしょう。一方Facebook に写真を投稿しますとそれが自分の時系列のアルバムになりますので、その時の写真を見ますとその前後の光景はありありと浮かんで来ますね。

 潜在意識はジュークボックスのレコードのようには取り出せませんが、Facebook の写真アルバムは無意識の顕在化に有効なようです。

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