ANANDA BHAVAN 人生の芯

ヨガを通じた哲学日記

シャンカラとラーマーヌジャと広瀬アリス

2018年01月01日 | 日記
シャンカラとラーマーヌジャと広瀬アリス

 ヴェーダーンタ思想が一元論でサーンキヤ哲学は二元論、そして仏教はゼロ元論で有るとは以前にも申し上げましたが、ヴェーダーンタ思想は頭では分かり易いもののヨガの瞑想ではなかなか実感出来ないものですから少し調べて見ようと、中央公論社発行の「世界の名著1 バラモン教典 原始仏典」の中の「不二一元論」と「最高神とその様態」を1度も読んだ事が無かったので読んで見ました。

 「不二一元論」はヴェーダーンタ思想の学匠シャンカラの主著である「ブラフマ・スートラ注解」からその第2編第1章の定句14および18に対する注解を抜粋したものだそうで、一方の「最高神とその様態」はヴェーダーンタ学者ラーマーヌジャの「ヴェーダの要義」からその1部を抜粋したものだそうです。これらを読んで見ますとシャンカラもラーマーヌジャもサーンキヤ哲学の体系を叩き台にしている事が良く分かりますので先ずはサーンキヤ哲学の体系をおさらいしておく必要が有ります。

 サーンキヤ哲学は二元論です。大元にプルシャ(精神原理、真我)とプラクリティ(物質原理、現象世界)の2つを立てます。プルシャ(精神原理、真我)に属性は無く、ですから時間や空間の制約を受ける事無くプラクリティ(物質原理、現象世界)の展開を照らし見るだけです。一方プラクリティ(物質原理、現象世界)には当初ラジャス(激質)、タマス(暗質)、サットヴァ(純質)と言う3つのグナ(性質)が有ってそれが均衡していますがプルシャ(精神原理、真我)に見られるとその均衡が崩れ、自身の踊りをプルシャ(精神原理、真我)に見せるべく展開を始めます。

 プラクリティ(物質原理、現象世界)は展開を始めて先ずブッディ(理性)になります。ブッディ(理性)はマハット(大)とも言いますが、決断する働きの事です。そして次に展開してアハンカーラ(自我意識)になります。アハンカーラ(自我意識)からは3種類の11器官に、そして一方で5つのタンマトラ(素粒子)と5つのブータ(元素)に展開します。

 ここで3種類の11器官とは思考器官である1つのマナス(認識)と、知覚器官である5つのインドリヤ(鼻・舌・眼・皮膚・耳)と、行為器官である5つのカルメインドリヤ(発声器官・手・足・排泄器官・生殖器官)です。そして5つのタンマトラ(素粒子)とは香・味・色・触感・音で、最後の5つのブータ(元素)とは地・水・火・風・空です。

 何だか頭がごちゃごちゃになりそうですので、プルシャを真我、そしてプラクリティを心と体と環境世界の事だと思えば良いでしょう。

 さてここでヴェーダーンタ思想に話を戻しましょう。ヴェーダーンタ思想は一元論で、世界の本質をブラフマン(梵)であるとして、各個人に内在するブラフマン(梵)の事はアートマン(真我)と呼びます。そして現象世界をマーヤー(幻)であるとして退けます。しかし私等はブラフマン(梵)は何となく理解出来ますものの、現象世界はやはり有るでしょうと反論したくもなります。シャンカラやラーマーヌジャはこれをどう説明しているのでしょうか。

 シャンカラはサーンキヤ哲学の2つの原理、つまりプルシャ(精神原理、真我)とプラクリティ(物質原理、現象世界)について、プラクリティ(物質原理、現象世界)をマーヤー(幻)であるとして退けていました。そして残ったプルシャ(精神原理、真我)を個人に内在するアートマン(真我)であるとして、アートマン(真我)=ブラフマン(梵)の不二一元論を主張します。そして一方のラーマーヌジャはどうかと言いますと、プルシャ(精神原理、真我)とプラクリティ(物質原理、現象世界)の上にブラフマン(梵)を立てて一元論に仕立てています。シャンカラはプラクリティ(物質原理、現象世界)を削除し、ラーマーヌジャはプルシャ(精神原理、真我)とプラクリティ(物質原理、現象世界)を統合する事で一元論を完成させていると言えますね。

 まあしかし、一元論にしても二元論にしてもゼロ元論にしても、先ずはヨガのサマディ(解脱)体験が有り、それをどう理解してどう説明するかなのですから、究極はどれでも良いと言う事になるのでしょう。

 ここでお話は一気に飛びます。

 NHKの連続テレビ小説「わろてんか」は面白く無いですね。面白く無いですが広瀬アリスが登場する場面は何故か引き締まります。広瀬アリスの挑戦的な目には目力(めぢから)が有りますね。この目力(めぢから)は攻撃の象徴です。一方で広瀬アリスのふっくらとした頬(ほほ)はどうでしょうか。ふっくらとした頬(ほほ)は受容と寛容の象徴ですね。1人の女性の表情に、同時に攻撃と受容・寛容が表れるのを見ていますと、インド神話に出て来るシヴァ神の妃が想起されます。

 シヴァ神の妃はその働きによって名前が変わります。悪魔を退治するのに凶暴になった様はカーリー女神、余りの憤怒の為に自制が利かなくなって夫のシヴァ神を踏みつけてしまう程です。また、ライオンに乗って悪魔を退治するのはドゥルガー女神でドゥルガー女神はパワーと母性の象徴です。そして貞淑で優しい様はパールヴァティーで、夫のシヴァ神から熱心にヨガを教わる勉強家でも有ります。

 さて、サーンキヤ哲学のプルシャ(精神原理、真我)は男性名詞で一方のプラクリティ(物質原理、現象世界)は女性名詞だそうです。ですからプルシャ(精神原理、真我)をヨガの神様のシヴァ神に見立て、プラクリティ(物質原理、現象世界)をシヴァ神の妃の(カーリー、ドゥルガー、パールヴティー)に見立てる事が出来ます。プラクリティ(物質原理、現象世界)はシャクティとも言います。シャクティとは女性の性的なパワーを神格化したものです。

 広瀬アリスの表情に攻撃性と受容性・寛容性が同時に表れるのを見た時に、私はシャクティの顕現を見ました。プラクリティ(物質原理、現象世界)は実在する、そして私にとっての芯はやはりサーンキヤ哲学とシャクティ信仰で有ると、改めて思いました。

 どうでしょう、シャンカラと広瀬アリスがどうにか繋がりましたでしょうか。











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