インドちゃんの子どもと書くな!子供と書け!!

障がい者と書くな!障害者と書け!!

聞きに来んかい!!!!

2010-02-01 15:14:57 | Weblog

日本は本当に大丈夫か??

 

実際に戦場へ赴かれた方がまだご存命でいらっしゃるが、その方の話を誰も聞きに来やしない。

 

見渡す限り、いつもと同じメンバーではないか。

 

後に続くを信じて戦ってくださった元兵士の魂の叫び、最後の訴えを聞く機会は、残念ながら後数年でなくなるだろう。

 

聞きに来んかい!!!!

 

平成21年12月20日大阪護国神社にて

特殊潜航艇「海龍」元乗組員 池田明義先生のお話を聞く

 

 皆さんは小学校六年間あるいは中学校3年間の思い出をどれくらい鮮明に語ることができるであろうか。中学校の修学旅行の思い出でもいい。1時間ほど思い出話を語ってくれと問われ、テキパキと語ることができるであろうか。1220日大阪護国神社にて、特殊潜航艇海龍の元乗組員、池田明義先生のお話しを伺った。先生は八十六歳というご高齢にも関わらず、約二時間ぶっ通しで幼少の頃から敗戦後のことまで微に入り祭を穿って説明をされた。まるで目の前に当時の情景が浮かんでくるかのように細かく、詳しい説明であった。先生は言う。「記憶力は十四歳の頃がピークである。『門前の小僧習わぬ経を読む』ではないが、子供は詰め込めば全部覚える。ゆとりは論外である」と。確かに先生の記憶力は素晴らしく、教育勅語から幼少の頃に覚えた歌謡曲に至るまでメモを見ずそらで朗読し、そして歌う。“正しい”教育とはいかなるものなのか。今、目の前に“結果”が現れている。

 昭和八年十二月二十三日、間もなく冬休みを迎えるという寒い朝、姉、教頭先生と三人で小学校へ向かっていた。すると「ウーン」と大きなサイレンが鳴った。教頭先生は「皇太子殿下がお生まれになった。すぐに学校へ行って日の丸を揚げて来い」と言われ駆け足で学校へ行かれたそうだ。当時、皇太子殿下の御生誕をお祝いする歌があり、それをアカペラで悠々と我々の前で歌われた。そのお顔がとても嬉しそうで、聞いているわたくしも感心すると同時にとても嬉しくなった。国を挙げて、寸分の疑いも無く皇太子殿下の御生誕を祝う。何と美しい国の在り方だろう。

 昭和十八年十月、神宮外苑にて学徒出陣の壮行会を行った。先生は「俺はこれから戦場へ行くのだ。日本を救うのだ」という気持ちであった。出陣する時、東大の文学部長が「前途ある諸君を痛恨の思いで戦場へ送る。どうか命を大切に。再びこの教室で会いたい」と語ったそうだ。池田先生は運よく生きて帰って来られ、そして自分があの東大の文学部長と同じくらいの年齢(五十歳もしくは六十歳)になったとき、その教授の気持ちが痛いほどわかると強い口調で仰った。先生ご自身が出陣なさる時、父に「行って参ります」と告げると、父は「うん、行ってこい」と一言述べただけだったそうだ。しかし、今となってはあの時の父の気持ちが痛い程分かる。痛恨の思いで送ってくれたのだろう、と先生は仰った。今、我々青年部の世代は、培われた平和の中で“あの時”を振り返る。あの時の親子の会話、恋人同士の会話、教師と生徒の会話を振り返る。しかし、我々には分かる。身命をなげうってまで祖国を守ろうとされた方々の気持ちが。侵略されてなるものかと、勇んで出撃された方々の気持ちが。

 その後先生は、広島県大竹の潜水学校で訓練を受けた。上官から「敵は本土へ上陸する。しかし、敵の半分をやっつければ残りは陸軍で何とかなる。その半分をやっつけるには特攻兵器しかない。志願するかどうか一晩考えて答えろ」と言われた。翌日「日本人なら行かなきゃ嘘だろう」と、全員一致で志願。「なぜ特攻隊に志願したのですか」とよく聞かれるが、当時は特攻隊に志願した理由を聞くより、「なぜ志願しなかったのか」と聞く方が正しい問いなのだ、と仰った。

 海龍に乗って訓練中、先生は危うく水死するような事故にもあった。その時、もう一度死ぬ前に青い空と草木の緑を見たい、と思ったそうだ。私心ではなく公心で戦っているからこその思いなのだろう。現在の日本は私心のみで生きている人間が跋扈しすぎているように思う。天下国家を語ることも大事だと思うが、自らを省み「国を愛す」とは如何なることを言うのか、改めて考える契機としたいところだ。

池田先生の御友人の奥様が亡くなったとき、その御友人は「私の妻は神道なので、お盆に魂が帰ってくることはありません。死んだ瞬間から、この家を守ってくれているのです」と言われました。それを聞き、池田先生は「ああ、そうか」と合点がいったと言う。國神社に祀られている英霊も、死んだその瞬間から日本を守ってくれているのだ。國で会おう、と言って散華された方々の意思は決して嘘ではない。國神社を通して日本をいつまでもいつまでも守ってくれている。だから無宗教の代替施設では何の意味もない。國神社でなければ無意味なのだ。

父が沖縄戦に参加したため四歳で父を亡くしたある女性の話もされた。その女性は「どうしてそんなに早く死んだんだ。私の友達の家族は普通の家族で、みんな楽しそうに過ごしているのに」とわだかまりがあり、國神社へも一度も参ったことがなかったそうだ。ところが、数年前沖縄に「平和の礎」が出来たのでお参りに行くことにした。その平和の礎の前に立つと、「父はやはり国民のためを思って死んだんだ」と分かり「おとうさん、ありがとう」と一言言ったら涙が止まらなくなった。そのあとすぐに國神社へお参りに行ったそうだ。先生が習っておられるヨガの先生は「人間は感謝の気持ちがあれば心が安らぐものです。不平や不満を言っていては心が休まらない」と仰ったそうだ。人間は心が休まらないと、判断を誤るであろう。現代の日本は子が親を殺し、親が子を殺すような社会になってしまった。日本人の心が休まっていないのが一因ではないだろうか。心の安らぎを求めるためにも國に鎮まる英霊に知恵をお借りしたいところである。

 最後にわたくしは次のような質問をした。「当時の庶民にとって、天皇陛下はどのような存在でいらっしゃったのですか」と。すると、奈良市長を14年ほど勤めた友人が「私心のない方は神様です」と一言仰ったというエピソードを話された。ただ国民の幸福を祈る。その御姿は神そのものだ。当時日本人みんなが陛下は神様のような存在だ、陛下あっての日本だ、と思っていた。また、奈良県に大きな台風が襲い、木々が倒れ、あたり一面が荒れ果ててしまうような被害を被ったこともあった。しかし奈良の大神神社の御神体である山の中に岩倉がある。周りは荒れ果てて大変な状態であったが、その岩倉はびくともせず、そのまま存在していた。それを見て、ある大学教授は「これこそ皇室の姿だ」と仰ったそうだ。周りにどんなことがあっても、内閣総理大臣がどんどん変わっても朝廷がしっかりしている限り、日本は揺るぎない。朝廷を神としてみんながお仕え申し上げていたから日本は安泰に過ごせたのだ。これが日本の姿だ。このように語られる池田先生を見て、我々「あさなぎ」部員の使命がはっきり分かったような気がする。