今現在ブログのテンプレートのデザインをハロウィンにしているので(来月になったら変えますが)ハロウィンに関係する本の話をひとつ。
ハロウィンといえばレイ・ブラッドベリ、あるいはピーナッツの登場人物ライナスの“かぼちゃ大王”かな、と思いますが。
でも、私が一番に思い出すのはこれ。
魔術 (ハヤカワ ポケット ミステリ―87分署シリーズ) 価格:¥ 968(税込) 発売日:1989-02 |
原題はたしか『トリック』ですよね。“トリック・オア・トリート”。ごちそうしないと、いたずらするぞ。
普通は微笑ましい子どものための行事ですが、これはそこを逆手に取った犯罪の話です。
この87分署シリーズ、エド・マクベイン原作の警察小説で、池波正太郎の『鬼平犯科帳』に影響を与えたとも言われる作品。
その中の1作『キングの身代金』は、黒澤映画の『天国と地獄』の原作としても有名です。
私は20代の頃このシリーズにハマりまして、ことに魅力的だと思ったのはその会話でした。
小説の中の会話って、話の本筋に関係ない部分は省かれるじゃないですか。小説家志望者の未熟な文章への批判に“「何にする」「俺コーヒー」「俺も」なんて会話に3行も費やさないでほしい”というようなのを読んだことがあってその点は共感しますが、かといって、あまりにも無駄がない台詞だと、なんだかリアルじゃない気もしますよね。
その点、エド・マクベインって人は巧いんですよ。会話が行きつ戻りつしたりする。
「そのとき〇〇がこう言って――あ、前に話したっけ、〇〇っていうのは、俺の高校時代の友達なんだけど……」なんて会話文があったりする。
だいたいそういう無駄話をするのは主人公キャレラとマイヤー・マイヤーなんですけどその会話を読むのが心地よかった。
けど、これって安易に真似られないんですよね。エド・マクベインって人はもともと脚本家で(私の記憶では『暴力教室』やヒッチコックの『鳥』が彼のシナリオではなかったかと)会話のプロなんです。どの程度無駄をそぎ落とすか、遊びを入れるか、その塩梅が身についている。
でも、その手際の鮮やかさに、憧れたものでした。こんな会話を書いてみたい!
余談ですが、この87分署シリーズ、何度か日本でもテレビドラマ化されていて、以前渡辺謙氏が主人公のキャレラにあたる刑事を演じていたことがありました。
私はイメージあってる、と思っていたのですが、原作者のエド・マクベイン氏もそうだったのではないかと思えるエピソードがありました。
『ラストサムライ』がアメリカで公開されたとき、マクベイン氏がシリーズの翻訳者の方に電話してきたそうです。「あの映画に出ているケン・ワタナベという人は、以前キャレラを演じてくれた俳優ではないか?」と。
印象強かったんだな、と嬉しくなりました。
そのマクベイン氏も、数年前に亡くなりました。新作がもう読めないと思うと、淋しいです。
万聖節の前夜、死者や精霊が復活する、というものなんですよ、ね?[E:coldsweats01]
だからなのか[E:coldsweats01]10/31、東京にて、‘82に逝去された俳優岸田森さんのお仕事について、実のお兄様も交えての映像ライヴに行って参りました[E:coldsweats01]
「あんなに早く死んじゃったけど(享年43歳)、だからこそ、こんなに色々仕事が出来たんだろうし、こんなに時間が経ってから、若い人達にその仕事を観てもらえるというのは…有難い事ですよ[E:confident]」(お兄様談)
10/31はハロウィン…少なくとも、当日その会場に来た方々には、岸田森さんは蘇っていらしたのでしょう…[E:confident]
ちなみにヒッチコックの「鳥」の脚本がエド・マクベインによるものとは知りませんでした[E:coldsweats02]
あの映画のラストって…救いはあるんでしょうか、滅亡に向かって出発しただけなんでしょうかね?
そう言われると、身近に感じますね。
岸田森さんがそんなに若く亡くなっていたとは驚きでした。
でも、その方を偲ぶひとの心に蘇る、というのは同感です。
ところで、『鳥』。
二十歳ごろに観たときは、救いのないラスト(というか、すこし怖いくらいの終わり)と思ったのですが、今見るとどう感じるのか見直したくなりました[E:confident]
ノルウェー映画の「卵の番人」というのを観まして。うろ覚えなんですが(探せば見つかると思うんですけどね[E:coldsweats01])、そのパンフレットに、「外国映画では、主人公がラスト(近く)に画面の右へ移動するか、左へ移動するかで、ハッピーエンドかそうでないかを暗示する。…主人公の乗ったトラックは、画面右奥に移動した。…だからこの映画は、ハッピーエンドなのだ」というような文章を読んだ記憶があるのです。
マイナーな作品ですが、数年前に「アドルフの画集」という映画を観ました。
ラスト直前、主人公が画面を左に向かって移動し、そして、悲劇としか言いようのない結末を迎えてしまいます。
で、「鳥」。
主人公達の乗った車が、画面奥まで続く一本道を進んで行きますよね。
私にしても、最後に観たのが十年近く前なので[E:coldsweats01]
車がどっちへ向かったのか、記憶に無いのです[E:coldsweats01]
「これ、どうやって撮影したんだろ、ロケ撮影じゃないよね、スタジオだよね、うーん、鳥と車は別々に撮って、合成したのかな[E:coldsweats02]」なんて事ばかり考えて観ていたので…[E:coldsweats01]
とっても興味深いです。
なぜ、右がハッピーエンドで、左が悲劇的なのでしょうか。
宗教的な起源があるのかな?たしか、不吉(シニスター?)、という言葉の語源は、左、という語であると聞いたことはあるのですが。
ちなみに、どんなに脳みそをしぼっても、『鳥』のラストシーンの映像は出てきませんでした。
調べる気になればすぐ調べられるのでしょうけど[E:coldsweats01]
漫画評論家の夏目房之助さんが書いた文章で、右の頁から左の頁に読み進めていく決まりが、日本の漫画にある文法を確立した、というのを読んだ記憶があります。
すなわち、画面右側は、過去、劣勢・劣位を暗示し、左側は未来、優勢・優位を暗示する…と。
夏目さんの別の文章でだったか、「あしたのジョー」終盤の対ホセ・メンドーサ戦を例に出して、それを説明されていた記憶も…
世界チャンピオンのホセは画面左側にいる事が多く、ジョーは右側にいる事が多かった。ラストシーン、確かにジョーは目を閉じて座っているけれど、顔は左側を、すなわち未来に向いている…とも。
で、洋画の世界のその決まり事ですが。
左から右に文章を書くから、当然本も左綴じ、右開きですよね。そうすると、やはり右=未来、左=過去、という感覚がしみついているのでは、と…。
これで、横書きだけれど、右から左に文章を書くアラビア語圏の人々が、“左右”からイメージするものがどういうものかが分かれば、面白いかもしれませんね[E:wink]
「鳥」について書けなかった[E:sweat01]
管理人さんにも私にも、ラストの車の行く方向が思い出せない、という事は、印象に残っていない、と言うより、どっちだったのかはっきり見せてもらってない、という可能性もあるんじゃないでしょうか?
もし、そうだとしたら…
それがヒッチコック監督の狙いだったのかもしれない、というのは自分に都合良く考え過ぎですかね[E:coldsweats01]
決まり事を逆手に取って、「この映画の結末がハッピーエンドかアン・ハッピーエンドかは、観客がそれぞれ考えてくれ[E:paper]」と、いう狙いを持っていたとか…[E:coldsweats01]
たしかに、私右に進むとハッピーエンド、左に進むとバッド・エンディングの話を読んで、“でも私はどちらかというと、左に進んだ方が希望を感じるけどなぁ”と、ちらっと思ったのです。
それは私が日本人だったからなんですね[E:think]
ところで『鳥』のラスト。ホントに、有名作品だから調べる気になれば調べられるとは思うのですが。
でもあえて想像で考えると、ラストをぼかす、というのはあり得る気がしますね。
たしか『断崖』という映画も、ちょっと含みのあるラストですものね[E:bearing]
「鳥」もやるそうですから、これは、管理人さんとワタクシめの、懸案事項の確認をするチャンスと、いう事で…[E:wink]
楽しみのような、ちょっと不安なような……[E:coldsweats02]
展開を知りながら観ていると、「ああ、この平穏な生活は続かないんだよね~[E:weep]」「ああっ、この人は殺されちゃうんだよな~[E:sweat01][E:coldsweats02]」と、違うハラハラ感が…[E:coldsweats01]
で、懸案事項のラストシーン…
主人公達の車は、一本道を進んで行った訳ではありませんでした[E:sign01]
道なりに、一旦右に進んだかと思ったら、左奥へ進んで行ったんです[E:sign03]
あら~[E:coldsweats02]
やっぱり…アンハッピーエンド…と考えるべきなんでしょう、か…?[E:weep]