先日家に帰ったら、NHKの夕方の番組に、俳優の篠井英介氏が出演しているのを観ました。
篠井氏はテレビドラマにも出演しますし、当然そのときは男性の役ですが、舞台では女形を多く演じられている、ということは知っていました。
歌舞伎以外の、新劇や現代劇の女形は珍しく、私は寡聞にして篠井氏しか存じ上げませんが、別に男性が女形を演じるのは不思議だとは思っていませんでした。
以前、女形とは違いますが、舞台上で女性の役を演じる美輪明宏氏(氏は普段の生活も女性ですが)が、『日本の女優さんはどうしても線が細いので、外国の迫力のある女優さんがやるような役は、むしろ男が演じた方がいい』というような事を言ってらして、それに共感したせいもあります。
でもぼんやりと、“だれが、どんな役を演じてもいいではないか”という気持ちがあったのだと思います。
その、私のぼんやりとした思いに篠井氏の言葉は輪郭をつけて下さいました。
篠井氏はこんなことを言ったのです。
「舞台で、外国の人を日本人が演じていても、別に変じゃなく観るでしょう。あれはハムレット、あれはオフィーリアと思って観ますよね。外国人になってもおかしくないなら、女になってもいいのじゃないかと」
また、篠井氏はほとんど女性の扮装もせず、衣装もきわめてシンプルに黒一色で演じたときの話もしました。
“黒一色の方が、観た人がいろいろな色を想像できるのではないか”“すべては観る人のイマジネーションにかかっている。もちろん、私がお客様のイマジネーションを喚起させる力が無くてはならないのですけれど”
私は演劇については無知だし経験もありませんが、その言葉を聞いたとき、演じる、ということの核に触れたような気がしたのです。
そうだ、いい意味で、芸術というのは全て虚構なんだ。見えないものを視せるのだ。
たとえ、女優さんが自分と年頃も性格も状況も似ている役をしたとしても、実際はその役はもちろんそのひとじゃない。それどころか、その役の人間はどこにも存在しないのだ。その存在しないものを、あたかも目の前にいるように感じさせ、心を揺さぶるのが演劇なんだ、と。
残念ながら篠井氏の特集は、最後の方をちょっと観ただけだったので、ああ、最初から観たかったな、と思いました。
けれど一方、まさに見えない何か、概念のようなものに一瞬触れたような経験でした。