長州に棲む日日

[PC推奨]直参と萩藩士の子孫で長州在、でも幕府海軍・箱館海軍松岡磐吉大好き。
★最初に【まず必読】をご覧下さい

小杉さん!右ですか、左なんですか?

2012年02月22日 | ★松岡磐吉・旧幕府海軍・箱館等
なんか3人くらいしか読まない気がする記事ですがw


明治2年5月11日午前7時35分 箱館湾。
箱館海軍「蟠龍」の砲弾が、新政府軍「朝陽」の火薬庫を直撃して大爆発、朝陽は2分で沈没。

箱館軍最後の輝きとも言うべき出来事で、これを陸から見て「この機を逃すな」と大喝したのが、土方歳三最期の言葉だったらしき話も残っています。


蟠龍は元々英国王家の遊覧ヨット。
ほっそり優美な姿で、砲はわずかに4門です。

いったいそのうちの、どの砲が撃った弾だったのか?


そのシーンを描いたものが何種かあるんですが、船の正確さではなんといっても小杉雅之進
よし、小杉の絵を見よう!



おお、左舷ですね。


もう1枚あったっけ。



・・・・右舷なんですけど・・・・・。


小杉が書いた戦記「麥叢録(ばくそうろく)」をよく読んだら「その時自分は五稜郭にいた」。

ありゃま、想像&聞き描きだったかー
あ、でも「艦尾から沈んだ」という点などは、多くの記録どおりです。
(ついでだが、どっちの絵でも蟠龍乗組がバンザイしてるw)

…というわけで、結局右か左か、わからないのでした…。


ただし撃った砲手の名ははっきり伝わっています。
永倉伊佐吉

この永倉は、この日艦を捨てて上陸する際に「小舟を取らんとして溺死」と記録されています。
おそらく、艦載ボートが足りないか、被弾して使えないかの事態で、泳いで小舟を持ってこようとして心臓麻痺を起こしたのでしょう。
(この日は無風で、海は荒れていません)

もし彼が生きて投降していたら、「一下士官として、その他大勢と同じ扱い」だったか、それとも「戦犯扱い」だったんだろうか?
もし彼が「あの一発」を罪に問われたとしたら、松岡磐吉への糾問の内容もそっちだったんだな、と見当がつくのですがね~。




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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (山の南の人)
2012-02-23 23:10:01
三人というわけがないwww
面白すぎるブログなので、常にタブ残し常駐させてますよ~
返信する
Unknown (内藤昶)
2012-02-24 22:08:33
;`;:゛;`(;゜;ж;゜; )ブッ  総長…w
ぜんぜんふつーでしょ、ブログは…。
あそこでの遊びに比べて…。

はっ、BJ行かねばwwww
返信する

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