長州に棲む日日

[PC推奨]直参と萩藩士の子孫で長州在、でも幕府海軍・箱館海軍松岡磐吉大好き。
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ご先祖、維新後は郵便局長

2009年11月07日 | ★ご先祖話・家紋話
ご先祖さんたちの、維新時のソクセキ。

曽曽祖父
萩藩士だった。何も記録がないところからして、動乱時にも何もしてなかったに違いないぞ
維新後、禄を失い「士族」という名前だけ残った。
萩で夏みかん栽培をする手もあったんだろうけど、萩の家屋敷墓所など始末して、東京に出ちまいました。
そこで郵便局長をつとめました。
没年不明ですが、明治19年に死亡した男性がいるので、それかも。

曽祖父
文久元年生まれで、維新の年は7歳くらい。
たぶん郵便局を継いだんじゃないかと思います。
大正10年没。ああ…大正まで生きてたのに、なんも伝わってない~
この人が結婚した相手が、静岡の「徳川家直参の娘」。

祖父
明治17年生まれ。ここまで来るとバリバリの江戸っ子で、完全に江戸っ子言葉だったそうな。
この人が結婚したのがこれまた深川っ子で、夫婦揃ってややベランメエだったそうです(父の話)。
祖父の仕事は建築設計士。
例の「ご直参娘」だった母親まで説得して引きつれて、みんなで満州に渡って会社を起こした。
この時に東京渋谷区広尾にあった家を処分。
(しかし本籍をそのままにしてて、うちの父もそのままなので自然に私もそのまま。だから私の本籍は渋谷区広尾なんです)
戦時中に大陸で死亡。
敗戦で一家は「引揚者」になったような次第でして、おかげで物質的なものが、なーーんにも伝わっていません
引揚者とはいっても農村部からの引揚げのような悲惨な話はないんですが。



さて。
曽曽祖父が維新後上京して、東京で郵便局をやっていたという話を父親としていたら
「明治の、個人がやってる郵便局(いわゆる特定局)って、けっこう威張ってたらしいぞ。田舎だと村長の次くらいに」と言った。

それで何気なく調べていたらこんな文章が。

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 18、19世紀の近代国家の設備としての条件は、大学と鉄道と郵便制度だろう。
 あるいはこれに病院をいれてもいい。
 以下は、郵便制度の話である。明治政府は、維新後わずか四年で、手品のようにあざやかに制度を展開した。

 手品のたねは、全国の村々の名主(庄屋)のしかるべき者に特定郵便局(当時は、郵便取扱所)をやらせたことによる。
 むろん、官設の郵便取扱所(のちの一等・二等郵便局)は、東京・大阪を手はじめとしてつくったが、面としての機能は、津々浦々の〝名主郵便局〟が担った。
 建物は、名主(庄屋)屋敷の一隅をつかうだけで十分だった。
 〝駅逓頭〟という職にあった前島密は、旧名主(庄屋)に郵便をあつかう気にならせる上で、かれらの名誉心を十分に刺激した。

 まず、郵便事務が公務であることを説いた。
 ついで、局長は官吏に準ずるという礼遇をした。
 さらには、身分は旧幕府のご家人なみの判任官とした(のち、年功の大きな者の場合、高等官にのぼる例もあった)。
 また、旧幕府時代の名主(庄屋)がそうであったように、わずかながら手当がつけられたことも、かれらを満足させた。
 むかしの士分の禄が米だったということを重んじ、金銭で給与せず、わざわざ玄米一日五合にするほどの細心な配慮をした。
 かれらはいよいよ満足した。

 当然ながらこれによって、郵便事業に参加した旧名主(庄屋)層は、新政府からもそれにふさわしい礼遇をうけたとして、犠牲を覚悟して参加した。
 名主(庄屋)というのは、江戸期でもっとも公共精神のつよかった層なのである。

              (「この国のかたち」司馬遼太郎さん)

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それで「あっ、そういえば佐藤彦五郎さんとこも、日野の郵便局になったんだった」と思ったが、ウチの場合はそんなイイもんじゃないよね~。
庄屋ではなく、リストラ上京組だし。

しかし文中にあるように、名誉職っぽい扱いをされたことで多分「元サムライ」のプライドは、他の仕事よりは満足できたのかもね。


渋谷に籍があると言うことは、渋谷で郵便局をやっていたのだろうか。
当時、暮らしてもいない場所を本籍地にするなんてことはなかったと思うし。

まあ、そんなことを考えると、わかっても別に意味はないんだけど、おもしろい。←いや、私だけがw



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2 コメント

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Unknown (Aki_1031)
2009-11-08 00:16:32
ご先祖の記録が残っているなんて、
素敵ですねー!
長州と徳川の血が受け継がれている…ということも
よく分かりました☆
なんだかとっても素敵…!

郵便局の話も面白かったです。
貴重なお話、ありがとうございます☆
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Unknown (内藤昶)
2009-11-08 11:58:31
こんにちは。
いやいや…ほんっとにこれくらいしか伝わってなくて、ショボーンなんですよ。
別にエライヒトでもなんでもなくていいんですが、もうちょっとわかったらなあと思います。
直参の娘だったひい婆さんは、すんごいツンツンツンツンツンデレだったらしいですw
態度が特大だったらしい・・・^^;
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