長州に棲む日日

[PC推奨]直参と萩藩士の子孫で長州在、でも幕府海軍・箱館海軍松岡磐吉大好き。
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「史実と違う!」庶民の怒り

2009年10月17日 | ★幕末維新の長州
しばらく前ですが、興味深いものを発見しました。
県の説明版のすぐ側に、その説明版は間違っているという説明版が建っているのです。


萩と防府三田尻を結ぶ江戸時代の街道「萩往還」。
御成り道ではありますが、毛利の殿様だけでなく、志士たちも庶民も、みんなが利用した道です。
途中で中国山地のはしっこにあたる山々を越える難所があります。
ここに「一の坂御建場(おたてば)」というものが復元されています。

御建場とは、殿様の駕籠を下ろして休憩する場所。
建物は殿様や側近、上級武士、下級武士用に分かれて何棟かあります。
短時間休憩用なので簡単なものですが。



県が、六軒茶屋と呼ばれるこのあたりの土地を買収して、御建場の復元施設を作ったのです。
説明板には「ここ六軒茶屋に御建場が置かれた」とはっきり書いてあります。
ところが…。

買収された土地を過ぎたすぐのところに、元の地主が作ったらしい憤懣やるかたない内容の説明版があるんです

いわく(概要)

いったいどんな調査をしたのか知らないが、ここは庶民の地「六軒茶屋」である。
御建場はここよりも奥にあったことは宝暦年間の「行程記」にも載っている。
県は、御建場の平面図をここ六軒茶屋の土地に当てはめて、それを復元した。
土地を買収する時には「六軒茶屋を復元する」と言っていたのに、史実と違うものを作った。
六軒茶屋の復元というから協力したのに、この地の神様や汗を流してこの地を拓いた先祖に対して申し訳ない。
子々孫々までわざわいを残すので、経緯をここに明記しておく。



どちらがどうなのか私にはわかりませんが、どう読んでも地主さんのほうの言い分に納得がいく。
というか、地主さんがゴネても得になることはひとつもないわけで、それでもこうして言っているということは、こちらが正しいのではないかと…。

どうなんでしょうね。



ちなみにこのあたりの道は、石畳と石段です。
急な坂道、少しでも滑らないように、また雨で土が流れないようにと、山の中まで石を運んで敷いたり積んだりしたんですねえ。
あまりの急坂ゆえ、たとえ駕籠を雇っていても、ここは降りて歩くことになってたそうな。
乗ったままでよかったのは殿様だけだったとか。

ここを撮った時、日が暮れそうだったので、この坂を死ぬ気で駆け上がったら腰に来た…くうぅぅぅっっっ



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2 コメント

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再び (きーこ)
2009-10-18 02:26:20
参上しました。(笑)

んべ出身ですいね。

萩往環、一、二回さくっと車で通ったと思いますが、一度全行程を歩いてみたいもんです。

その地主さんの思いは県に届いちょるんですかいね。。。
そんだけ怒っちょーってよっぽどなんじゃろうなあ。。。
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Unknown (内藤昶)
2009-10-18 12:12:35
あなたぁ宇部かね。へたらうちの隣じゃあね。
合併が多いいけー、今じゃ山口の隣が萩・徳山・美祢・宇部・防府なんよねー。阿東を合併したら隣が石州島根になるっちゃー。

萩往還、正しくは車では行けませんぜ。
今ある国道(県道かいね?)は萩往還とほぼ同じ道筋ではあるけど・・・車で行きよったら何箇所も細道が横断しちょって、それが萩往還。最近は案内板が建ったのでわかる・・昔はただの山に入る道かと思いよったっちゃ。

たまに往還ウォーキングとかありよるよ。
(ありよる・・←ものすごく翻訳&説明に困る方言)
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