長州に棲む日日

[PC推奨]直参と萩藩士の子孫で長州在、でも幕府海軍・箱館海軍松岡磐吉大好き。
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五稜郭で白旗を揚げた人は、のちの山口県令

2011年05月20日 | ★幕末維新の長州
5月に入ってから18日まで、例によってピグとなう(ツイッターみたいな機能)で箱館戦争祭りwになっておりました。
今日、アタシタチ(←…)の東京護送が始まるに及んで、いったん終了しましたが、おもしろかったw
5月15日夕方に本気でしんみりしてしまった私ってwww ←弁天台場降伏の時ね。


イヤ、それでですね。

五稜郭開城の際に、白旗を持って軍使に立ったのが、彰義隊士、斎藤辰吉です。
のちの名は、、中野梧一と言います。


斉藤は、榎本艦隊品川脱走の時、暴風雨で沈没した美嘉保に乗船してました。
その沈没から何とか生き延びて仙台までたどり着き、艦隊に合流した一群の一人です。
同じ目に遭ったのが伊庭八郎です。
この時、かなりの数が投降したんだけど、彼等は上手く「再脱走」に成功したわけです。

榎本武揚付き通訳(10代だけど英国留学帰り)の少年兵だった林董(ただす)の「後は昔の記」によると、榎本が自刃しようとして大塚が自分の指を失ってまでされを止めたとき、この斎藤辰吉は「何で止めたんだ。自刃したい人は自刃し、逃げたいものは逃げ、投降しようとするものはすればいいじゃないか」と言ったそうです。
そして、タダスも「だよねーーー」と思ったらしい。


斉藤は天保13年生まれというから、維新の時26歳、五稜郭開城の時27歳。


そして白旗軍使をやったあと東京で獄に入れられたが、翌明治3年には釈放されています。
その翌年、なんと山口県参事に任命。その後そのままスライドして初代山口県令となりました。

山口県ったら、ご存知長州藩。
明治新政府は、旧幕側の人材もたくさん登用してますが、それにしても五稜郭まで戦った人間を長州のトップに持ってくるとは、かなり異例のことだったようです。

任命したのは井上馨
どこでどう知り合ったのかしらんけど、聞多のことだから「おお、おまえ、なんかええのう。山口来て仕事せーや」で決まりだったり。

まあ、長州も幕末にいろいろ派閥があって内戦までやってるから、誰に任命しても「あれは元○○」って反発する人がいそう。
だから、ぜんぜん関わりのない人を持ってきたかったんだろうけど、それにしてもw


中野梧一と名前を変えていた斎藤辰吉は、湯田温泉にある井上んちに下宿して県庁に通ってました。
井上んちって、七卿が住んでたとこだぞwww
仕事では、高杉晋作の父、高杉小忠太などにずいぶんアドバイスを受けてたらしいw
小忠太パパも県庁マンだもんなあ。


おりしも地租改正等で大変な時代、近代化政策を担当し、仕事をこなしたものの、実業家になりたいとして8年に退職。

藤田組とかかわっていったんは巨万の富を得たらしいが、冤罪事件に巻き込まれたり、なんだかいろいろあった挙句、明治16年、猟銃自殺を遂げてしまいました。41歳。
自殺の原因ははっきりわかっていないらしいです。



亡くなったのは大阪ですが、山口市の長寿寺に墓があります。(分霊墓かな?)
長寿寺って、思い切り諸隊屯所だったとこなんだが。




ちなみにー。
ここの墓地にはすごく気になるお墓があるんです。
正面に戒名、残り3面には経歴が刻んであるんだけど、俗名が書いてありそうな最初の部分が読めなくなってる。
そして途中を見ると「禁門の変でも戦い、帰還して遊撃軍市勇隊の頭取をつとめた」って、うわあああ、これ誰えええ?

また調べよ。





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