もうね。
私以外に全然需要のない話なんですが、調べてしまったので書いておくのだ。
松岡磐吉の子孫調べです。(まだすごく不十分。何かわかれば修正します。間違いや、わからないと書いてること、ご存知ならぜひ教えてくださいーー 私、江川関係調べがまだまだなんです…)
・・で。
松岡の娘は、土佐藩士で海援隊士の子と結婚してるんですー! うん、たぶん。
私の超お気に入り、ラストサムライ、箱館政府海軍松岡磐吉は、没日もお墓もわかってない人です。
追記:わかっちゃったあああ♪
子孫に関する唯一の手がかりは、明治30年に書かれた「松岡磐吉君小伝」の「娘が一人あり、松岡死去の時4歳。これが大人になって工学士吉井茂則と結婚し、生まれた次男の次郎に松岡家を継がせた。次郎くんは今13歳で海軍予備校にいる」という部分だけでした。
さー、「工学士吉井茂則」だけを手がかりに調べた調べたw (いや、不明の部分多すぎだけど)

では家計図の上から行きます。
●松岡正平
松岡磐吉の父。天保3年より、韮山代官の江川太郎左衛門の筆頭手代(韮山詰め)。
鳥羽伏見以降も抗戦派だったと思われます。以後よくわかりません。 詳しい方おられたらご教授ください。(追記:韮山県出仕でした)
長男来吉(歩兵差図役頭取改方)、次男弘吉(軍艦頭、初代回天艦長他)、磐吉(軍艦役、軍艦頭並、蟠龍艦長他)、四男春造(軍艦役見習三等)。
正平パパに女児がいたかどうかは知りません。この勢いだといそうだがw 明治4年没。
●市川来吉
磐吉の兄。韮山反射炉を建造する時、オランダ語の書物を翻訳したチームの一人。
江川史料にはわりあい名前が出てきます。
●松岡弘吉(天保5/1834年~明治7/1874年)
磐吉の兄。江川家手代の柴家に養子に行き、柴弘吉。のちに柴誠一(追記:さらにのち、貞邦)。
磐吉と一緒に長崎海軍伝習所に学び、初代回天艦長。長州征伐にも参加し、下関砲台から砲撃されるも巧みな操艦で回避したらしい。
明治元年、榎本軍に同行していますが、五稜郭降伏時にはいない。
「第二長崎」艦の艦長を務めていましたが、明治元年10月末、酒田で嵐のため破船し、11月に投降。
本人不在のまま、箱館政府での海軍奉行選挙で13票獲得してますから、それなりに実力と人望があったのでは。
荒井郁之助が74票で群を抜きましたが、2位が澤太郎左衛門の14票、3位が柴誠一です。
(ついでだが柴は副総裁選挙でも1票。←弟が入れた予感w)
息子は明治海軍士官、柴準一中佐(海軍兵学校14期生、従五位勲五 明治37年6月13日に37歳で死去)、養子勝男も帝国海軍人。
海軍兵学校18期生名簿にある、柴勇二少佐ってのは弟で、従五位勲四 明治43年12月5日に40歳で死去。 ←どこまで調べてるんだ。
いやもーこの一族、海軍まみれーー♪ ←内藤大喜びw
柴誠一については、今後また調べたいです。すごく気になる人です。
詳しい方おられたらご教授ください。
●松岡磐吉(天保6/1835年以降~明治4/1871年)
兄が二人とも養子に出ているので、家を継がなきゃならないはずですが、結婚していません(大鳥圭介の獄中日記にも「身寄りなき人」とある)。
娘を産んだのは、どんな人だったのかわかりません。名前はわかったけど、しいいい。
●松岡春造
磐吉弟。戊辰からの戦争にどこまでかかわってたのか、以後どうなのか知りたい!(追記:箱館戦争では開陽→蟠龍乗組でした!)
この人ではなく、磐吉の孫に松岡家を継がせたということは、この人も亡くなったってことかなあ。(追記:この人は和田家からの養子で、維新後和田家に復姓してました)
●吉井正澄(文政13・天保元/1831年~明治41/1881年)
別名、吉井源馬・小田小太郎・小田正澄。
土佐藩士。脱藩して三条実美ら五卿の警護をしたり、土方久元と行動を共にする。
海援隊士として、いろは丸事件の賠償問題交渉に加わる。
海援隊による長崎奉行所占拠に参加。沢村惣之丞の最期にも立ちあった人。
明治後、民部省、工部省で顕職を歴任。高知県士族。大阪府権大参事。
●吉井茂則(安政4/1857年~昭和5/1930年10月20日)
正澄の養子だが、元の姓も吉井(父、吉井茂基。茂則は次男)なので、一族間での養子縁組なのかも?
工学博士。正四位勲三等。
明治23年(1890)、国会議事堂の第一次仮議事堂↓を、ドイツ人建築家アドルフ・ステヒミューラーと共に設計竣工。

ついで議事堂再築↓を一人で設計。

ほかに大阪停車場↓なども設計しています。

明治35年(1902)、京都郵便電信局を設計竣工。
「中京郵便局」として、今でも見ることができます。すごくキレイです。
ネットにもきれいな写真がたくさんアップされてるので見てみてください←何のためにだ・・。
内藤、洋館大好きなんで知ってましたー。
吉井家のお墓。

東京の谷中霊園、甲3号7側 にあります。
正澄顕彰碑、正澄墓、正澄室(室=妻のこと)墓、茂則墓、茂則室墓が建っています。
まさかの神式! 神道なんだー。ウチと一緒ー♪
この「茂則 室」が、松岡磐吉の娘ってことになります。
墓碑に「○子」と名前があるんですが、残念ながら写真では読み取れません。
追記:「臺子」でした。珍しい名前。誰が付けたのかなあ。
さて。
松岡磐吉は榎本武揚らと違い、赦免前に「賊徒」のまま死亡しています。
戦闘での出来事とはいえ、ただ一発の砲弾で50数名の死者を出し、軍艦を沈めた松岡は、関係者から憎まれていたことも想像に難くありません。
その娘(しかも正式な結婚によって生まれた子ではない)の結婚相手が、元海援隊士の高知県士族の子だなんて!
そこにどんなドラマがあったんでしょうね。
想像するとわくわくする。
ま、うちのご先祖も元萩藩士の山口県士族の子と、徳川直参の子が結婚してるんだけどさ。
でも直参と言っても別に五稜郭まで行って最後まで戦った人じゃないし…。←ヘタレ組w
ばんちゃんが長生きしていたら、「娘婿の父」で海援隊士だった正澄と酒でも飲みながら、「あの頃はほんっとによく船が沈んだねえ」とかしみじみ話したり、「長崎は面白かったなあ」と盛り上がったり…したかもしれません。
最初に紹介した「現在13歳の松岡次郎君」が、その後めでたく海軍兵学校に入学できたのか(海軍兵学校は当時超エリートの超難関校。…卒業者リストにない~)、海軍人になったのかは、まったくわかりません…。
・・で、ふと気づいた!
谷中霊園(に限らないが)って、誰かがちゃんと毎年の使用料を払わないと、「無縁」と言うことになって墓地が整理されてしまうはずです。
今でもお墓がちゃんとあると言うことは…誰かがそれを払ってるってことじゃん!
松岡ではなく吉井の人でしょうが、吉井のご子孫がわかれば、松岡のことも何かわかるかもしれない
ひえええええ
お話してみたいですーッ

(追記:そ、その後…^^; 大汗)
墓地の写真は上谷桜池様の「谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー」より、了解をいただき転載しています。
ありがとうございました。
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私以外に全然需要のない話なんですが、調べてしまったので書いておくのだ。
松岡磐吉の子孫調べです。(まだすごく不十分。何かわかれば修正します。間違いや、わからないと書いてること、ご存知ならぜひ教えてくださいーー
・・で。
松岡の娘は、土佐藩士で海援隊士の子と結婚してるんですー! うん、たぶん。
私の超お気に入り、ラストサムライ、箱館政府海軍松岡磐吉は、没日もお墓もわかってない人です。
追記:わかっちゃったあああ♪
子孫に関する唯一の手がかりは、明治30年に書かれた「松岡磐吉君小伝」の「娘が一人あり、松岡死去の時4歳。これが大人になって工学士吉井茂則と結婚し、生まれた次男の次郎に松岡家を継がせた。次郎くんは今13歳で海軍予備校にいる」という部分だけでした。
さー、「工学士吉井茂則」だけを手がかりに調べた調べたw (いや、不明の部分多すぎだけど)

では家計図の上から行きます。
●松岡正平
松岡磐吉の父。天保3年より、韮山代官の江川太郎左衛門の筆頭手代(韮山詰め)。
鳥羽伏見以降も抗戦派だったと思われます。以後よくわかりません。 詳しい方おられたらご教授ください。(追記:韮山県出仕でした)
長男来吉(歩兵差図役頭取改方)、次男弘吉(軍艦頭、初代回天艦長他)、磐吉(軍艦役、軍艦頭並、蟠龍艦長他)、四男春造(軍艦役見習三等)。
正平パパに女児がいたかどうかは知りません。この勢いだといそうだがw 明治4年没。
●市川来吉
磐吉の兄。韮山反射炉を建造する時、オランダ語の書物を翻訳したチームの一人。
江川史料にはわりあい名前が出てきます。
●松岡弘吉(天保5/1834年~明治7/1874年)
磐吉の兄。江川家手代の柴家に養子に行き、柴弘吉。のちに柴誠一(追記:さらにのち、貞邦)。
磐吉と一緒に長崎海軍伝習所に学び、初代回天艦長。長州征伐にも参加し、下関砲台から砲撃されるも巧みな操艦で回避したらしい。
明治元年、榎本軍に同行していますが、五稜郭降伏時にはいない。
「第二長崎」艦の艦長を務めていましたが、明治元年10月末、酒田で嵐のため破船し、11月に投降。
本人不在のまま、箱館政府での海軍奉行選挙で13票獲得してますから、それなりに実力と人望があったのでは。
荒井郁之助が74票で群を抜きましたが、2位が澤太郎左衛門の14票、3位が柴誠一です。
(ついでだが柴は副総裁選挙でも1票。←弟が入れた予感w)
息子は明治海軍士官、柴準一中佐(海軍兵学校14期生、従五位勲五 明治37年6月13日に37歳で死去)、養子勝男も帝国海軍人。
海軍兵学校18期生名簿にある、柴勇二少佐ってのは弟で、従五位勲四 明治43年12月5日に40歳で死去。 ←どこまで調べてるんだ。
いやもーこの一族、海軍まみれーー♪ ←内藤大喜びw
柴誠一については、今後また調べたいです。すごく気になる人です。
詳しい方おられたらご教授ください。
●松岡磐吉(天保6/1835年以降~明治4/1871年)
兄が二人とも養子に出ているので、家を継がなきゃならないはずですが、結婚していません(大鳥圭介の獄中日記にも「身寄りなき人」とある)。
娘を産んだのは、どんな人だったのかわかりません。名前はわかったけど、しいいい。
●松岡春造
磐吉弟。戊辰からの戦争にどこまでかかわってたのか、以後どうなのか知りたい!(追記:箱館戦争では開陽→蟠龍乗組でした!)
この人ではなく、磐吉の孫に松岡家を継がせたということは、この人も亡くなったってことかなあ。(追記:この人は和田家からの養子で、維新後和田家に復姓してました)
●吉井正澄(文政13・天保元/1831年~明治41/1881年)
別名、吉井源馬・小田小太郎・小田正澄。
土佐藩士。脱藩して三条実美ら五卿の警護をしたり、土方久元と行動を共にする。
海援隊士として、いろは丸事件の賠償問題交渉に加わる。
海援隊による長崎奉行所占拠に参加。沢村惣之丞の最期にも立ちあった人。
明治後、民部省、工部省で顕職を歴任。高知県士族。大阪府権大参事。
●吉井茂則(安政4/1857年~昭和5/1930年10月20日)
正澄の養子だが、元の姓も吉井(父、吉井茂基。茂則は次男)なので、一族間での養子縁組なのかも?
工学博士。正四位勲三等。
明治23年(1890)、国会議事堂の第一次仮議事堂↓を、ドイツ人建築家アドルフ・ステヒミューラーと共に設計竣工。

ついで議事堂再築↓を一人で設計。

ほかに大阪停車場↓なども設計しています。

明治35年(1902)、京都郵便電信局を設計竣工。
「中京郵便局」として、今でも見ることができます。すごくキレイです。
ネットにもきれいな写真がたくさんアップされてるので見てみてください←何のためにだ・・。
内藤、洋館大好きなんで知ってましたー。
吉井家のお墓。

東京の谷中霊園、甲3号7側 にあります。
正澄顕彰碑、正澄墓、正澄室(室=妻のこと)墓、茂則墓、茂則室墓が建っています。
まさかの神式! 神道なんだー。ウチと一緒ー♪
この「茂則 室」が、松岡磐吉の娘ってことになります。
墓碑に「○子」と名前があるんですが、残念ながら写真では読み取れません。
追記:「臺子」でした。珍しい名前。誰が付けたのかなあ。
さて。
松岡磐吉は榎本武揚らと違い、赦免前に「賊徒」のまま死亡しています。
戦闘での出来事とはいえ、ただ一発の砲弾で50数名の死者を出し、軍艦を沈めた松岡は、関係者から憎まれていたことも想像に難くありません。
その娘(しかも正式な結婚によって生まれた子ではない)の結婚相手が、元海援隊士の高知県士族の子だなんて!
そこにどんなドラマがあったんでしょうね。
想像するとわくわくする。
ま、うちのご先祖も元萩藩士の山口県士族の子と、徳川直参の子が結婚してるんだけどさ。
でも直参と言っても別に五稜郭まで行って最後まで戦った人じゃないし…。←ヘタレ組w
ばんちゃんが長生きしていたら、「娘婿の父」で海援隊士だった正澄と酒でも飲みながら、「あの頃はほんっとによく船が沈んだねえ」とかしみじみ話したり、「長崎は面白かったなあ」と盛り上がったり…したかもしれません。
最初に紹介した「現在13歳の松岡次郎君」が、その後めでたく海軍兵学校に入学できたのか(海軍兵学校は当時超エリートの超難関校。…卒業者リストにない~)、海軍人になったのかは、まったくわかりません…。
・・で、ふと気づいた!
谷中霊園(に限らないが)って、誰かがちゃんと毎年の使用料を払わないと、「無縁」と言うことになって墓地が整理されてしまうはずです。
今でもお墓がちゃんとあると言うことは…誰かがそれを払ってるってことじゃん!
松岡ではなく吉井の人でしょうが、吉井のご子孫がわかれば、松岡のことも何かわかるかもしれない

ひえええええ

お話してみたいですーッ



墓地の写真は上谷桜池様の「谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー」より、了解をいただき転載しています。
ありがとうございました。
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谷中を模索中に偶然このブログを見つけ、調べてきましたよ。
茂則室
臺?子でした。
吉の下に室の一画目をなくした字がくっついてました。
吉井家の墓誌に茂則の後室の方も入ってましたよ。
失礼します。
ありがとうございます。
ちょうど同じ頃、友達が谷中に行くというので頼んだんですが、そう、「臺子」ですねー。
読みは、「もとこ」か「たいこ」でしょうか・・。
明治元年生まれなので、もともと「子」は憑いてなかった可能性が高く、だったらタイさんよりも、モトさんの方が可能性高そう。
そして後室!継室のことかなあ。
だとしたら、臺子さんは早死にして、後妻が来たってことですよね。
しまった、墓誌があったとは。ぬかった…。気になる気になる。
すごい情報ありがとうございます。
芝勝男はミッドウエーの降伏調印で全権の後ろに
並んでいる一人です。多分右側。
先祖しらべしているうちにここに舞い込みました。
よろしくお願いします。
うわああ、嬉しいです。
松岡家のご子孫に当たられますね。
この書き込みと、いただいたメールとで、松岡正平に女児もいた(つまりmy松岡磐吉に姉か妹がいた)ことがわかり、本当に嬉しい新事実です。
尾形って、幕府海軍人ですよね。
女児もそういう人に嫁いでいたんですねえ。
尾形は開陽で蝦夷まで行って戦ってますよね。
そうですね、柴勝男氏は太平洋戦争の降伏調印メンバーですね。海軍さんだらけですね(・∀・)
近いうちにメールで長々とお返事しますので覚悟しててくださいませ(笑)
ご連絡本当にありがとうございます。
一世代間違えました。
すみません、お犬様介護に振り回されてます。
ネットで、確かに「柴誠一の娘婿」となっているのを見たことがありますが、悩んでしまいます。
嘉永生まれと、柴(天保生まれ)よりだいぶ若いですが、一緒に榎本艦隊で箱館に行ってる人ですから同世代とも言える。
・・・「娘婿」が本当なら、柴の娘がそれなりの年齢になってから、つまり明治も10年よりあとになってから結婚したってことかな?(その頃柴はもう亡くなってますが)
これ、柴さんにお尋ねするのが一番かもしれませんね。
私は松岡正平に娘がいたのねーーーと喜んでたんですが((笑)
ちょっと柴さんにご連絡してみようと思います。
私もちょっと叔母に聞いてみますが
長女はなくなっているのでわかるかどうか・・・
身内検索していて寄りました。
私は、柴勝男の身内になるようです。
柴勝男の叔父が私の曾お爺さん(婿)になります。
柴勝男は千葉県長生郡の出身で同じ町内になります。
わからないのは、旧姓阿部と柴との関係です。
知っていたら教えてください。
ちなみに家はサクマドロップの創業者とも縁戚になると親に言われてきました。
そうですか、柴勝男さんの縁者ですか。
柴家へは養子として入られていますよね。
阿部さんは養子に行かれる前の姓ということなのでしょうが、当時のことですからもともと遠縁だったりすることも多いですね。
この件、柴さんの御子孫がお詳しいのではないかと思います。
一度私の方へメールいただけますでしょうか?フリーメールでも構いません。よろしくお願いいたします。
akiller_2006@mail.goo.ne.jp