長州に棲む日日

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萩城(指月城)模型

2010年01月13日 | ★幕末維新の長州
萩でいい加減にチャリンコで走り回ってて(いい加減に走り回っても、そこらじゅうツボだけらけだから)、なにげに入り込んだところに置いてあった、在りし日の萩城模型です。

↑ 要するにどこだったかはっきり覚えてないとw

どこだったっけ…長屋門っぽいとこの一室だったんですが…

   ※追記 ブログアップ後に、よちゃさんに教えていただきました。
        お城のお膝元、旧厚狭毛利家萩屋敷長屋の一番奥の部屋。が正解でした。



萩城は明治7年に取り壊されました。
各藩にあったお城を取り壊せと言う「廃城令」が出たのが明治6年なので、翌年にはなくなってたってことです。

私はお城のことに(ことに)全然詳しくないのですが、萩遊覧船に乗ったときの船頭さんの話では、廃城の言いだしっぺは木戸孝允で、だから率先して地元長州の城を真っ先に壊したんだとか…。

「お城があると、不平士族の拠り所になる、だからなくしてしまわなくてはならない」ということだったと船頭さんは言ってました。
「萩城がもしあったら、前原一誠の乱だって、あんなに早くは収まらなかった」とも言ってました。

遊覧船に乗ったときの話はこちら です。


ところで、お城は「文化財」として惜しいものではなかったのか?
という疑問がわきますが、意外とそうでもないっぽい。
徳川300年の間って、幕府は各藩が力を持たないようにと、貿易を制限し、参勤交代で大金を使わせるなどして国力を殺いできました。
だから多くの藩が意外と貧乏。
お城もけっこう安普請な作りだったりして、天守閣が超傾いちゃってるところなんかもあったとか
太平の世だから「軍事施設」としていつもきちんと整備しておかねばって感覚も薄れてたんだと思う。

それでもいろいろな理由で、廃城令のあとも何十箇所かは残ってたんですが、太平洋戦争の爆撃でだいぶん壊れちゃった。
米軍は、焼きたくない文化財をちゃんと調べて、その周辺への爆撃を避けてたんですが、お城は一つもそれに含まれてなかったのです(姫路城は奇跡的に焼けなかっただけ)。
んなわけで、今はちょびっとしか残ってません。
観光用に復元したのはあるけど。

今でも使われている「堀内」「丸の内」「大手町」などという地名を見ると、お城の近くなんだろうなあ~と思います。



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2 コメント

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写真の萩城模型は (よちゃ)
2010-01-18 01:56:00
はじめまして。いつも楽しく拝見しております。

写真の萩城模型は、指月公園入り口の前にある
旧厚狭毛利家萩屋敷長屋の一番奥の部屋ですね。
昨年9月に萩旅行に行ったのですが、良く覚えています。

萩は見どころが多く、
出会う人が皆親切だったので、また行きたいです。

では、更新楽しみにしております。
返信する
ありがとうございます (内藤昶)
2010-01-18 20:51:32
よちゃさん

おいでて下さってうれしゅうあります。
ああー、これ厚狭毛利家の長屋でしたか。
って、お城のすぐ横の100円いるとこですわな。了解です。ありがとうございました!
本文に付け加えておきます。

またいろいろお気づきなどあった時は教えてください<m(__)m>

萩は私も大好きなところです。
また気候が良くなったら行きたいと思っています(冬は峠越えが・・^^;)
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