この夏、萩に行く途中…
「あっ、今のは何じゃ~っ」と急ブレーキ、Uターン。
山口から萩へ行く道の中で、最も山口寄りの集落と言える「佐々並」の山道にぽつんと建ってました。
「南無妙法蓮華経 為 町田騒動 前原党の霊 菩提の墓」
隣は亡くなった人の名前ではなく漢詩。ただし下半分が消えて読めない。
木に墨で書いたものがこの程度残っているというのは、あまり古いものではないと思います。
それにしても、正直「町田騒動」ってまったく知りません。
萩の乱の中のひとつの騒動を指していることは確実ですが。
萩の乱についてちょっと書きたいと思います。
萩の乱は、明治10年、不平士族によって起こりました。主導者は前原一誠。奥平謙輔もリーダーの一人でした。
前原は松下村塾生で、吉田松陰先生が「誠実な人間」と評した人です。名前のまんま。
幕末には諸隊の一つ、干城隊(かんじょうたい)の副総督でした。
第二次長州征伐(四境戦争)では、小倉口の参謀として高杉晋作を補佐し勝利しました。
その後も戊辰戦争を転戦しますが、奥平謙輔と共に、会津に対する戦後処理に温情を持ってあたり、松平容保の助命に尽力、会津藩士からも感謝された人でした。
この奥平の方はもともと会津の秋月悌次郎と親交があり、戦わねばならないことを激しく嘆いていました。
戦後は会津藩士の子ども3人を引き取って育て、そのうちの一人が、のちに東京帝国大学総長となった山川健次郎です。
さて、前原は、明治政府のいわゆる「高官」になったものの、とにかく木戸孝允と意見が合わなかった模様
水害に苦しむ新潟の農民の税を軽くして政府から大目玉を食らったのをはじめ、なにやらいろいろとあったらしい。
そんな時、「脱隊騒動」が地元長州で起こります。
「脱隊騒動」の話はこちら。
この脱隊騒動に対して木戸孝允は「討伐あるのみ」(武力鎮圧と処刑)という処置で臨みました。
前原はこれを「非情である」として、仕事を辞して萩に帰ってしまいました。
明治政府の国民皆兵政策や、旧士族・旧諸隊隊士への冷たい処置などにガマンがならず、そんな政府にはついてけねーーよという感じ。
さて、禄を失い困窮する士族は大不満を抱えていましたが、前原は暴発するなと戒めていたそうです。
しかし木戸孝允が「萩に戻った前原は要注意」としてスパイを放ち、始終前原の行動を見張らせていたため、逆にキレちゃったらしい。
(全然関係ないけど、それって「銀英伝」のヤンとレンネンカンプじゃん…)
で、明治10年、萩明倫館を本拠地に反乱を起こしますが、一週間ほどで鎮圧され、木戸の目の前で処刑されました。
前原43歳、奥平36歳でした。
この時、吉田松陰の叔父であり、師であり、松下村塾の生みの親でもある玉木文之進(ぶんのしん)が、萩の乱に我が養子や門下生多数が加担していたことの責任を取って、先祖のお墓の前で切腹しています。介錯は松陰の妹、芳さんでした。
明治10年、まだまだ「武士」ですね、玉木先生…。
んなことを考えつつ、墓碑も何もないここに手を合わせました
詳しくわからなかったけど、おそらく萩から山口県庁に向かっていた一団がこのあたりで亡くなったのでは?と想像します…。
ついでながら、「長州人=全員敵、大嫌い!」という会津びいきの方も、個々はいろいろであったことを知ってくださると嬉しいなあ…
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「あっ、今のは何じゃ~っ」と急ブレーキ、Uターン。
山口から萩へ行く道の中で、最も山口寄りの集落と言える「佐々並」の山道にぽつんと建ってました。
「南無妙法蓮華経 為 町田騒動 前原党の霊 菩提の墓」
隣は亡くなった人の名前ではなく漢詩。ただし下半分が消えて読めない。
木に墨で書いたものがこの程度残っているというのは、あまり古いものではないと思います。
それにしても、正直「町田騒動」ってまったく知りません。
萩の乱の中のひとつの騒動を指していることは確実ですが。
萩の乱についてちょっと書きたいと思います。
萩の乱は、明治10年、不平士族によって起こりました。主導者は前原一誠。奥平謙輔もリーダーの一人でした。
前原は松下村塾生で、吉田松陰先生が「誠実な人間」と評した人です。名前のまんま。
幕末には諸隊の一つ、干城隊(かんじょうたい)の副総督でした。
第二次長州征伐(四境戦争)では、小倉口の参謀として高杉晋作を補佐し勝利しました。
その後も戊辰戦争を転戦しますが、奥平謙輔と共に、会津に対する戦後処理に温情を持ってあたり、松平容保の助命に尽力、会津藩士からも感謝された人でした。
この奥平の方はもともと会津の秋月悌次郎と親交があり、戦わねばならないことを激しく嘆いていました。
戦後は会津藩士の子ども3人を引き取って育て、そのうちの一人が、のちに東京帝国大学総長となった山川健次郎です。
さて、前原は、明治政府のいわゆる「高官」になったものの、とにかく木戸孝允と意見が合わなかった模様
水害に苦しむ新潟の農民の税を軽くして政府から大目玉を食らったのをはじめ、なにやらいろいろとあったらしい。
そんな時、「脱隊騒動」が地元長州で起こります。
「脱隊騒動」の話はこちら。
この脱隊騒動に対して木戸孝允は「討伐あるのみ」(武力鎮圧と処刑)という処置で臨みました。
前原はこれを「非情である」として、仕事を辞して萩に帰ってしまいました。
明治政府の国民皆兵政策や、旧士族・旧諸隊隊士への冷たい処置などにガマンがならず、そんな政府にはついてけねーーよという感じ。
さて、禄を失い困窮する士族は大不満を抱えていましたが、前原は暴発するなと戒めていたそうです。
しかし木戸孝允が「萩に戻った前原は要注意」としてスパイを放ち、始終前原の行動を見張らせていたため、逆にキレちゃったらしい。
(全然関係ないけど、それって「銀英伝」のヤンとレンネンカンプじゃん…)
で、明治10年、萩明倫館を本拠地に反乱を起こしますが、一週間ほどで鎮圧され、木戸の目の前で処刑されました。
前原43歳、奥平36歳でした。
この時、吉田松陰の叔父であり、師であり、松下村塾の生みの親でもある玉木文之進(ぶんのしん)が、萩の乱に我が養子や門下生多数が加担していたことの責任を取って、先祖のお墓の前で切腹しています。介錯は松陰の妹、芳さんでした。
明治10年、まだまだ「武士」ですね、玉木先生…。
んなことを考えつつ、墓碑も何もないここに手を合わせました
詳しくわからなかったけど、おそらく萩から山口県庁に向かっていた一団がこのあたりで亡くなったのでは?と想像します…。
ついでながら、「長州人=全員敵、大嫌い!」という会津びいきの方も、個々はいろいろであったことを知ってくださると嬉しいなあ…
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私も山口県に行ってみたいです。
しかし前原一誠の見方は変わってほしいですね~、なんだか反乱首謀者的にことしか教科書に載ってないし。
でもちゃんと贈位されてると、松門神社(松陰門下生が祀られている神社)にも名前があるんですよ。
ぜひおいでませ山口へ。
死ぬほど田舎ですがw
テレビで「お近くのファミリーマートへ!」と言われると、「ねーよっ」とツッこんでますw
私母父母芳原家石黒家は、徳之島から神戸市長田区東尻池移住ですが、尻池城主子孫白虎隊飯沼貞吉や従兄弟山川や、真野に真野宮関係や、若松町に会津若松城関係者いるでしょうか?
先ず、山川子孫に会いたく思いますが、奥平の萩の乱の理想社会とは具体的には?
mixi RAMBO日記
Gree RAMBO日記