徒然なるまままに

展覧会の感想や旅先のことを書いてます。

石山寺と紫式部展 松坂屋銀座店

2006-12-30 | 美術(Index)
石山寺と紫式部展-時を越えて輝き続ける源氏物語の世界へ
2006年12月28日から2007年1月8日
松坂屋銀座店

実は、滋賀県は通過してばかりで殆ど足を踏み入れたことがない。近江八景の一つ「石山秋月」は、画題では見るが、どこだかさっぱりわかっていない。源頼朝の寄進の国宝の多宝塔も切手で描かれていたのは知ってはいるが、まだ見たこともない。

その石山寺が紫式部のゆかりの地だというのは今回浅学にしてはじめて知った。1004年(寛弘元年)に紫式部は仕えていた一条天皇の皇后、中宮彰子(988-1074)から新しい物語を作るよう命じられ、案を練るため石山寺にこもり、8月「十五夜」の月が琵琶湖に映え、それを眺めていた紫式部の脳裏に物語の構想が浮かんだとされ、「源氏物語」の「須磨の巻」が書き出されたといわれているそうだ。

そのような言い伝えをもとに1500年に近衛政家が「石山や鳰(にお)の海てる月かげは明石も須磨もほかならぬ哉(かな)」 と詠み、近江八景の一つに「石山秋月」を選定したということになるのだろう。

展覧会では「紫式部石山寺観月図」が数点。土佐光起から上村松園等まで。「紫式部図」(土佐光起)。さらに源氏物語図屏風などが並ぶ。時代不同歌合絵巻断簡(紫式部と凡河内躬恒)もあった。

「石山寺縁起絵巻」は、大絵巻展で巻一の宇多院臨行の部分を拝見していたが、今回は、土佐光信筆で描いた七巻の内巻四の紫式部や谷文晁が描いたという巻が展示されていた。大絵巻展の図録によれば、巻一から三は鎌倉後期、巻五はそれより少し遅れ、巻四は明応六年(1479)に補われ、さらに巻六、七は1805年に谷文晁の筆で補われている。けれども上三巻の詞書と同筆の石山寺絵詞が三十三段として書写されていることから、これが当初の構成で有ったと見られる。とのこと。

この展覧会は石山寺では、春秋に毎年行われているようだ。次回は源氏物語を覚えてから拝見したい。
(28日)
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする