館蔵 秋の優品展(後期)
絵画・墨跡と李朝の陶芸
2006年9月2日から10月22日
五島美術館
前期の記録 古写経、絵画、とくに歌仙絵、墨蹟、茶道具 李朝の陶芸
奈良時代
過去現在絵因果経断簡(益田家本)耶舎長者出家願図
(前回の記事(古写経)に追記しました。)
重文 佐竹本三十六歌仙絵 清原元輔像
詞書は伝 後京極良経、画は伝 藤原信実。
佐竹本三十六歌仙絵は、東京国立博物館(記録はこちら)で鑑賞のこつを教わったばかり。五島美術館では、かなり間近に鑑賞できるのですが、髪形と顔の描き方、柔らかな曲線で輪郭の描かれた束帯姿の描き方など、いいですね。
佐竹本三十六歌仙 一覧表はこちら。
重文 前九年合戦絵巻断簡 帰順願図
国宝 紫式部日記絵巻 五島本(旧森川家本の五段のうち、一段目、二段目、四段目)
(画像はSRCリンク)
紫式部日記は、寛弘5年(1008)7月から同7年(1010)正月までの約1年半の間に書き遺した日記。藤原道長の娘であり一条天皇の中宮であった彰子に仕えた紫式部が、彰子の二度の皇子出産とその祝賀の華やかな様子を中心に、当時の権力者道長をめぐる様々な平安貴族の様子を生きいきと描き出した日記文学。
「紫式部日記絵巻」は、それを約250年後の鎌倉時代前期に絵巻にした作品。
詞書は、伝 後京極良経(1169―1206)、絵は 伝 藤原信実(?―1233―1266―?)。つまり伝後京極良経ついては勘定があいません。
「紫式部日記絵巻」は、全十巻程度の巻物であったが、現在はその約4分の1にあたる四巻分が伝わる。
http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/emaki.htmlによれば、
「蜂須賀家本」(重要文化財 蜂須賀家蔵 1巻)
「藤田家本」(国宝 藤田美術館蔵 1巻)
(画像はSRCリンク)
「藤田家別本」(田中親美模本 田中家蔵 1葉)
「旧森川家本」(国宝 五島美術館蔵 額装6面)(一段目、二段目、四段目)
「旧森川家本」(重要文化財 東京国立博物館 1幅)(三段目)(こちら)
「旧森川家本」(重要文化財 森川家蔵 1幅)(五段目)
「旧久松家本」(重要文化財 日野原家蔵 1巻)
旧森川家本は、もともとは、東京国立博物館のサイトの情報によれば、伊予西条(愛媛県)藩主松平家に伝来。その後、大正9年(1920)に名古屋の森川勘一郎(1887―1980)が発見し、昭和7年(1932)、益田鈍翁(1847―1938)が購入する際に第五段目を切断、森川家に残し(現在、個人蔵)、さらに翌年、鈍翁は第三段目を切り離し掛軸に改装(現在、東京国立博物館蔵)、残りの三段分はその翌年額装となり、戦後、高梨家を経て五島美術館が所蔵。
今回の展示場面は、寛弘5年(1008)10月17日の夜、宮の内侍と紫式部を二人の公卿(藤原実成と藤原斉信)が訪ねる場面。11月1日の夜、皇子誕生五十日目の祝の日の様子。若宮(のちの後一条天皇)を抱く中宮彰子と女房たちを描く。酔い乱れた公卿たちが女房たちと戯れている様子。
絵のおかげで筋もよく判り、紫式部って道長の娘の中宮彰子と同時代の人か、藤原行成、藤原公任とかも同時代か、鎌倉前期に作られたとすると、武家社会が成立して、昔の栄華を偲んで制作したのでしょうか?
詞書の部分の料紙も豪華絢爛。金地に薄い金色と銀色で雲のように棚引くように模様が描かれている。箔などは散らしたりはいないので、平家納経ほどではないが、でも豪華な料紙です。
絵はカラフルにはなったものの、藤原信実画というには、ちょっと顔の表現とかは、やはり佐竹本三十六歌仙絵のほうがいいなあというところでしょうか
2月に東京美術倶楽部 創立100周年記念「大いなる遺産 美の伝統展」(記録はこちら)で一部鑑賞してるはずですが、今回のほうが空いていたので、ジックリと鑑賞できて、歴史を絵で再認識できて大満足でした。
GOOGLEしていたら、2000円札の裏の図柄は、五島美術館の「源氏物語絵巻」と「紫式部日記絵巻」の一場面の紫式部を重ね合わせたものとのこと。今度手元にきたら観てみよう。
二千円日本銀行券の主な様式等について。裏の図柄。左側に、「源氏物語絵巻」第三十八帖(じょう)「鈴虫」その二の絵の一部分に、同帖の詞書(ことばがき)の冒頭部分を重ね合わせたものを配し、右側に、源氏物語の作者である紫式部の絵を配したものとする。
(注1)「源氏物語絵巻」の「鈴虫」の絵及び詞書は、国宝で五島美術館所蔵。
(注2) 「紫式部日記絵巻」の一場面(「紫式部の局(つぼね)を訪(と)う斉信(なりのぶ)と実成(さねしげ)」)の絵(国宝、五島美術館所蔵)に描かれている紫式部。 http://www.mof.go.jp/jouhou/sonota/so004.htmから
実は、前回の前半との差分はこんなものですが、もう一度、歌仙絵や墨跡をじっくりと鑑賞したりして、もう一度楽しめました。
この日は、運動不足解消のため、朝から自宅から五島美術館まで遠路徒歩で行き、静嘉堂文庫美術館を訪れ、砧講演を横切り、世田谷美術館を経て、さらに遠路自宅まで歩きました。でも体重が減った形跡がない。
絵画・墨跡と李朝の陶芸
2006年9月2日から10月22日
五島美術館
前期の記録 古写経、絵画、とくに歌仙絵、墨蹟、茶道具 李朝の陶芸
奈良時代
(前回の記事(古写経)に追記しました。)
詞書は伝 後京極良経、画は伝 藤原信実。
佐竹本三十六歌仙絵は、東京国立博物館(記録はこちら)で鑑賞のこつを教わったばかり。五島美術館では、かなり間近に鑑賞できるのですが、髪形と顔の描き方、柔らかな曲線で輪郭の描かれた束帯姿の描き方など、いいですね。
佐竹本三十六歌仙 一覧表はこちら。
(画像はSRCリンク)
紫式部日記は、寛弘5年(1008)7月から同7年(1010)正月までの約1年半の間に書き遺した日記。藤原道長の娘であり一条天皇の中宮であった彰子に仕えた紫式部が、彰子の二度の皇子出産とその祝賀の華やかな様子を中心に、当時の権力者道長をめぐる様々な平安貴族の様子を生きいきと描き出した日記文学。
「紫式部日記絵巻」は、それを約250年後の鎌倉時代前期に絵巻にした作品。
詞書は、伝 後京極良経(1169―1206)、絵は 伝 藤原信実(?―1233―1266―?)。つまり伝後京極良経ついては勘定があいません。
「紫式部日記絵巻」は、全十巻程度の巻物であったが、現在はその約4分の1にあたる四巻分が伝わる。
http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/emaki.htmlによれば、
(画像はSRCリンク)
旧森川家本は、もともとは、東京国立博物館のサイトの情報によれば、伊予西条(愛媛県)藩主松平家に伝来。その後、大正9年(1920)に名古屋の森川勘一郎(1887―1980)が発見し、昭和7年(1932)、益田鈍翁(1847―1938)が購入する際に第五段目を切断、森川家に残し(現在、個人蔵)、さらに翌年、鈍翁は第三段目を切り離し掛軸に改装(現在、東京国立博物館蔵)、残りの三段分はその翌年額装となり、戦後、高梨家を経て五島美術館が所蔵。
今回の展示場面は、寛弘5年(1008)10月17日の夜、宮の内侍と紫式部を二人の公卿(藤原実成と藤原斉信)が訪ねる場面。11月1日の夜、皇子誕生五十日目の祝の日の様子。若宮(のちの後一条天皇)を抱く中宮彰子と女房たちを描く。酔い乱れた公卿たちが女房たちと戯れている様子。
絵のおかげで筋もよく判り、紫式部って道長の娘の中宮彰子と同時代の人か、藤原行成、藤原公任とかも同時代か、鎌倉前期に作られたとすると、武家社会が成立して、昔の栄華を偲んで制作したのでしょうか?
詞書の部分の料紙も豪華絢爛。金地に薄い金色と銀色で雲のように棚引くように模様が描かれている。箔などは散らしたりはいないので、平家納経ほどではないが、でも豪華な料紙です。
絵はカラフルにはなったものの、藤原信実画というには、ちょっと顔の表現とかは、やはり佐竹本三十六歌仙絵のほうがいいなあというところでしょうか
2月に東京美術倶楽部 創立100周年記念「大いなる遺産 美の伝統展」(記録はこちら)で一部鑑賞してるはずですが、今回のほうが空いていたので、ジックリと鑑賞できて、歴史を絵で再認識できて大満足でした。
GOOGLEしていたら、2000円札の裏の図柄は、五島美術館の「源氏物語絵巻」と「紫式部日記絵巻」の一場面の紫式部を重ね合わせたものとのこと。今度手元にきたら観てみよう。
二千円日本銀行券の主な様式等について。裏の図柄。左側に、「源氏物語絵巻」第三十八帖(じょう)「鈴虫」その二の絵の一部分に、同帖の詞書(ことばがき)の冒頭部分を重ね合わせたものを配し、右側に、源氏物語の作者である紫式部の絵を配したものとする。
(注1)「源氏物語絵巻」の「鈴虫」の絵及び詞書は、国宝で五島美術館所蔵。
(注2) 「紫式部日記絵巻」の一場面(「紫式部の局(つぼね)を訪(と)う斉信(なりのぶ)と実成(さねしげ)」)の絵(国宝、五島美術館所蔵)に描かれている紫式部。 http://www.mof.go.jp/jouhou/sonota/so004.htmから
実は、前回の前半との差分はこんなものですが、もう一度、歌仙絵や墨跡をじっくりと鑑賞したりして、もう一度楽しめました。
この日は、運動不足解消のため、朝から自宅から五島美術館まで遠路徒歩で行き、静嘉堂文庫美術館を訪れ、砧講演を横切り、世田谷美術館を経て、さらに遠路自宅まで歩きました。でも体重が減った形跡がない。