岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

とんぼのいる風景 / 車での長旅 ・夏と秋が分かれていた・「いぐね」のある風景

2008-09-15 05:54:52 | Weblog
■ とんぼのいる風景 ■

 (今日の写真は、穏やかな秋日の晴れの日に撮った「アキアカネ」である。止まっている果実は何なのかははっきりしない。もし、これを見た人で知っている人がいたら、教えて欲しいところだ。)

 「とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな」という中村汀女の句がある。「…ふゆる蜻蛉かな」とあるところを見ると、ここで言う蜻蛉とは、オニヤンマでもなければシオカラトンボではあるまい。
 晴れたある秋の日、微かな風が吹いている。その中を汀女は、柔らかな秋の気配に心を弾ませて散歩に出た。
 そして何処かの水辺にたどり着き、ふと足を停めた。すると汀女の周りを飛び交う蜻蛉が急にその数を増し、微かな風の中を流れていた。
 数の多さが主題になっているわけだから、これは、赤とんぼの一種、アキアカネであろう。小さくて赤味の強いものが雄である。雌は黄褐色でやや大きめだ。今日の写真のものは雌だろう。
 アキアカネというから、秋に羽化するのかというと、そうではない。夏に羽化し、夏の間は山間部で過ごすのだ。夏の登山道で標高7、800mぐらいのところまでによくにかけられるとんぼである。
 岩木山では、時季によっては山頂あたりで大群をなしていることもある。そして、秋になると平地に降リてきて、水辺に多いのである。

 私は、自分の経験から、この句と最初接した時、汀女はどこか山麓の小道でも歩いていたのかなあと思ったものだ。水辺に多いとなれば、それは道路沿いの、草むらを持つ水際(みぎわ)であっても差し支えはないのである。

 汀女になってもう少し句意に浸(ひた)ってみよう。心弾む秋日の散策ーいや逍遥(しょうよう)と言ったほうがいいかも知れない…の折り、ふと歩みを停めると、多くの蜻蛉、とんぼが動きを停めた自分を取り巻く。
 柔らかい動きの、そして軽快な動きの蜻蛉、とんぼという明るい秋気に心身を委ねている幸福感。そして、ふと、とんぼを追いかけた子供心に戻って、優しい秋を肌で感じたのだ…。とでもなろうか。
 しかし、私はこの句の持つ視点、汀女のとんぼをとらえる視点に不満を持つののである。

■ 車での長旅・夏と秋が分かれていた・「いぐね」のある風景 ■

 宮城県大崎市鳴子温泉で開かれた「第29回東北自然保護の集い」には「自動車」で出かけた。弘前から5時間の距離である。車に5時間も缶詰になっていることは疲れるものである。運転者はもっと疲れているだろう。
 そのようなことを意識しているのだが、何しろ「体」は意識を越えて、「睡魔」に襲われる。
 助手席に陣取っていて、運転者の「腕」にもたれ掛かるような姿勢になって、スーと「睡魔」が全身をのっとってしまう。運転者に「起こされて」ようやく「目覚める」というていたらくである。
 おそらく、ぐらりと上体を横様に傾かせるのは一瞬なのだろうだが、「そうなってはいけない」と意識している精神からすると、やりきれないほどの恥辱に感ずるし、申し訳ない気持ちに襲われてしまう。睡眠時間の少ない、朝3時に起床した「往路」では、そのような「睡魔」に取り憑かれることは殆どなかったのに、22時に就寝して、6時に起床して「温泉」を浴びて十分「リフレッシュ」したはずの「復路」でこのような事態になったのは何故だろう。
 体に感じないところで「疲れ」ていたというしかない。全体会議で報告をし、意見を述べて議論に参加し、朝は朝で7時からアピール文の作成会議に参加することになり、9時からの全体会議でまた、報告と発言、質問とめまぐるしく「精神」は働いていたのである。やはり、疲れ以外の何者でもない。
 …鳴子を出たら、猛烈な雨である。道路脇に設置されている気温表示は30℃、暑い。鳴子から古川の自動車道までは西から東に移動する。私たちは南からの「暖かく湿った気団」と北からの「冷たくて乾いた大陸性の気団」がぶつかっている大きな「前線」の下を移動していた。
 古川から自動車道路に入ってひたすら北上することになる。だから、次第に気温も下がり、雨も止むだろうと考えていた。結果として「そのとおり」になったが、この前線の南北幅は相当広かったようで、高速自動車道路に入ってからも、しばらくは「暑く激しい雨」は続いた。
 岩手県に入り、車窓からは「いぐね」が見えるようになってきたら、天気は180度転換して、爽やかな秋晴れとなってきた。気温も24℃まで下がった。
 冷たい秋の気団に覆われている地域に入って来たのである。日射しは強かったが、気温は低く、涼風が静かに吹く穏やかな「秋の東北」に入っていたのである。日本は狭い国だが、大きな気団がぶつかり、秋と夏を「演出」する気候的・気象的には壮大な「国」である。四季の移ろいがある国とは、その変化があるゆえに「心象的な風景」までが繊細で美しいのである。
 弘前に入った頃の気温は21℃だった。秋である。

(注)「いぐね」:風雪から家屋敷を守るためや、食料や建材、燃料として利用するために敷地を取り囲むように植えられた屋敷林のこと。仙台を中心とした東北地方の太平洋側で広く使われている呼び名で、家を表す「い」と地境の「くね」から屋敷境を表したことが語源だと言われている。

 仙台平野の水田地帯に緑の浮島のように見える「いぐね」は、先祖代々から引き継がれた農村での暮らしの知恵であり、また、農村の風土を形づくる独特の風景である。岩手県南部は旧伊達藩の一部だったので仙台平野に見られる「いぐね」もその当時から造られていて、それが現存している。自分の家の廻りが「いぐね」となっていたら、何とすてきだろうと心密かに想ったものだ。

■ Mさんの「岩木山・花の山旅」に対する「書評」■は明日以降に書きます。

秋10月の赤倉登山道から何が見えるか / 第29回東北自然保護の集い宮城大会

2008-09-14 05:41:05 | Weblog
■ 秋10月の赤倉登山道から何が見えるか ■
(今日の写真は岩木山から見える北と南八甲田連山である。写真中央のずっと奥の方である。これを見ると「弘前」という土地が東に八甲田山、西に岩木山という山、それに南は県境の山にすっぽりと抱かれているということが分かるだろう。この地形が津軽平野の農業を支えているということを忘れてはならない。)

■ 第29回東北自然保護の集い宮城大会 ■

第29回東北自然保護の集い(2008/09/13~14)で青森県「岩木山」からの報告として次のことを報告した。会報やブログにも書いた部分とダブっているが掲載する。
        
1.持ち込まれた「コマクサ」について
「コマクサ」除去跡地の調査を7月17日に、その抜き取りを9月10日に、県自然保護課と本会の合同で実施した。

調査結果
○ 跡地およびその周辺で多数の幼苗の発生が確認された。
・約80個体の幼苗が確認された。
・離れた場所にも点々と幼苗が見られ最も遠いものは、跡地から約2m離れていた。
今年生えた幼苗
・幼苗は当年生の実生がほとんどで、2~3年生のものは6個体あった。
・今回見られた個体は花を付けていないので、種子が生産されることはない。
 ○ これらの幼苗は、昨年結実した種子から発生したもの(当年生の実生)と、昨年除去しきれなかったもの(2~3年生)があると思われる。
・昨年9月に除去作業したときは既に実を付けていたので、種子がこぼれ落ちていたと思われる。
 ○ 確認された多数の幼苗は花を付けていないことから、今年は新たに種子が生産されて殖えることはないものの放置して残されるとゆくゆくは増殖のおそれがあるので、葉が目立つうちに早めに抜き取るものとして、自然公園法の許可手続きをしてから自然保護課と本会で抜き取り作業を行った。2~3年生を20本、幼苗を20本を除去した。

2.毎年実施している「ゴマシジミ」の食草「ワレモコウ」の成長を助け、保護するためススキ、ヨシの刈り払いについて
 ゴマシジミ(シジミチョウ科)は湿原の蝶として有名である。青森県には広く分布し、岩木山のふもとは多産地として全国的に知られていた。
 近年開発や湿原の乾燥化によりゴマシジミの姿が各地で見られなくなり、日本一の分布地である青森県でさえ、生息地が限られ数も激減した。
 岩木山周辺でも弥生地区、鬼沢から貝沢地区、長平、百沢ー岳温泉間などでは、おそらく絶滅したと思われ、現在、岳温泉、自衛隊演習地、ミズバショウ沼などにかろうじて生存しているだけとなった。
 湿原の乾燥化は、ススキ、ヨシの侵入によって急速に進むことがわかっている。

3.毎月実施の自然観察会について
今年度無積雪期の「岩木山自然観察会」NHK弘前文化センター講座として実施している。
4月:里山「志賀坊高原」の植生と岩木山里山部分に見られる植生の異同を学ぶ
5月:岩木山の開析谷沿いを散策して、そこの植生的な特性を知る
6月:岩木山山麓でブナ林の全体を観察をし、その仕組みについて学習する
7月:岩木山山麓採草地跡の変遷と「溜池」に「ブラックバス」を探ろう
8月:岩木山の西麓の地形の特異性を目で見ながら、古い生活道路を探る
9月:岩木山の北東麓に開発の失敗例を訪ね、初秋の山麓草原を訪ねる
10月:岩木山百沢地区石切沢周辺の雑木林で「秋の自然」を探る
11月:岩木山の南麓平沢を訪ね、その地形と初冬の原野を訪ねる 
 12月、1月、2月は屋内の学習会(座講)。3月は「雪上アニマルトラッキング」

4.「岩木山弥生スキー場建設計画跡地」について
「岩木山弥生スキー場建設計画跡地」について、弘前市は、その活用を「弘前大学」との共同研究で考えると提案した。その弘前大学から、本会に「跡地の自然(植物分野)」とその利活用についての意見が求められた。弘前大学によると、市や地元は、本会の意見が、この場所に「人間の手を入れてはいけない」というものだと誤解しているという。
 弘前大学では、本会からの提案と地元地域住民の参加意欲の醸成を組み込み、資源「正の資源と共に負の資源も含めて学習材料」等の発掘調査を行い「跡地」にこだわらず、地元地域の資源も使ったグリーンツーリズム・エコツーリズムとつなげる可能性をも探っていくとしている。

■これまでに「跡地内とその周辺」で確認された植物について
 この範囲内の植物はかなり、自然に復元していて、その相は多様であり、多種である。※木本:(アカマツからリョウブ約80種。)※草本:これは被子植物双子葉合弁花類、離弁花類・単子葉類に限った。(アオイスミレからルイヨウショウマ約95種。)※外来種草本:メドハギ・ハルシャギク・オオキンケイギク・オオミツバハンゴンソウなど
■ 具体的な利活用
「本来の植生」が多種多様であることから「森林復元」を含めた人工的な要素を極力省いた「里山としての自然の回復」を前提として、『ふるさとの森』として再生し「自然教育園」とし「自然観察会」の場所として利用する。
すること。観察会の指導者は「観察会」に参加した者を充てていく。ハード面として、現在ある道路を人が「1人」歩ける程度に簡単に整備する一方で、新しく草木の刈り払い程度の歩道を数本敷設する必要がある。
■ 現状維持でも出来る自然観察の視点
1.草木の四季を通した観察2.「木の生えていない跡地」と「隣接する雑木林」の中の気温差から「微気象の違い」。3.「跡地」の表土がはぎとられた部分とそうでない部分の植生の違い。4.「跡地」が扇状地で伏流水が湧き出している場所の「植生」の違い。5.16年前に植樹された「松」の成長度合い、跡地に実生から生育したハンノキなどの成長度合いの違い。「遺伝子的な攪乱」の実例。6.「工事用道路」の洗掘による崩壊・崩落状況。道路沿いには不法投棄のゴミが散乱。7.「跡地」の下方には「調整池」と呼ばれるものがあるが、その池の変容。8.「跡地」内の「荒らされた場所」の「指標」となる植物や昆虫。9.「跡地」内に見られる里山的な植物。10.人工的な「攪乱」の実態。

5.岩木山でも「ブナ」等の伐採は続いている
 岩木山では、山麓の各地域のなどが「管理している」標高700m辺りまでのミズナラやブナ林帯で業者による伐採が続いている。
 この伐採は「伐採」するためだけの「林道」を敷設する。「伐採」して、その跡に「植林」をしない。「木を植え、樹木を育てる」ことを放棄している「伐採」である。。
 先ず、ブルトーザーで道をつける。路肩や法面などまったく注意を払わない工法で道路は造られる。それは、まるで促成の軍用道路であるかのようだ。
 しかも、斜面に対してジグザグに進むというものだ。直線であれば、その面積は狭いものだろうが「ジグザグ」であるのだから「面積」は広がる。
 「伐採」という自然破壊の他に広い範囲にわたって「山肌・地肌」を剥ぎ取るという破壊までもしてしまうものである。
 そして、この促成・粗製の「林道」は切り出した樹木の運搬と重機の移動に使われて「終わり」となり、そのまま放棄される。
 残ったものは「切り株」とブルトーザーのキャタピラ跡が穿った道であり、赤土をむき出しにした禿げ山だけとなる。それは「死の山」でもある。

(「カラーガイド 岩木山・花の山旅」に対するMさんの書評に対する感想は15日以降に掲載する)

秋10月の赤倉登山道から何が見えるか / 9月10日岳登山道を駆け足で登っていた人に想う

2008-09-13 04:16:20 | Weblog
■ 秋10月の赤倉登山道から何が見えるか ■

(今日の写真は霧氷による「海老のしっぽ」をまとったマルバシモツケだ。すっかり褐色に変色して、緑葉に白色の花というイメージはまったくない。しかし、枯れた花を雪洞「ぼんぼり」のように着けているところを見るとマルバシモツケに違いない。この枯れた褐色の花柄も11月に入ると烈風の吹きさらしに遭い、折れるようにどこかに飛ばされてしまう。このような繰り返しを草花は毎年しながら、時を刻んで人間の一生を何廻りもするほどの年を生きていく。人間は彼女たちに一生の間に数度しか会えないが、彼女たちはうんざりするほど人間に出会っている。この場所は山頂である。
 夏に出会った時には「濃霧に霞んで浮かぶ白くて丸い繊細な雪洞」というキャプションを付けたけれど、白い繊細な雪洞はどこにもないなあ、と思ったとき、風に向かって伸びた「海老のしっぽ」が何となく丸みを帯びて見えたのは気のせいだろうか。
 自然は季節に偽らない「錯覚」を人間にやらせることもあるのだ。「山頂の秋の
雪洞溶けかかる」一応俳句のつもりだがどうだろう。)

■ 9月10日岳登山道を駆け足で登っていた人に想う ■

 9月10日に県自然保護課(主査・副参事)2名と私、それに幹事Sさんとで、昨年に引き続いて「コマクサ」の抜き取り作業をした。草丈10cmほどのものを20本、幼苗を20本を抜き取り除去した。
 その途中、岳登山道で駆け足で登っていた人に出会った。私もかつてこの登山道を「駆け足で登った」経験があって、それをしながら海外登山に向けて色々な訓練をしたのである。この経験などを書きたくなったので…書いてみる。
 その人はかなり、「過呼吸」に見舞われていたのだ。これだと「高所」では死に至る。

 …人類は、酸素がないと生きていけない。今のところ、この酸素にかわる物質は発見されていない。酸素供給が急激に減ると、肉体(=精神)という繊細な機構は成り立たないところに追い込まれる。
 酸素供給が6分間以上完全に断たれると、脳は回復できない状態まで破壊され、人は死亡又は植物人間になってしまうと言われている。
 よって、全く科学的に考え、科学の恩恵に浴すると思えば、酸素の薄くなる高所登山の場合、薄くなった分の酸素供給を「カプセルの中」で受けるとか、または「酸素ボンベ」を自力又は他力によって背負いあげ、それによって供給を受ける方法がある。
 しかし、どちらも、完全に酸素のない無重力状態としての宇宙空間ではないので、物理的にも体力的にも、無理がある。
 ましてや、高所の所々に「カプセル」を設置して「登山」するほど、登山そのものに金をかける必要はない。そんなことをしたら、それは、スポーツとしての登山という主題を失ってしまうはずだ。
 その意味では、財力にものを言わせ、数十億円もかけて、世界最高峰に「登頂」して、やったやったと大さわぎをしているナントカ合同登山隊などは、どんなものだろう。
 そして、今、もう1つの方法で高所を登ることも可能なのである。
 その方法を私たちはアルパイン・スタイルと言っている。それは「低酸素状態に自分の体を適合させる」という、いわば、人間の環境への順応力に頼った方法だ。
 しかし、いくらうまく体を順応させたとしても、エヴェレストの頂上より高い所では、人類は生存することが出来ない。
 低酸素状態の中で、もう1つ忘れていけないことは、身体的影響のみならず、人間の「精神」的なところでも、様々な変化・変調が現われてくるということである。
 高所登山には、それに耐え得る独特な体力が必要であってこの体力がありさえすれば、かなり「克服」が可能になる。
 さて、それは、筋力を常時落とすことなく保ちながら登高速度が速いこと、すなわち、単位時間内での登高高度差が大きいこと、それに、休息中、あるいは、宿泊中における体力の復元力が大きいことを指す。
 登高速度が速いと、短時間で登山を完成することが出来る。そうすれば、酸素不足による体そのものの消耗も少なくてすむわけである。速く登るということは、無理をしてではなく、自然にそれがいつもの調子のように出来るということだ。
 高所での安全で確実な登高、下降は、速く登れるという体力を持つ者にしか許されないだろう。ゆっくりとしたスピードでしか登れない者は、体力の減少が極めて大きいのである。
 また、1回の勝負に全力を投入する他のスポーツでは、あまり問題にならない体力の復元力という概念は、長期にわたる登山行動という特殊性から非常に重要なことになる。
 よりハイスピードで登れること、そして、疲れてもすぐ回復する力にとって、心肺機能はこの上なく重要なものである。
 しかし、マラソン選手と同質の体力が要求されるのかというと違う。マラソンでの体力は数時間で使い切る体力、極端にいってゴールに入ってしまえば、倒れてもいいわけだ。
 しかし、高所登山の場合は、ゴールは頂上ではない。それは登り口としての山の取り付きであり、頂上の向こうにある山麓なのだ。しかも、山行二週間以上は維持出来る体力でなければいけない。
 だから、登山をする者の体力は、マラソンランナーのそれとは異質の要素を持つ。そして、前述二つの要素に加えて、持久力の必要度も大きい問題であるし、背に荷物をのせ、重い靴、それにアイゼンなど装着して登る以上、筋力も重要なことになる。
 よく言われることだが、「日常、登山活動をして、体力的に強い者は、高所でも強い」ということがある。これは事実だ。勿論、きちんとした高所順応の手立てを踏んでいればのことである。

(「カラーガイド 岩木山・花の山旅」に対するMさんの書評に対する感想は15日以降に掲載する)

秋10月の赤倉登山道から何が見えるか / Mさんの「岩木山・花の山旅」に対する「書評」(2)

2008-09-12 05:48:43 | Weblog
■ 秋10月の赤倉登山道から何が見えるか ■

(今日の写真は赤倉登山道の「赤倉御殿」から北に少し移動したところから見た赤倉沢である。手前に見えるのがダケカンバ、その奥にはナナカマドの赤い実が、その下部の緑の葉はアカミノイヌツゲ、その左にはハイマツが見える。
 右の尾根斜面に広がる濃緑はコメツガ林である。その下部から対岸尾根に広がる灰色がかった茶色はブナの「紅葉」だ。その尾根の裾にはヤマモミジやナナカマドの紅葉がまだ見えている。
 もし、岩木山全体が「落葉樹」で覆われていたら、このような「彩り」にはならない。常緑の「コメツガ」などが点在しているから、それらが「逆」に他の彩りを「映え」させてくれるのだ。)
 今日の注目は、よく見えないので申し訳ないのだが、赤倉沢に仰臥する巨大な堰堤群である。沢を横切っている「白い」建造物がそれだ。
 ここから直近に見えているものが、下流から数えて15基目のもので、もっとも標高の高いところに敷設された堰堤である。標高は700mを越えている。
 堰堤とはダムのことだ。これは「土砂や土石」を堰き止めるための「床固めダム」である。だが、これを敷設したことにより「赤倉沢」は拡幅されてしまった。
 昔は清流の流れる幅のこれほど広い沢ではなかった。この堰堤敷設のためにブナは伐採され、工事用の道路が造られ、沢に落ち込んでいる両岸尾根の裾はえぐられ、崩され、掘り起こされて、それによって沢はどんどんと広がった。これだと、「堰堤」という機能は無いに等しい。
 既存の「堰堤」の上部にまた「堰堤」を敷設する時に、そのために出た土石を「既存の堰堤上部の沢」に捨てる。だから、「既存の堰堤」は直ぐに「人工的」な土石によって埋まってしまう。これでは、「堰堤」本来の機能を果たさない。中にはその場所が駐車場になっているところもある。
 この工事のために数十億円の税金が投入されているのだ。まさに、「工事のための工事」が1年に一基の割合で十数年続いたのである。

■ 「カラーガイド 岩木山・花の山旅」に対するMさんの書評に対する感想 ■

 昨日のブログに「明日はこの書評に対する私の感想を書く予定」と書いたので書くことにする。
 本当のことだから、何回でも書くが、私はMさんの書評を読んだ時、「嬉しくて有り難くて、涙がこぼれ」てしようがなかった。
 この感興は、どこから生まれたものなのだろう。それは、まさに何年も何年も待ち続けていたものにとうとう出会った時に「持つ」であろう「感興」であったのだ。
 文章を書いたり、出版する時にはかならず、主題があって、読んでもらう人に「ここだけは理解してほしい」「これは批評の対象にしてほしい」ということがあるものだ。
 私はこれまで数冊の本を出版し、所属している山岳会の会報には100回連続して文章を書いたこともある。おそらく、入会してからのものを含めると数百回は書いているだろう。また、本会の会報にも、毎回何らかの文章を発表している。あるいは、山岳評論文などを山岳関係誌にかなりの数で掲載をしている。
 もちろん、書き手である私の「能力」のなさもあるのだが、読み手の反応は少ない。
 少ないというよりも「難解」という一語で片付けられてしまうことが多かったし、その「難解」さを「読んでくれない」理由付けにされて、実際「読んでくれない人」が多かった。
 こうであったから、「ここだけは理解してほしい」「これは批評の対象にしてほしい」という私の真意は殆ど伝わることはなかったように思うのだ。
 その山岳会の例会に参加するのだが、「山岳」に関係することを毎月の会報に書き続けているのに、そのことが私が参加した時の「例会」で話題になったことは一度もなかった。また、直接私に向かって、「私の書いているもの」について話題にする会員もいなかった。
 時々、漏れ伝わってくる「批評(?)」は、相変わらず「難解」であり、「文章が長い。だから、会報の印刷代が高くなる」という程度のことだけだった。
 読まれていないのである。最初から「読もうとしない」のであろう。その口実が「難解」なのである。
 なぜ、私がそのように考えたかというと、私は「会の運営や会の社会性」、「山行のあるべき姿」、「社会人山岳会の会員としての資質とその役割」「遭難をしないために」「リーダーの役割」「山岳知識」など多数の主題で問題を提起しながら、その山岳会に欠けている事柄や内在している評価的事項などを書き続けていたのだが、それは何一つとして、その山岳会の日常的な活動には生かされることがなかったからである。
 私はそのような事実に対して次のように書いたことすらあった。

『…一部の市販雑誌には購読者にへつらっているものもある。最近の「山と渓谷」誌にそれを感ずるのは私だけだろうか。いつもいつも読み手にとって口当たりのいい内容のものが掲載される訳はないのである。
林達夫は著書「ジャーナリズム」の中で、内容の「水平化、規格化」を、「書き手は最大多数の読者層の趣味や要求に応じて作られていく一定の標準に照らして、作品をその間尺(ましゃく)に合わせて書くという形で迎合させられる。独創的な書き手は持ち前を犠牲にしなければ成功する機会はない。」という意味あいで批判している。
 私の書くものにも林が言う「水平化・規格化」が求められているのかも知れない。この「水平化、規格化」とは量や高さ等では同程度を意味し、質的には異質を排除することを意味する。』
 だが、これも空しい努力に過ぎなかった。林の述べる真意が伝わらないのだし、何よりも「難解」が先に立って読んでもらえなかったのである。
 
 Mさんの書評「もの思う山の本」の冒頭には、「カラーガイドと肩書きがあるが、理科学的なガイドブックとは違う。花図鑑として利用しようとする人が得る情報は、その花の名前と由来、科と属の分類に限る」とある。
 私の真意をこれほどまで簡単明瞭に見抜き、言い切ってくれる人が他にいようか。いない。すでに出版して1ヶ月を経過したが、そのようにいってくれた人に私はまだ会っていない。(明日に続く。)

秋10月の赤倉登山道から何が見えるか / Mさんの「岩木山・花の山旅」に対する「書評」

2008-09-11 05:48:05 | Weblog
■ 秋10月の赤倉登山道から何が見えるか ■

(今日の写真は赤倉登山道の頂上直下から北方向を撮ったものである。左側には小さな「噴火口」外輪を想わせるような岩稜が見える。右側の丘「山稜」はこの噴火口や耳成岩噴火口から噴き上げた溶岩などが堆積して出来たものだろう。大鳴沢源頭からの急登を登り切ると、この山稜の「脚」を巻くように登山道が続いている。)

 背の低いダケカンバなどの梢には「霧氷」が白い花を咲かせている。これは、昨晩から朝にかけての氷点下という「低温」と「風向き」を教えてくれる。「風向き」は「北西」だ。
 ずっと、山麓から北に向けて広がっている「黄金」色に染まっているところが岩木川の両側に拓かれた「水田」である。
 藩政時代に「開拓」された水田の広さを知ることが出来る。この「開拓・開田」で津軽藩は公称「10万石」、実質「40万石」という「経済大藩」となったのである。
 この日は晴れて穏やかだった。しかし、日本海は荒れていた。左側に見える海岸線がかなりの幅で「白く」染まっている。これは「荒々しく押し寄せる」波頭なのだ。ものすごい荒波が立っているということだ。

■ 「カラーガイド 岩木山・花の山旅」に対するMさんの書評 ■
 
 9月8日にMさんから「もの思う山の本」という題の「書評」が寄せられた。先日のブログの末尾でも紹介したが、一気に読み終えた直後、いや、読んでいる最中もだが、「嬉しくて有り難くて、涙がこぼれ」てしようがなかった。「嬉しいや「有り難い」という感動や感興は、しばしば持つことがあるが「涙が出て止まらない」ということは滅多にないことだったので、私自身も少々驚いた。

 私は「カラーガイド 岩木山・花の山旅」の書評を阿部会長と本会顧問の正木先生に依頼した。正木先生の方は、既にこのブログで説明したように「幻」となってしまったが、「書評」を頼む時には、何かしら「期待」があるものだ。それは、単純にいうと「どのようなことを書いてくれるだろう」ということである。
 そして、その「期待」する内容は、書き手の専門性や職業、日常に見られる思想性などから、ある程度の「予想」を内包している。
 阿部会長の「書評」は、この「予想」がかなり、的中した。

 さて、Mさんの「書評」はどうだったであろうか。先日、『 Mさんが仮に「カラーガイド 岩木山・花の山旅」の「書評」を書いたとすれば、阿部会長のものとは確実に違ったものになるはずである』と書いた。これは、私の「期待」でもある。Mさんは、決して私の「期待」に応えようとして書いたわけではない。
 実際そのとおりである。彼女は、他に対して「迎合」するようなことはしない人だ。私の廻りにいる人たちは、そのような人が多い。 
 阿部会長は「自然科学」的な見地で「書評」を書いた。Mさんは「文学」的見地で「書評」を書いてくれたのである。当然違ってくる。どちらがいいとか悪いとかいう判断を求めることは出来ない。それは「質」的に違うからである。
 「いいとか悪い」という評価が出来るのは「同質」である場合だ。「競争」の原理は「同質」という地盤がなければ成り立たない。
 日本は今や、教育を含めたすべてが「競争原理」で動いている。これは国民をすべて「同質化」するということに、国民が巻き込まれていることに他ならない。
 そうなった時の、国民的な運命は、これまでの歴史がはっきりと教えてくれている。

「もの思う山の本」

 …四季折々の岩木山に咲く花438種が、あるがままに咲く姿を掲載した美しい本が発行された。タイトルは、「岩木山・花の山旅」。

 カラーガイドと肩書きがあるが、理科学的なガイドブックとは違う。花図鑑として利用しようとする人が得る情報は、その花の名前と由来、科と属の分類に限る。
 本書の圧倒的な印象深さは、山の花を見るときに、その花の名は何か、花の履歴は何かをわかっただけで、その花を知ったことにはならないという深いメッセージを伝えていることによる。

 花ひとつに1000字余りもの随想が添えられ、その内容は、花を目にした瞬間の瑞々しい感動から、深く静かに人生に思いを致すまでの、多岐な思想に彩られている。
 読者は、咲く花のあるがままの姿とそこに添えられた一文から、山の花が一輪、その場所に咲いていることが意味する自然の不思議と豊かさを感じることができるに違いない。

 『花の美しさには、「全身全霊を賭ける」ということが潜んでいるように思える。私たちが心惹かれるのはそれゆえではないだろうか』と語りかける本書は、山の厳しい環境下で咲く花に、我々がそれに依って生きる人生観や価値観に深くつながるものを見る。
 例えば、いかにも苦しげに土に身を伏すと紹介されている「ウスバサイシン」を、登山道の途中に見たとき、我々は、傷つき疲れながら必死に生きようとする自身の姿をそこに重ね見るであろう。
 一株ごとに距離を保ち、孤高の姿を彷彿とさせるという「ツバメオモト」を見るときには、誇りを持て、決して屈するなという強い励ましをそこから得るだろう。

 本書は、ひたすら、ものを思うことを我々に迫る。その花がそこに咲いている奇跡を思い、考え、ありのままを受容し、謙虚になり、自然と一体になって生きることの価値を思うことを迫る。

 山という非日常の世界に身をおいてみることが、現状を打開する大きな力となることもある。人生を左右するような心的体験を呼び起こすこともある。山に咲くまことに小さな花ひとつひとつに、自らの人生体験を重ね合わせ、生きることの深遠を感じることのできる良書である。…

(明日に続く。明日はこの書評に対する私の感想を書く予定です。)

秋10月の赤倉登山道から何が見えるか・登山の目的や山に行く理由とは何だろう(3)

2008-09-10 05:40:58 | Weblog
  ■ 秋10月の赤倉登山道から何が見えるか ■

(今日の写真は赤倉登山道の風衝地に立つ第31番石仏「千手千眼観音」である。だが、「本当か」と問われると少々自信がない。何故かというと「彫られた」石像が摩耗して全体像がよく見えないからだ。
 ここは、風衝地である。年中吹きつける北西の激しい風、その烈風を長い年月真っ正面に受けて、その隆起した彫り込みは摩耗している。
 しかも、使われている石はこの場にいくらでもある自然石、火山性の「安山岩溶岩」である。先人は、石仏をこの場で、ここにある石で彫ったのだ。
 この石仏の後ろに見える先端が尖っている「五角形」の石も石仏用に切り出して、そのまま放置されたものであるようだ。
 それでは何故、「千手千眼観音」と判定したのか、それは石像中央部に見える「合掌」する部分の下にも数段の「合掌」が見えるからである。まさに、「千手」なのだ。
 岩木山赤倉登山道沿いには、33体の石仏観音が建立されている。そして、中にはその「場所」との意味づけの上で建立されているものもある。ブナ林の中にある9番石仏は、森の恵みで衆生を救う「不空羂索観音(ふくうけんじゃくかんのん)」であり、伯母石から岩稜下部をとおる悪場の途中にある13番石仏は「岩戸観音(いわとかんのん)」である。周囲は大きな岩だらけである。これらは場所と建立意味がきっちりと整合している。
 だが、それら以外の建立意義には、信者の「心情」が大きく働いている。衆生の心情は、ひたすら、苦しみや悩みから「救われたい」である。人間が持つ素朴で素直で本源的な願いである。それを「千本の手」や「千の眼」で救ってくれるというのが「千手千眼観音」なのだ。
 人々は「有り難い」観音を求める。しかも、親しみがあり、誰もが知っている優しい観音を求める。これが素朴な信仰というものだろう。「不空羂索観音」や「岩戸観音」などは「したり顔」の「おべ様(自称知識人)」の発想かも知れない。
 33体の石仏の中で一番数が多いのが、この「千手千眼観音」なのである。
 私は最初、33体石仏だから「楊柳(ようりゅう)観音」や「龍頭(りゅうず)観音」、それに「持経(じきょう)観音」などの、いわゆる「三十三観音」が建立されているものと考えていた。
 しかし、そのような系統的で一元的なものではなく、あくまでも「信者」の心情に基づいた「自由」な民間信仰であったのだ。

 注:(三十三観音):古代インドの「リヴ・ベェーダ」の神話には、天界・空界・地界があり、各界に主要な十一神…足して三十三神いるとされる。これが仏教に受け継がれたのである。
 仏教の場合は、この世の中心である須弥山には三十三天があり、そこには帝釈天をトップに三十三の神々が住んでいるとされる。

  そもそも、登山の目的や山に行く理由とは何だろう(3)
(承前)

 山に行く心は、専門的な登山技術書などでは到底解明されない現代人の心の問題に帰着するのである。
 現代の私たちが失いかけて、もう二度と手に出来ないかも知れないものが山にはある。
 それは人間社会で失った「自然の相対」としてとらえられる、非常に曖昧な意味だが「人間性」だ。山を通して人間性は鋭く「現代社会の矛盾を見抜くもの」でなければいけない。登山行動の原点は、人間性の回復、それ以外ないのである。

 現代の中高年者は、軍国主義、戦死、壊滅的な敗戦、貧困等、その歴史的に見ても特別「抑圧」感を持って生きてきたものたちではなかろうか。今、世界一の長寿国になり、その数は年を追って増えている。
 その後には、これまたベビーブームという人口増による抑圧感を持った団塊の世代が続いている。
 都会の中高年者や多くの団塊の世代は二重に「抑圧」された者たちであるとは言えないだろうか。彼らが、こぞって山登りに向かう意味が解るような気もする。

自然が未だあった時代は、より危険で冒険的な登山が未知への憧れや探求という人間性を求めて行われていた。だが、今はアルピニズムとはほど遠い山登りが主流である。
 それは自然と人間との関わりが少なくなっていることに因る。これは科学と機械によって人間が山や自然に安易安直に深入りすることによるものだろう。

 定年で仕事をやめて、情報消費社会の実績主義的な呪縛から解放されたはずなのに、まだ百名山や二百名山などとその数(実績)を追っている中高年登山者がいる。
 彼らは呪縛から解放されず、未だに気づかないまま「幻想的な空間」と「均質的な空間」に庇護されながら、実績主義に身も心もすっかり冒されている者であるに違いない。
 また、便利さや利便性に寄りかかり、自分たちの楽しみだけを追求する中高年登山者の中には、抑圧が解かれたゆえに自由になったことにだけ身を置き、それ以上の自由を求める者もいる。これは未来を犠牲にするデカダンスであるだろう。
 両者に共通することは明らかに、本来の自立的な自己であろうする行為を他に委ねていることである。
 これは自己の自由や時間、自分の領域や占有範囲を他に譲り渡していることに他ならず、そこには真に生きる意味がなく、山に行く心に気づかないかわいそうな人たちと言えるだろう。
 現代の情報消費社会がますますその力を増すにつれて、私たちの生きる意味はますます遠ざかる。
 麓から自分の足で黙々と登るという行為、沢や峪を這い回る行為、岩壁をよじ登る行為、厳冬の雪山に登る行為、7~8000mの高所に登る行為などは、どれ一つとってみても、そこにはこの遠ざかりつつある「生きる意味の回復」があるのではないのか。情報消費社会の中で失ったり、見失っているものを取り戻すこと、これが登山行為であるはずだ。
 ただそのことに、登山者自身が気づかないで、登山ブームに身を置いている者も多いようだ。(完)

(昨日のブログに「Mさんから「書評」が届いた。明日、私の感想を含めて公開する。」と書いたが、字数が多くなってしまい、今日は書けない。明日に延期します。)

秋10月の赤倉登山道から何が見えるか(2) / タウン誌「月刊弘前」から原稿依頼(3)

2008-09-09 05:55:47 | Weblog
 ■ 秋10月の赤倉登山道から何が見えるか ■

(今日の写真は大鳴沢源頭からの急登の途中から弥生方向を見たものだ。写真では小さくて分からないかも知れないがやや中央下部にある山稜の真ん中に道が見えるだろう。弥生から登って来るとここに出る。その景観と昨日の「赤倉稜線」の登山道と比べてみるといい。弥生からの道は藪をかき分けながら登る道だ。だが、この道には藪はない。写真左側下部は「伐採」されて拡幅された道の一部である。ただ、道なりに足許に視線を落として、黙々と登ると山頂に行くという「安直・安易」な道である。これを殆どの登山者は「いい道」だという。)

   そもそも、登山の目的や山に行く理由とは何だろう(2)
(承前)
 …ところで、「空間」をある者は次のように定義している。
 一つは自分で歩いたり、身を置いたりすることでしか得ることが出来ないまさに実質的な「生きた感性的な空間」。
 二つめは家庭や仲間、同じ組織や場所にいることによって得られる心理的な安定感としての「共同体やテリトリーのような幻想的な空間」。
 三っめとして、新聞やテレビで知るような場所や事件に見られる実質を持たない、擬似的な「均質に広がった密度も濃度も均等な空間」である。

 私たちは日常「幻想的な空間」と「均質的な空間」にいて暮らしている。
だから、気づく気づかないに拘わらず、「生きた空間とでもいうべき場所に身を置いて、そこで自分を確認したい」という欲求を本源的に持つのである。
ところが、「生きた感性的な空間」とは、日常性から出ないことには掴めないものだし、さらに、都市社会には閉鎖的な空間しかない。
 だから、生きた空間を求めることは不可能に近い。都市はコンクリートの沢や峪で埋め尽くされている。
 その意味で山登りをすることは、人間の日常的な「抑圧からの解放」という本能的な欲求に根ざしているといえよう。
 白神山地や南八甲田山系の沢や峪を這い回る時、私たちの心には抑圧された人間本来の感覚が蘇っていることに気づいているだろう。ロープウエイで運ばれ、田茂やち岳からぞろぞろと「踏み固められた」道を登っても、簡単には「日常的に抑圧された人間本来の感覚が蘇っていること」に気づかない。
 だからこそ、遡行して峠や頂上に出た時の安堵感は心を解き放し、日常の生活とは異質な体験であることを自覚させるのである。
 この鮮やかな体験が、私たちの日常生活を相対化させて見せてくれるのである。ここにも登山の本質的な意味がある。安易な道を求めるのなら何も「山」に来ることはない。(明日に続く。)

 ■ タウン誌「月刊弘前」から原稿依頼(3)■

(承前)
「岩木山の花々は私たちに何を語るのだろう」

 屹立する岩の壁、山の神石の足許に立っていた。光沢のない垂直で黒い岩壁の所々には、深緑の絨毯が貼り付けられ、それにはクリーム色の小花の刺繍が施され、緑地に踏ん張り、天上に向かい自立する命、イワウメだ。
 数種の植物が同じ場所に群生しているのを、垂直面で見ると多層をなす折れ線グラフである。植物たちは決して重ならない。下のものに影を作らないように花や葉を交互に、段違いに伸ばして空間を共有している。自然の摂理に従い、太陽を含む自然の恵みを均衡に分かちあっている。花たちは決して自然を越えたり逆らったりはしない。じっと、自分の時を、出番を待つのである。
 何とすばらしい「共存」ではないか。この営為は、競争に日々を送っている人間たちを遙かに凌ぐことであるように思えた。ふと、寂しさがよぎった。

 八月上旬、南の空には、むくむくと鉄床雲が湧き上がり盛夏を装う。だが、山頂直下にある沢の源頭部では既に秋の気配だ。アキアカネが岩肌に止まり、体を温めて里に降りるためのエネルギーを蓄えている。その傍には秋の花、シラネニンジンが花を咲かせている。 そして、雪渓の雪が溶けて間もない沢の傾斜には、ウコンウツギの黄色い花、ナガバツガザクラの白い花、エゾノツガザクラの淡いピンクの花に混じってミチノクコザクラが咲いている。
 この、標高千五百メートルの世界は、八月上旬から中旬という短期間に一気に「春、夏、秋」という季節に彩られる。だから、これらの花も一気に三つの季節を生きるのである。
 同じ場所、同じ短い時を共有しても、そこには「受粉のための虫の奪い合い」はない。光合成に必要な「日射し」の奪い合いもない。彼女たちは必死になって生きるけれども、互いに、競ったり争ったりはしない。
 彼女たちは、「それぞれの自分」をとにかく、ひたすら生きる。そして、全体として共存している。
 これは、みんなお互いの違いを認めていることだ。違いが認められているからこそ、それぞれが「個性的」でいられるのである。

 私は花々のそのような生き様を書きたかった。そして、花々から多くのことを学びたかったし、学んだのである。そして、そのように生きていこうと決意したのだ。

(Mさんから昨晩、[カラーガイド 岩木山・花の山旅]に対する「書評」が届いた。明日、私の感想を含めて公開する。今朝は、ただ、「嬉しくて有り難くて、涙がこぼれた」ことだけを書き留めたい。Mさん、ありがとうございました。)

秋10月の赤倉登山道から何が見えるか / タウン誌「月刊弘前」から原稿依頼(2)

2008-09-08 05:41:54 | Weblog
 ■ 秋10月の赤倉登山道から何が見えるか ■ 

(今日の写真は赤倉登山道、大鳴沢源頭からの急斜面を登り切ったところから見た「赤倉稜線」である。登山道がくっきりと見えている。この稜線は風衝地で年中、西から吹き付ける風が強くて、草や木々の生育が阻まれて、一旦ついてしまった「踏み跡」は殆ど回復しない。)

 そのような「自然条件」を無視して数年前に「赤倉神社」の一信者が「赤倉御殿」から山頂直下まで、踏み跡道の両側に生えているミヤマハンノキやダケカンバなどの「樹木」を伐採してしまったのである。だから、拡幅されたその道は余計、広々と、しかもくっきり鮮やかに、これは「道」ですと、いわんばかりに見えるのだ。
 写真の左に見えるピークには名前がない。標高は1397mである。そこまで行く人は先ずいない。昔は修験者たちがよく通った所だ。今は、イヌワシが猟をして捕らえた餌を食べる場所になっている。今年の5月の下旬にも、ここで「蛇」を捕食しているのを目撃した。この稜線は本来は、このように「自然度」の高い場所であった。
 この写真を写した場所から下の部分は、伐採によって、特に踏み跡道の幅が広げられて、まるで「雪崩」の通り道をわざわざ造ったような様相を見せている。まだ、積雪の「固まらない」時季には、ここを登る時は、表層雪崩の恐怖から「冷や汗三斗」の状態になる。
 それまでは、低木のダケカンバの疎林の中を潜るように、しかもジグザクに登っていたものである。現在は、ほぼ真っ直ぐに登るようなルートに改変されてしまった。
 地元の山岳会の会員を含めて、登山者たちは、このような「登山道」を「登り易くて」いい道だと、おおむね評価しているようだ。この登山道で出会う登山者の「評価」には「易い」が共通している。
 それはそうだろう。一信者の「登山道改変」行為の目的はただ一つ、「赤倉講信者たちの登り易さ」にあったからだ。
 登山行為の中で「易きに付いたり、易きを求める」ことは、登る対象である山岳自然に対して「易き」の対意である「難」を与えることであるということを、登山者や登山客は理解していない。登山客ならいざ知らず、一応「登山者」と言われている「山岳会」の会員までがそうであるのだから、あきれてしまう。
 自然に対して「難」を与えるとは「自然を破壊する」ということだ。このように鮮やかにくっきりと見える登山道は「自然の破壊」を示す何者でもない。

 そもそも、登山の目的や山に行く理由とは何だろう(1)

 …山に行く理由は「山が好きである。」以外の何物でもない。ここに「登山」をすることの本源的な理由があると言われている。
 人は流れ行く時間を見ることが出来ないので、空間の中に時間を認めようとする。ある風景を見て、どこかで以前見たことがあると感じたりすることがあるだろう。
 これが空間の中に、時間の連続を見ていることである。そのことで人は、自分が個を超える時間の流れの一部であることを認識し、孤独から救われるのだそうだ。
 時間の連続を感じさせる場所は、樹齢7000年という屋久杉に象徴される原生の森であり、昔ながらの山容である。
 しかし、現在都市の風景は、そこに生活する人を含んで、まったく孤立するばかりである。
 人間には生きた空間とでもいうべき場所に身を置いて、そこで自分を確認したいという欲求があるものだ。(明日に続く。)

 ■ タウン誌「月刊弘前」から原稿依頼(2)■

(承前)
「岩木山の花々は私たちに何を語るのだろう」

 …「かたかごの花」として万葉集にも登場する日本人好みのカタクリは愛らしく美しい花だ。だが、よく見ると奇妙な恰好の花であることに気づく。極端に反り返った花弁、雄しべや雌しべはむき出しであるが、花は一つとして同じものはない。
 一斉に同じ場所に咲きながらみな違う。何という自己主張と個性、異質の共存であろう。子孫を残すために許されたぎりぎりの同質の拒否である。
 何も萌えていない枯れ野の中で、より異質に目立つ花弁は蜜の在処を確実に媒介昆虫に知らせるのだ。生物たちは密接な関係を保持しながら生活をしているのだ。

 背丈が十センチほどの葉柄の根元には、オクエゾサイシンの臙脂色の小花が見える。花の付き方や咲き方が他の花と違っていてユーモラスで楽しい。だが、違っていることは「変なこと」ではない。これが個性であろう。
 学校の目標に「個性の尊重」を謳うところが多い。しかし、その実は「一つの価値に同化する」こと、すなわち同じ顔貌を得るためにのために血道をあげている。生徒の個性を本気で護りながら、育てようとするといつも管理する側とぶつからねばならなかった。

 雪消え間もない潤いある褐色の土、そこに色彩や美を超える力強い生命の原初、キクザキイチリンソウを見た。神話では、美の神が流した涙や美しい侍女アネモネが、この花に変わったと伝える。
 生まれ変わるにはこのような「強い生命」が必要であろう。アネモネの仲間は美しく強靱なのだ。咲き方も多様で花色は濃い紫から青、純白とみな美しい。
 古代ギリシャではこの紫が、染料の中で最も高貴な色として王衣を染めるのに用いられたというが、現代科学でもこの微妙な濃紫色の違いは超えられないだろう。花はすべて「そのまま」がいい。(明日に続く。)

秋10月の山頂 / タウン誌「月刊弘前」から原稿依頼 

2008-09-07 05:31:20 | Weblog
   ■ 秋10月の山頂 ■

 (今日の写真は秋10月の山頂だ。遠くから眺めたものではない。赤倉登山道を登り、大鳴沢源頭からの急登を登り切って、頂上直下に立ったところから写したものだ。この日はいい天気だった。)
 お天気の統計上、晴れの日が一番多い月は、10月なのだそうだ。天気には「特異日」というのがあるそうで、統計から見ると、毎年その日は晴れるというような「日」を指す。
 だが、最近はそれも当たらなくなってきている。地球温暖化による「気象変動」である。今年もおかしいことがある。それは台風がまだ「一つ」も日本に上陸していないことである。別に台風の上陸を待ち望んでいるわけではないが、これまでは8月までに一つぐらいは日本に上陸していたではないか。
 写真の話しに戻そう。…この丸い山が、岩木山の中央火口丘である。範囲を広げると弘前や五所川原、それに、鰺ヶ沢方面から見える屹立峰全体を指して岩木山と言うが、範囲を限定すると、これが岩木山ということになる。
 弘前や鰺ヶ沢から見ると、岩木山は三つの頂(鳥海・岩木・巌鬼)のある山に見える。この写真はその「岩木」であるが、この「岩木」も近づいて見ると、さらに、三つの頂になっている。
 大鳴沢の源頭から急登する突き当たりの岩山がそれであり、そこから少し下って来た所が、この写真で登山者が歩いている所である。百沢や岳から登ってくると、 鳳鳴小屋からの登り切った所が一つの頂になっている。
 これは、岩木山が数回の火山性の爆発を繰り返しながら、今のような恰好になったことを示しているのだ。
 だが、五所川原市や鶴田町方面から見える山容はまったく違う。山全体に「丸み」がないのだ。尖っているといってもいい。その上、頂が一つに統一されてしまうのだ。
 古い話しで恐縮だが、私は1973年に書いた「十月小春・膝小僧出張る」という小説の冒頭で、その岩木山の容姿を次のように表現している。
…「廂が鈍角の長い薄茶けた影を伸ばしている南側の窓からは、デッサンをする画学生の射通す視線を頑強に拒絶し、決して摩滅することのない錐のような石膏の三角体を、小さなものから順に重ねたような、山が見えていた。」
 このように、山頂は、とにかく「尖っている」のである。それは、まさに、マッターホルンのように見えるのだ。
 ところが、実際、頂きに直近すると、「鋭利、鋭角」さは微塵もない。丸みを帯びた優しい頂なのである。低木のミヤマハンノキやダケカンバは既に葉を落とし、ムツノガリヤスなどの草も、黄金色に輝く「草紅葉」の時を終えて、乾いた「枯れ野」となり、冬を待つ準備をすっかり整えている。
 もう一度書くが、この日はいい天気だった。ここまで登って来ても、「風」を感じない穏やかな日和りであった。

  ■ タウン誌「月刊弘前」から原稿依頼 ■ 

 実に早急な話しである。まるで、「今日依頼が来て、明日までに書き上げてくれ」というようなことなのである。実は締め切りが今日である。何のことなのだろうか、それは実に漠然と「カラーガイド 岩木山・花の山旅」についてである。加えて、写真を15枚ほど提供して欲しいとのことであった。写真についても「限定」はなかったので、花以外の写真も入れようかなと思っている。
 午前中に写真の選択をして、午後には届けることが出来るだろう。何とかなるものである。

 さて、このような場合は「何を書いてもいい」と受け取ればいいのだと判断して、題を「カラーガイド 岩木山・花の山旅、発刊によせて」とし、サブタイトルを「岩木山の花々は私たちに何を語るのだろう」として書くことにした。その書き出しの部分を紹介しよう。

 …山道を登り、花々に出会い「可愛い」とか「美しい」とか「健気だ」とか、さらには咲き方や生育状態に「驚き、感嘆」する前に、いつも思うことがある。
 それは花は「自分たちのそれらを誇らないし、出会う私たちに愛でられ慈しまれることを決して望んでいる訳ではない」ということである。
 それは、ただ「今という現実を生命の限りを尽くして生きて、次の世代に生命を引き継いでいくこと」の為にだけ色彩の、形の美しい花を咲かせ、時には芳香さえまき散らすのである。
 そう思った後で、私はきまって「果たして私は日々、命の限りを尽くして生きているか」と怯えるのだ。

 花を咲かせることは、草や樹木にとっては精魂と生気を使い果たすほどにものすごいエネルギーを使うものだ。「春のはかない命」と呼ばれるものは、花を咲かせて種をつけると枯れてしまう。これは新しい生命の誕生に「命がけ」で臨むからだろう。花の美しさには「全身全霊を賭ける」ということが潜んでいるように思える。
 私たちが心惹かれるのはそれゆえではないだろうか。花というものは美しさだけを私たちに与えるものではない。花は力強く、逞しく、美しい上に優しさと暖かさ、強靱さを持っている。
「自然のまっただ中に咲き生きるもの」が「自然から隔離されて生きている」私たちに、「人間」の間違いや「その社会」の身勝手さを、逆に教えてくれることがずいぶんとあるように思えるのである。…

晩秋(初冬)の岩木山 / 幻となってしまった「書評」

2008-09-06 05:50:24 | Weblog
 ■ 晩秋(初冬)の岩木山 ■ 
(今日の写真は鶴田町廻堰にある「移設」された茅葺き屋根のある民家を前景とする岩木山である。時は晩秋だ。岩木山には既に降雪があり、中腹上部には、それが見えている。
 植樹された「サクラ」の葉も色づきを終えて「落ち葉」になりかかっている。寂しい季節の始まりである。
 空に横たわる雲は巻雲「筋雲ともいう」だろう。間もなく日本海から冷たい秋雨前線を伴った低気圧が近づいてきて天気は崩れるだろう。そして、一雨ごとに冬に近づいていくのである。)

 ■ 幻となってしまった「書評」 ■

 私はこの「カラーガイド 岩木山・花の山旅」が上梓される直前に、出版社「北方新社」の編集者から『陸奥新報と東奥日報の「郷土の一冊」欄に「書評」を書いてもらうことになるので、事前に誰かに了解を取っておいて下さい』と言われた。
 そこで、陸奥新報の「書評」は阿部会長にお願いして、東奥日報の方は前作の「陸奥の屹立峰・岩木山」について「郷土の一冊」欄に書いていただいた本会顧問の正木先生にお願いをしたのである。
 この「書評」の掲載依頼は、本が出版されると、その本を各紙「新聞社」に送付する時に出版社が、私が推薦した人に対して「書評」執筆を各紙に依頼するという形を取っている。厳密に言えば「書評」を掲載するか、しないかはあくまでも新聞社の「腹」一つなのだ。
 その例として前回出版した「陸奥の屹立峰・岩木山」に関したことについて書こう。
 その時、私は陸奥新報の「書評」をOさんにお願いしていた。時々電話でに「執筆依頼が新聞社から来たか」と確認したのだが、一向にこないと言う。
 そうこうしているうちに陸奥新報の「文芸時評」欄に、それを専門に担当しているSさんが、私の「陸奥の屹立峰・岩木山」のことを書いてしまったのであった。
 私は同じ文化部の扱いであるが「文芸時評」欄と「書評」欄は違うのだから、別に掲載されるだろうと思うことにして、Oさんにもそのように伝えていたのだ。
 だが、結果からいうとOさんへの「書評」執筆依頼はなかったのである。私は今でもこのOさんに「申し訳のないことをした」と思い、思い出すたびに胸が掻き毟られるのである。
 陸奥新報の「文芸時評」を担当しているSさんは知り合いである。書く前にそのことを一言教えてくれると、こんなことにはならなかったと、私は密かにSさんを恨んだものだ。
 だから、今回は陸奥新報の担当者に『「文芸時評」には掲載しないで下さい。「書評」として扱って下さい』とあらかじめ、断っておいたのである。

 ところが、これに似たようなことが、今度は「東奥日報」で起きてしまったのである。
 8月23日付の東奥日報紙に「カラーガイド 岩木山・花の山旅」の紹介記事が掲載された。これは、東奥日報文化部が独自の判断で記事にし掲載したものである。
 そもそも、私にとって問題の始まりはここにあったのだ。だが、これはあくまでも、私サイドのことであって「東奥日報」社文化部にとっては、「既定の方針」に従ったまでのことであり、別に問題になることではなかったのである。
 そして、その日の内に出版社から次のような電話があったのだ。
それは、『このように文化部の主体的判断で記事が書かれて掲載されてしまうと、第三者による「郷土の一冊」という欄には掲載させてもらえないかも知れない』ということであった。

 私は驚いた。次いで、そうなると正木先生に大変な迷惑をかけてしまうことになることを深く恐れた。さらには、先生の前回のようなすばらしい「書評」が東奥日報の紙面を飾れなくなることをこの上なく残念に思ったのである。

 そこで、私は、東奥日報弘前支社でお世話になったAさんに「郷土の一冊」欄に正木先生の書評が掲載されるように配慮していただくようにと、電話とメールでお願いをした。
 その時、Aさんは『「カラーガイド 岩木山・花の山旅」は内容的にも、また郷土という観点からも遜色がないので「郷土の一冊」欄に掲載されても別に問題はないでしょう。心配しなくてもいいと思いますよ。とりあえず、文化部に話しておきます。』言ってくれたので、ひとまずは、ほっとした。
 実は、昨年8月に東奥日報紙に短期だが「岩木山・花の山旅」という今回出版したものと同タイトルで連載したことがある。これを取り扱ったのが弘前支局の編集部であったのだ。
 後で分かったことであるが、この弘前支局編集部からも、「8月23日の掲載」で終わることなく、「郷土の一冊」欄への掲載もして欲しいとの依頼と働きかけがあったというのだ。有り難いことである。

 ところが、8月31日になっても東奥日報「郷土の一冊」欄には正木先生の「書評」は掲載されない。そこで、Aさんにメールを送り、もう一度問い合わせをしたのである。そして、陸奥新報に阿部会長の「書評」が掲載された9月2日にようやく、連絡があったのである。
 それは要約すると次のようものだった。

 『「文化部」の既定の方針としては、「文化部」の判断で、文化欄で紹介した「書物」は、「郷土の一冊」欄には重複掲載しない。この方針を「カラーガイド 岩木山・花の山旅」のためにだけ変更することは、これまでの他著者の作品に対して不当な扱いをしたことになる。今回の「カラーガイド 岩木山・花の山旅」の掲載は地方出版としては「カラー写真と二段抜き」という異例のものであり、それ相応の扱いをした。よって、「郷土の一冊」欄に書評を載せることはしない。』

 確かに、筋は通っている。反論する余地のない「方針」である。公的な存在としての「新聞社」というものの「毅然」とした姿勢はこれでいい。
 だが、心情的に、私は「引導を渡された」思いになった。私は、正木先生に対してこのような結果になってしまったことを、ただただ申し訳なく思うのであった。
 忙しい中、快く引き受けていただきながら、それをこのような形で一方的に、キャンセルせざるを得なくなったこと、いくらお詫びを言っても許されることではない。新聞社の事情など、よく分からないままに「書評」を依頼した自分の非は許されることではない。
 また、正木先生の「書評」が衆人の眼に触れないことも残念であった。前回、「郷土の一冊」欄の中で先生が、私の「山男ぶり」や「岩木山の保護への取り組み」や「私と生徒との登山における交流」などを的確に「批評」しながら取り上げてくれたことには、この上ない感銘を受けていた。それだけに、先生の書く「郷土の一冊」欄に対する期待は、大きく膨らんでいた。
 それが出来なくなった幻の「郷土の一冊」なのだが、それに比してその喪失感と虚脱感は重く沈殿し、私を包み込んでいる。

稲穂の季節 (その2 )/ 「書評」と感想について(3)

2008-09-05 05:51:39 | Weblog
(今日の写真も昨日の写真と同じ弘前市岩木地区の葛原から見た岩木山である。季節は秋であるが今日の写真の方が初秋である。稲の色もまだ緑がかっているし、穂もまだ垂れ下がってはいない。
 それに、同じ場所を写しているが、カメラの位置が違うのだ。カメラの位置が違ってくると雰囲気というか風情というか、そんなものが一変してしまう。)

 岩木山の前景になっているのは「茅葺き屋根の民家」である。茅葺きの民家はどんどん少なくなっているそうである。聞くところによると維持管理が大変なんだそうで、それで大概が「トタン屋根」の民家に建て替えてしまうというのである。
 このどっしりと落ち着いた風格ある民族的な歴史遺産を何とか残したいと考えるが…うまい手だては即座には思いつかない。
 それにしても、「岩木山には茅葺き屋根」がよく似合う。つきづきしものは「月見草」ならぬ稲穂と茅葺き屋根の民家である。

 ■ 陸奥新報「書評」とMさんの書評的な感想について(その3)■

 (承前)
 阿部会長の「書評」の中に、「分類学上の深みに欠ける点などについては配慮が欲しかった」とか「種についての扱いは生物を扱う際の基本でもあるので一工夫して欲しかった」という表現がある。
 これは、決して「批判」ではない。物事の是非について評価し論じた「批評」である。
 この文を読んだ時、私は「なるほどなあ」と思いながら、これが、専門性を持つ人の見方であり、果たして、「一般の、普通の人」の「書評」に、このような視点が出てきただろうかとも思った。
 逆に言うと、私の花紀行、または山行花随想という極めて「文学的」な内容を主にした「カラーガイド 岩木山・花の山旅」が、植物の「分類学」や「種についての扱い」という点にまで言及しているということを「書評」の中で言ってくれたということになるのである。これでいいのである。
 私の「いい意味」で望んでいた期待は満足を得たとも言えるだろう。

「カラーガイド 岩木山・花の山旅」を既に購入し一応目をとおした上で、「書評」を読んだ会員が「書評」が掲載された日に、数名写真展を訪れた。そして、異口同音で阿部会長の「書評」について触れた。
 共通することは、「やはり、専門性の高い人の発想からのものだ。あのような視点もあるのだ。普通の人のものとは違う。あれはあれでいいのではないか。」であった。ユニークさという点では「異彩」を放っていたということであり、読者はそれを認めているのである。
 「違う」ということは、やはり、いいことなのである。

 …さて、「書評」の書き手が、阿部会長のような「自然科学」畑の人でなく、どちらかといえば「社会科学」、いや「人文科学」の人であれば、その内容はどのようなものになっていたのだろう。
 決してこのような「批評」は出てこなかったであろうと私は思っている。
 その根拠の一つは阿部会長が「自然科学」的に注目したのは「科名と属名」という部分である。これは掲載されている438種の花全部に付けられている。しかし、その分量としての比率は非常に小さいものだ。随想的な文章の行数を仮に200行とすれば1行にも満たない。専門性を持つが故に、その「比率」の小さい部分に拘る、つまり「大事」にしたいのである。
 もう一つの根拠は、次に掲載する「文章」にある。これを書いた人は、「小説」などを書き、それに関する「賞」を受けている女性である。いわば、阿部会長の専門性とは「対極」にいる人であろう。
 縁があってこれまで一緒に「岩木山」に2回登っている。このブログにも時々コメントを書いてくれている人である。Mさんという。
 そのMさんから、8月23日に次のようなメールをもらった。これは私信のメールであって「書評」ではないが、もしも、Mさんが「書評」を書いたら、その主題はこのようなことになるのではないかと、私は考えてしまうのだ。長いメールだったので所々、省略してある。
 なお、私は何だか気恥ずかしくてMさんにはまだ、返信をしていない。Mさん、ごめんなさい。

…『 陸奥新報の大きな記事に続き、今朝、東奥日報でも「岩木山・花の山旅」の記事が掲載されておりましたね。東奥日報の記事は、小さいものでしたが、『花の美しさには「全身全霊を賭ける」ということが潜んでいるように思える。私たちが心惹かれるのはそれゆえではないだろうか。』という、その短いフレーズに、本当に衝撃的な感動を受けました。
 あ、そうか、三浦先生の魅力の源泉はそこか、というように気がついたのです。先生は、何でもかでも、全身全霊、全力投球するんだな、と気がついたのです。
 物事の軽重を問わず、優先順位も顧みず、というきらいもあるが、総じて、全身全霊を賭けておられるという生き方がにじみ出て見えます。山もそうでしょうし、お仕事もそうでしょうし、書くということに対する考え方もです。(中略)
 先生とお会いして、何度かお話を聞く機会を賜り、実は、そのことを考えております。非常に強い印象のある先生でしたが、なぜ山の小さな花をあれほどまでにめでるのか、と思っておりましたが、今朝の記事を見て、非常に納得しました。花は、短い山の夏、確かに全身全霊で咲いております。』

 どうであろうか。「私信」のメールであるから、かなり主観的な「批評」ではある。この文章から演繹してMさんが仮に「カラーガイド 岩木山・花の山旅」の「書評」を書いたとすれば、阿部会長のものとは確実に違ったものになるはずである。

 Mさん、時間があったら、是非1000字で「カラーガイド 岩木山・花の山旅」の「書評」を書いて下さいませんか。忙しくて無理ですかね。

(Mさんのこの件に関するコメントは9月2日のブログにあるので、そちらも参照されたい。)

稲穂の季節 / 陸奥新報「書評」(写真で語る自然讃歌)について

2008-09-04 05:53:57 | Weblog
(今日の写真は弘前市岩木地区から見た岩木山である。稲は花を咲かせ、田には3cmほどの水かさで薄めに水が張られ、今は少しずつ「頭」を垂れ始めている。このままのお天気が続くと今年は豊作に違いない。それを願っている。)

農民の仕事は「一生懸命に働き、実りを願う」という素朴なものである。それは、すべてが「自然の恵み」に支えられていることによるからだ。
 だが、自然は恵むだけではない。奪うこともある。これから、収穫まで心配なのは台風や「ゲリラ」豪雨である。
 …脇道に逸れるが「ゲリラ豪雨」について書きたい。先ずはこの「ゲリラ豪雨」という呼称であるが、一体誰が名付けたのか。実に安直な名付け方である。
 「突然現れて戦闘が始まるその敵対する者たち」をゲリラという。待ち伏せされている者たちが、その「ゲリラ」の存在に気づかないという弱点を露呈した「呼称」であるとも言えるのだ。つまり、気象関係者が「予測と対応」することが出来ないものとして、半ば投げ出したことを実証するような呼称であることを、私たちは肝に銘じなければいけない。
 最近はすべてにおいて、この「中途で投げ出して」しまうことが流行っている。「最後まで頑張る」「一生の仕事にする」などという日本人の道徳的、かつ美的な価値観はバブルとして弾けかかっている。
 次いで、私たちは、この安直な「ゲリラ豪雨」という言葉を使うことで「ゲリラ豪雨」のことを知った気になってはいけないということだ。
 頻発する「ゲリラ豪雨」の原因が「地球温暖化」にあることを理解し、「地球温暖化」の主たる原因であるCO2の増大を防ぐ手だてを、まず自分からすることだ。

 …農民にとって怖いのは、台風などの強風による稲の倒伏だけではない。一番怖いのは冠水である。稲籾が泥や水を被ることだ。
 そうなると春から続けてきた「辛い労働」を含んだすべてが「無」になる。この「無」はまさに「皆無」なのだ。中にはその「皆無」にマイナス要因が上乗せされる事態になることすらある。
 その打ちひしがれる喪失感と虚脱感は計り知れない。それに比して、農民以外の人ではこのような経験をすることは少ないだろう。生産という手段に携わっていない人にとっては「皆無」を味わうことは少ない。
 農民の多くはこの結果次第でそれまでの全プロセスを否定され無に帰すという経験をしてきた。このことが農民の、「しなじく打たれ強い」という「強さ」を育んできた。
 しかし、安直な政府の「金で農民を釣る補助金制度」に安住してから、農民にはその強靱さがない。漁船の油代高騰に対しても同様で、また「バラマキ」をしようとしている。
 「油がなくて値段が上がっているのではない」のだ。「油があるのに値段高騰」なのだから、そこには「人為」が介在しているだろう。その「人為」を正常な形にすることが政治や経済の仕事である。政府はそれをしないまま、またまた安直な「バラマキ」で「漁民」が釣られる。この皮肉に「漁民」は気づいているのだろうか。

 ■ 陸奥新報「書評」(写真で語る自然讃歌)について■

(承前)
 本会会長の阿部 東が「カラーガイド 岩木山・花の山旅」について陸奥新報に寄せた書評についての私の感想と私以外の人の感想を書いてみたい。
 会長が書評を寄せたのは出版社から依頼されて「書評」の書き手として、私が阿部会長の名前を出したからである。つまり、一応、間接的ではあるが、私が「阿部会長に書いてもらいたい」という意志を持って推薦したのである。
 私はこれまで、3冊の本を出版した。その度に誰かに、述べたような「方法」で「書評」を書いてもらうことを依頼した。書かれた「書評」は、すべて非常に「独創的であり、個性的なもの」であった。
 つまり、「書評」を書く人の専門性や仕事、思想や信条、人柄などからにじみ出てくるような内容と表現であった。みんな違っているのである。同じ作品なのに、二人の人が書く「書評」の内容に違いがあるのだ。これは楽しいことである。
 時々、他作品の「書評」を読むことがある。その中には、仲間の作品を褒めちぎることに終始しているものもある。これでは「書評」にならない。
 「書評」とは「書物に対する批評」のことだ。「批評」とは自分の専門性や仕事、思想や信条に基づき、自分の性向や人格などを加味し「物事の善悪・美醜・是非などについて評価し論ずること」である。だから、当然「書評」には違いが出てくるし、「個性的な強調」や「専門性」も出てくるものなのだ。
 「書評」の中で作品や著者を非難することはいけない。もちろん、批判することも出来れば避けるべきだろう。
 「批判」には「広辞苑第五版」によると…
(1)批評し判定すること。(2)人物・行為・判断・学説・作品などの価値・能力・正当性・妥当性などを評価すること。否定的内容のものをいう場合が多い。…という意味がある。
 私は以上のようなことを期待して、昆虫学者(本人は否定するが私は彼を「虫の虫」と呼び、紛れもない昆虫学者だと思っている)である阿部会長に「書評」の依頼をしたのである。
 断っておくが、私は会長に「専門的な見地から」書いて欲しいなどとは一言も言っていない。私の意図したことは的中した。以心伝心なのかと思ったくらいである。そして、有り難くもあり、嬉しかったのだ。
 彼は事実に基づいて「評価し論じた」のである。専門的に見た場合の「分類学」上の不備について客観的に論じたのである。これは有り難いことである。主観的な私の思考に客観的な科学的論拠の取り込みを促したのである。

『…本書の主題である紀行随筆「花の山旅」というジャンルでは別に問題にならないことだろうが、学名の省略で分類学上の深みに欠ける点などについては配慮が欲しかった。例えば種名、亜種名、変異名を同列に扱っているが、遺伝的変異であるシロバナの扱いも平易に過ぎるだろう。
 珍しい変異のシロバナとその写真は貴重であり、マニアとしても捨てがたいのでミチノクコザクラのページで隣り合わせで扱っていることは一つの配慮に違いない。しかし、別種と勘違いされることもあるし、種についての扱いは生物を扱う際の基本でもあるので一工夫して欲しかった。』
 …という箇所などはまさにそれである。もしも、書評の書き手が「文芸畑」の人であれば、決してこのような「批評」は出てこなかったであろう。

「カラーガイド 岩木山・花の山旅」の評判は…陸奥新報「書評」2008/09/02 など

2008-09-03 05:57:19 | Weblog
 (今日の写真は弘前市常盤坂にある「りんご公園」から見た秋色の中に屹立する岩木山だ。今日は9月3日、まだこのような風情を漂わせる「季節」ではないが、ここ数年約一ヶ月の早さで季節が推移しているから、間もなくこのような「秋色」真っ盛りの風景に出会えるかも知れない。)

   ■ 「カラーガイド 岩木山・花の山旅」の評判は…■

 ある人がラジオで聴いた情報だとして、次のことを教えてくれた。
「青森市にある成田本店のベストセラー10に『「カラーガイド岩木山・花の山旅』が入っているようですよ。聴いていたらアナウンサーが、先ずは6位から10位までとして読み上げていったんです。そうしたら9位にランクされていましたよ。」
 やはり、岩木山は多くの人に愛されている。青森市から岩木山は見えない訳ではないが、その存在感は八甲田山の比ではあるまい。それでも、「岩木山の花」には興味・関心を持っている人はいるのである。嬉しいことである。
 
 昨日のブログで友人Tさんの「カラーガイド岩木山・花の山旅」についての感想を紹介した。
 そのことをTさんに「大変嬉しかったので、その気分に浮かれてあなたのメールをブロ グに載せました。事後承諾ですがよろしいですよね。駄目であれば 直ぐ削除します。」とメールで伝えた。
 ところが、Tさんから「え~、いいんですか、あんなコメントで。差し支えなければ私はいいのですが。売れ行きに影響が出ないかな~それが心配です。」という返信メールがあったのである。
 私はTさんのメール(昨日紹介したもの)にあった…
「写真の下についている文章が読み物として十分に成立する充実した内容を持っているということでしょうか。うちの母親などもこの文章の素晴らしさに感動しています。」と「読み物としてゆっくり三浦章男の世界に浸るという使い方プラスαとして、花の検索用というのがベストでしょうか。」ということが、とても大事に思えたのだ。
 この「カラーガイド岩木山・花の山旅」発行の目的は沢山ある。記録的な役割や実利的な意味を含んだ岩木山の花図鑑などがそれである。
 しかし、私がこの「カラーガイド 岩木山・花の山旅」をとおして一番訴えたかったのは「岩木山の花々に対する愛おしさ」である。そして、それを「文章」で表現したのである。
 それ故に、もしも、「カラーガイド 岩木山・花の山旅」のどこの部分を一番評価してもらいたいのか、と問われるならば、それは300種の花に付けられた「キャプション」であり「文章」なのだ。私は「花への愛おしさ」を写真に託したのではない。私は「文章」に託したのである。
 言い換えるならば「花紀行」として託したのだ。「花の山旅」という部分に私の魂と力が傾注されている。写真はそれに伴う付属物でしかない。花の「科・属名」などもいってみれば「付け足し」でしかない。
 にもかかわらず、「カラーガイド 岩木山・花の山旅」を「写真集」などして紹介してある印刷物もあるのだ。情けなくもあり、腹立たしい思いでいる。
 だから、後述するが、昨日の陸奥新報「書評」の題である「写真で語る自然讃歌」などには違和感を持つのだ。私は写真で語ったつもりはない。自然への讃歌をちゃんと文章とキャプションで語っていると自負している。

 Tさんが「…売れ行きに影響が出ないかな~それが心配です。」というのは、ブログに掲載された「圧倒的種類の掲載による検索・索引機能は十二分にあります。しかし、その反面重いし、文章が長いので、歩きながら参照するのは難しいです。…実際に照らし合わせようとすると、今度は一つの花に2~3枚は写真がほしかったなという気もします。」という箇所のことであろう。
 確かに、「そのような使い方」をしようとすれば指摘されたとおりである。
 しかし、私の本音は購入者の使い方に任せるということであり、購入者の工夫に委ねるということであり、何よりも「見てもらう」のではなく「読んでもらう」ことを基本に据えていることなのだ。
 従って、Tさんの指摘が「売れ行きや売り上げ」に影響があったとしても、大した問題ではないのである。恐らく、この「指摘」されたことを重視して「購入」を控える人はいないだろう。仮にいたとしても、少数であるだろう。私は楽観している。

 ■ 昨日の陸奥新報(2008/09/02付)「書評」写真で語る自然讃歌について■

 本会会長の阿部 東が「カラーガイド 岩木山・花の山旅」について次のような書評を寄せている。陸奥新報を購読していない人のために全文を掲載する。「写真で語る自然讃歌」という題は阿部が付けたものではない。

 『…「エゾノリュウキンカ (蝦夷の立金花)・湿地に坐し水芭蕉が背にする金屏風…沢筋の南に開けて、日の光を思う存分浴びることが出来る場所ほど色彩が豊かだ。それは多くの貴婦人が静かに佇んでいると喩えられる風情なのだ。そして、白くて大きな花と緑の大葉の陰に、多くの黄金色がキラキラと光りを浴びて踊っているのが私の視線をくぎ付けにしてしまった。ミズバショウとエゾノリュウキンカだ。(後略)」
 陽光に輝くばかりのリュウキンカへの讃歌である。引用からも分かるとおり、植物の和名を漢字で示したことから訳の判らない植物名の由来がはっきりする。
 山行の紀行と織りなすどっきとする花との出合いと感動が本著の特徴であろう。岩木山に限らず著者は何百種もの植物との出合いを記録し続けているのであろうが、何と岩木山の花についてだけ四百種以上を記録している。
 岩木山を隈無く踏破した著者にしか与えられない山男の特権である。鋭く繊細な観察は、花の名前を亜種名又は変種名まで示すことが出来る原動力ともなっている。
 岩木山に自生する植物を四百種を越えて記録している報告はまだ見たことはないし当然写真で示されているものはない。その意味では本書は「岩木山研究」の重要な役割を果たしている。
 著者は自分が植物に関して素人であると述べている。従って、誤りや観察不足もあるかも知れないがこれを一つの土台として研究が進められていくことを願うものだ。何よりも自然を愛し「岩木山への畏敬」を花に託した著者の真意もそこにあるはずだ。
 本書の主題である紀行随筆「花の山旅」というジャンルでは別に問題にならないことだろうが、学名の省略で分類学上の深みに欠ける点などについては配慮が欲しかった。例えば種名、亜種名、変異名を同列に扱っているが、遺伝的変異であるシロバナの扱いも平易に過ぎるだろう。
 珍しい変異のシロバナとその写真は貴重であり、マニアとしても捨てがたいのでミチノクコザクラのページで隣り合わせで扱っていることは一つの配慮に違いない。しかし、別種と勘違いされることもあるし、種についての扱いは生物を扱う際の基本でもあるので一工夫して欲しかった。
 春、夏、秋の折々に、この書を参考に、桜林、姥石、そして、鬼の土俵へと岩木山を訪ねる方々が増え、多くの読者と岩木山の自然を太陽の下で語り合える日が来ることを楽しみにしている。』

(明日はこの「書評」についての私の感想と私以外の人の感想を掲載する予定でいる。)

背高鈴虫草 / 写真展は今日まで / 「カラーガイド 岩木山・花の山旅」の評判は… 

2008-09-02 05:49:52 | Weblog
(今日の写真はラン科クモキリソウ属の多年草「セイタカスズムシソウ(背高鈴虫草)」だ。草丈が20~40cmで、スズムシソウによく似ていて、唇弁が鈴虫の羽のような形で、淡緑色や帯紫色の花をややまばらにつける。これはスズムシソウに比べると草丈が高く花が小さい。)

 ■ 「カラーガイド 岩木山・花の山旅」に掲載されていない背高鈴虫草 ■

 私はこの花との出会いの印象を「虫の音の聞こえない季節にいち早く鈴を転がす林下の蘭」というキャプションで表現した。どうだろう。
 スズムシは、秋に鳴く虫である。秋になると五所川原市の津軽鉄道では毎年、虫かごに入れた「スズムシ」を車内に持ち込んで「スズムシ列車」を走らせる。
 お客さんを「秋の音色」で楽しませようとする企画だ。毎年、秋を告げる「風物詩」として、必ずローカルマスコミで紹介されている。
 スズムシは秋の虫である。だから、スズムシソウの咲く夏には「スズムシ」の声は林内や草中では聞こえない。だが、この蘭、スズムシソウを見ていると、どこからかその鳴く繊細で透き通った音色が聞こえてくるような気がするのだ。そのことをキャプションにしたのである。
 分布は北海道から九州であり、生育地は山地の林下や草原である。花の咲く時季は夏6~7月である。
 花名の由来は、蘭科特有の大きな唇弁が鈴虫の羽のような形をしていることと、その模様が鈴虫の羽の模様に似ていることによる。
 スズムシソウに似ているが、花茎は高く、花は少し小ぶりでつき方も少ない。亜高山の草原や林下に咲くと言われているが、これは山麓上部の林内で、草の陰に隠れるように咲いていた。
 残念ながら、この「セイタカスズムシソウ」は「カラーガイド 岩木山・花の山旅」には掲載されていない。「カラーガイド 岩木山・花の山旅」の印刷が終わり、製本の過程に入っていた時に、初めて出会った花だからである。
 岩木山にはまだまだ「出会い」を待っている花は沢山あるだろう。「カラーガイド 岩木山・花の山旅」には変異種を含めた438種の花が掲載されているが、これはページ数の関係で、これ以上増やせなかったからである。
 438種という「切れ」のよくない種数はその所為である。450種でもよかったのだ。何故ならば、私の手元には460種を越える花の写真があるからである。

 ■ 写真展は今日まで ■

 「カラーガイド 岩木山・花の山旅」出版記念NHK企画の写真展は今日で終わる。最終日なので16時で終了する。その後直ぐに「撤収作業」となる。
 来場される方は、その前に来られることを切に願うものだ。これまで開催してきた「私の岩木山」写真展や「厳冬の岩木山」写真展でも「撤去作業」に入っている時に来られた人が必ずいたのである。

 ■ 「カラーガイド 岩木山・花の山旅」の評判は… ■

 友人のTさんからのメールを紹介しよう。

『…「カラーガイド 岩木山・花の山旅」の売れ行きが良いそうですね。とてもうれしいです。(私の感想としては)…やはり写真の下についている文章が読み物として十分に成立する充実した内容を持っているということでしょうか。うちの母親などもこの文章の素晴らしさに感動しています。
 本の使い方として私が考えているのは、水で濡らすともったいないので、やはり持ち歩くのではなくて、家に置いて、撮ってきた写真と見比べるというのがベストな使い方かなと思っています。
 圧倒的種類の掲載による検索機能は(索引項目もあるので)十二分にあります。しかし、その反面重いし、文章が長いので、歩きながら参照するのは難しいです。
 実際に照らし合わせようとすると、今度は一つの花に2~3枚は写真がほしかったなという気もします。
 やはり、読み物としてゆっくり「三浦章男の世界に浸る」という使い方プラスαとして、花の検索用というのがベストでしょうか。』

 「重い」という表現があるが、実際本当に重いのである。何と、650gもあるのだ。これだと、平地の散策には携帯して使えるだろうが、「登山」のお供にはならないかも知れない。Tさんが言うように、検索用と読み物として「家」で利用することの方がベターかも知れない。

(  )は私が書き込んだ部分であり、文の接続、段落替えなどは一部手を加えてある。 

今日から9月、野山は秋の花で彩りを添える / Aチャンがやって来た

2008-09-01 05:42:41 | Weblog
(今日の花はシソ科カワミドリ属の多年草「カワミドリ(川緑・河碧)」である。最初の出会いの印象は「秋日の中、沢水にそって香りを流す赤紫の花穂」である。
芳香が薫るという表現は少し憚られるような「香り」なので、「香りを流す」という表現にしたのだ。花だけではなく全草的に独特の香りがあるのが特徴である。)

 ■ 今日から9月、野山は秋の花で彩りを添える ■

 これは日本各地に分布し、山地の草原や林縁に生える草だ。茎はシソ科に見られる四角形で直立し、高さ40から120cm程度。葉には、鋸歯があり、卵形で対生し、2~4cmの葉柄がある。
ちょうど、今頃、茎の先に円柱状の花穂をつけ、多数の花を開く。花冠は紅紫色で、雄しべは花冠から突き出す。
 花名の由来は、「葉や茎が繁茂すると生えている沢・川が緑色になることによること」と「カワ+ミ+ドリ」に分解して「皮+身+取」から「皮と身」の全草を取って煎じるという意味」によるとされている。

 薬草として、秋に茎葉を刈りとって陰乾にしたものを中国で「カツコウ」と呼び、日本では「排革香・ハイソウコウ」と呼んで、 芳香性健胃・清涼解熱薬として食欲不振、消化不良、胃酸過多、風邪あるいは暑気あたりによる発熱、感熱頭痛、嘔吐、下痢などに用いるとされている。また、抗菌作用のあることも知られている。
 
 昨晩から雨が降り続いている。一雨ごとに夏が遠のいて、秋の気配が近づいてくる。これからますます、岩木山では秋の花が真っ盛りとなり、春に花を咲かせたものは彩り豊かな果実になっていく。秋の花とその果実の色彩は山麓でも十分楽しめるのだ。
  
 ■ Aチャンがやって来た ■

 昨日、写真展会場に思いがけない人がやって来た。お父さんとお母さんとAチャンが来たのだ。
 Aチャンとは女の子であった。というのは昨日会ったAチャンはAチャンではなく、Aさんという20歳の娘さんになっていたからである。
 Aチャン家族は3人で本会の自然観察会が始まった頃からよく参加していたのである。その頃から本会では春5月、秋10月、そして3月の雪上観察会と年度内に3回観察会を実施している。
 Aチャン家族3人はほぼ毎回参加していたと私は記憶している。
雪上観察会では…赤倉社屋群を訪ねた時、雪に埋まって頭しか出していない鳥居を、大人たちは不遜にも「跨いで」通ったのに対して、「あかね」チャンは健気にも潜って通り抜けたのである。ああ、名前が出てしまった。とても、いつまでも「仮名」では呼べない。何たって昨日本人に会ってしまったのだからだ。
 また、弥生尾根から大黒沢に降りる時に、「シリセード(お尻を雪面につけて滑り降りることをジョーク的にこう呼ぶ。本来は登山用語のグリセードをもじったもの)」で嬌声を発して愉快に、転げるように滑り降りた小さな姿が思い出されるのだ。
 その他の観察会でも、あかねチャンはまるで「マスコット」的な存在で、活発で元気で、明るく目立ったし、何よりも天真爛漫、質問好きな少女だった。そして、とにかく可愛かったのだ。
 あかねチャンの一番の思い出は、二子沼に出かけた時だ。西岩木山林道を歩きながら、歌を唄い、手にはポリ袋を持ち、お母さんと一緒に「ゴミ」拾いをしていくのである。それをしながら、盛んに質問をする。そんな女の子であった。その時は恐らく小学校の3年生ぐらいだったろうと思う。
 そして、目的地の二子沼に着いてから、私にとっては一生忘れられない「あかね」チャンとの出来事が起こったのである。
 そのことは、拙著「カラーガイド 岩木山・花の山旅」の167ページに書いてある。
 それはミツガシワ(三槲)のページである。キャプション「湧水温む水辺に簪かざす純白の少女たち」はミツガシワの比喩でもあるが、その実は「あかね」チャンのことでもあった。

 次に、その件(くだり)を抜粋して載せよう。

 『…二子沼。それは別々の個性を見せる二つの沼だ。静寂の中葦茅の緞帳を開いて、宇宙につながる上の大きい沼。蒼緑に陥没し終始無言で周りの生命を受け入れている下の小さい沼。
 ブナ林を抜けて、ふかふかと動く岸辺に立った。「固まらないで下さい。沈みますから」。直ぐ目の前を浮島がゆっくりと動く。仰々しいほどのコバギボウシの葉を周囲に萌えさせ、湧水温(ぬる)む水辺に簪(かんざし)をかざした純白の少女たちは水際で踊っていた。
 氷河期の遺存種とされているミツガシワだ。その時、私の傍で小学生のAちゃんが小声で歌いながら、可愛い手でミツガシワの花を摘みだしたのだ。
 私は大声で「採っちゃだめ。」と叫んでいた。Aちゃんは体を固くし、握っていた数本のミツガシワを足許に落とした。
 この子は夢を見ていた。ミツガシワになっていた。水辺の「ハイジ」だったに違いない。
 私はその夢を残酷にも壊してしまったのだ。別な注意の仕方があっただろうにと、心の中でAちゃんに深く謝った。
 その後、ミツガシワを見る度に私は「純白の少女Aちゃん」に出会った気分になる。…私は心ひそかに願っている。「夢破られたこと」を速く忘れてくれることを…。』

 そのAチャンは20歳の大学生になっていた。Aチャンではなく「あかね」さんである。「あかね」さんは私の願いどおり、この「事件」のことをすっかり忘れていた。ほっとした。
 私は訊いた。期待を込めて訊いた。あの「自然に対しての質問好きな少女」は恐らく自然科学への道に進んだのではないかと思いながら訊いたのだ。
 思いに反して、答えは「英文学」であった。彼女は英文学を学ぶ20歳の学生なのであった。
 だが、私は決して失望はしない。「英文学」を学んでも「自然」への関心はなくなるものではない。小さい時に親しんだ「自然」との触れあいは大人になっても持続するものだ。
 私だって国語の教員だった。だが、「自然」や「自然科学」への興味や関心は消えることがない。その根源には幼少年期に「自然の中でよく遊んだこと」があるはずだからである。