■ 秋10月の赤倉登山道から何が見えるか ■
(今日の写真は赤倉登山道、大鳴沢源頭からの急斜面を登り切ったところから見た「赤倉稜線」である。登山道がくっきりと見えている。この稜線は風衝地で年中、西から吹き付ける風が強くて、草や木々の生育が阻まれて、一旦ついてしまった「踏み跡」は殆ど回復しない。)
そのような「自然条件」を無視して数年前に「赤倉神社」の一信者が「赤倉御殿」から山頂直下まで、踏み跡道の両側に生えているミヤマハンノキやダケカンバなどの「樹木」を伐採してしまったのである。だから、拡幅されたその道は余計、広々と、しかもくっきり鮮やかに、これは「道」ですと、いわんばかりに見えるのだ。
写真の左に見えるピークには名前がない。標高は1397mである。そこまで行く人は先ずいない。昔は修験者たちがよく通った所だ。今は、イヌワシが猟をして捕らえた餌を食べる場所になっている。今年の5月の下旬にも、ここで「蛇」を捕食しているのを目撃した。この稜線は本来は、このように「自然度」の高い場所であった。
この写真を写した場所から下の部分は、伐採によって、特に踏み跡道の幅が広げられて、まるで「雪崩」の通り道をわざわざ造ったような様相を見せている。まだ、積雪の「固まらない」時季には、ここを登る時は、表層雪崩の恐怖から「冷や汗三斗」の状態になる。
それまでは、低木のダケカンバの疎林の中を潜るように、しかもジグザクに登っていたものである。現在は、ほぼ真っ直ぐに登るようなルートに改変されてしまった。
地元の山岳会の会員を含めて、登山者たちは、このような「登山道」を「登り易くて」いい道だと、おおむね評価しているようだ。この登山道で出会う登山者の「評価」には「易い」が共通している。
それはそうだろう。一信者の「登山道改変」行為の目的はただ一つ、「赤倉講信者たちの登り易さ」にあったからだ。
登山行為の中で「易きに付いたり、易きを求める」ことは、登る対象である山岳自然に対して「易き」の対意である「難」を与えることであるということを、登山者や登山客は理解していない。登山客ならいざ知らず、一応「登山者」と言われている「山岳会」の会員までがそうであるのだから、あきれてしまう。
自然に対して「難」を与えるとは「自然を破壊する」ということだ。このように鮮やかにくっきりと見える登山道は「自然の破壊」を示す何者でもない。
そもそも、登山の目的や山に行く理由とは何だろう(1)
…山に行く理由は「山が好きである。」以外の何物でもない。ここに「登山」をすることの本源的な理由があると言われている。
人は流れ行く時間を見ることが出来ないので、空間の中に時間を認めようとする。ある風景を見て、どこかで以前見たことがあると感じたりすることがあるだろう。
これが空間の中に、時間の連続を見ていることである。そのことで人は、自分が個を超える時間の流れの一部であることを認識し、孤独から救われるのだそうだ。
時間の連続を感じさせる場所は、樹齢7000年という屋久杉に象徴される原生の森であり、昔ながらの山容である。
しかし、現在都市の風景は、そこに生活する人を含んで、まったく孤立するばかりである。
人間には生きた空間とでもいうべき場所に身を置いて、そこで自分を確認したいという欲求があるものだ。(明日に続く。)
■ タウン誌「月刊弘前」から原稿依頼(2)■
(承前)
「岩木山の花々は私たちに何を語るのだろう」
…「かたかごの花」として万葉集にも登場する日本人好みのカタクリは愛らしく美しい花だ。だが、よく見ると奇妙な恰好の花であることに気づく。極端に反り返った花弁、雄しべや雌しべはむき出しであるが、花は一つとして同じものはない。
一斉に同じ場所に咲きながらみな違う。何という自己主張と個性、異質の共存であろう。子孫を残すために許されたぎりぎりの同質の拒否である。
何も萌えていない枯れ野の中で、より異質に目立つ花弁は蜜の在処を確実に媒介昆虫に知らせるのだ。生物たちは密接な関係を保持しながら生活をしているのだ。
背丈が十センチほどの葉柄の根元には、オクエゾサイシンの臙脂色の小花が見える。花の付き方や咲き方が他の花と違っていてユーモラスで楽しい。だが、違っていることは「変なこと」ではない。これが個性であろう。
学校の目標に「個性の尊重」を謳うところが多い。しかし、その実は「一つの価値に同化する」こと、すなわち同じ顔貌を得るためにのために血道をあげている。生徒の個性を本気で護りながら、育てようとするといつも管理する側とぶつからねばならなかった。
雪消え間もない潤いある褐色の土、そこに色彩や美を超える力強い生命の原初、キクザキイチリンソウを見た。神話では、美の神が流した涙や美しい侍女アネモネが、この花に変わったと伝える。
生まれ変わるにはこのような「強い生命」が必要であろう。アネモネの仲間は美しく強靱なのだ。咲き方も多様で花色は濃い紫から青、純白とみな美しい。
古代ギリシャではこの紫が、染料の中で最も高貴な色として王衣を染めるのに用いられたというが、現代科学でもこの微妙な濃紫色の違いは超えられないだろう。花はすべて「そのまま」がいい。(明日に続く。)
(今日の写真は赤倉登山道、大鳴沢源頭からの急斜面を登り切ったところから見た「赤倉稜線」である。登山道がくっきりと見えている。この稜線は風衝地で年中、西から吹き付ける風が強くて、草や木々の生育が阻まれて、一旦ついてしまった「踏み跡」は殆ど回復しない。)
そのような「自然条件」を無視して数年前に「赤倉神社」の一信者が「赤倉御殿」から山頂直下まで、踏み跡道の両側に生えているミヤマハンノキやダケカンバなどの「樹木」を伐採してしまったのである。だから、拡幅されたその道は余計、広々と、しかもくっきり鮮やかに、これは「道」ですと、いわんばかりに見えるのだ。
写真の左に見えるピークには名前がない。標高は1397mである。そこまで行く人は先ずいない。昔は修験者たちがよく通った所だ。今は、イヌワシが猟をして捕らえた餌を食べる場所になっている。今年の5月の下旬にも、ここで「蛇」を捕食しているのを目撃した。この稜線は本来は、このように「自然度」の高い場所であった。
この写真を写した場所から下の部分は、伐採によって、特に踏み跡道の幅が広げられて、まるで「雪崩」の通り道をわざわざ造ったような様相を見せている。まだ、積雪の「固まらない」時季には、ここを登る時は、表層雪崩の恐怖から「冷や汗三斗」の状態になる。
それまでは、低木のダケカンバの疎林の中を潜るように、しかもジグザクに登っていたものである。現在は、ほぼ真っ直ぐに登るようなルートに改変されてしまった。
地元の山岳会の会員を含めて、登山者たちは、このような「登山道」を「登り易くて」いい道だと、おおむね評価しているようだ。この登山道で出会う登山者の「評価」には「易い」が共通している。
それはそうだろう。一信者の「登山道改変」行為の目的はただ一つ、「赤倉講信者たちの登り易さ」にあったからだ。
登山行為の中で「易きに付いたり、易きを求める」ことは、登る対象である山岳自然に対して「易き」の対意である「難」を与えることであるということを、登山者や登山客は理解していない。登山客ならいざ知らず、一応「登山者」と言われている「山岳会」の会員までがそうであるのだから、あきれてしまう。
自然に対して「難」を与えるとは「自然を破壊する」ということだ。このように鮮やかにくっきりと見える登山道は「自然の破壊」を示す何者でもない。
そもそも、登山の目的や山に行く理由とは何だろう(1)
…山に行く理由は「山が好きである。」以外の何物でもない。ここに「登山」をすることの本源的な理由があると言われている。
人は流れ行く時間を見ることが出来ないので、空間の中に時間を認めようとする。ある風景を見て、どこかで以前見たことがあると感じたりすることがあるだろう。
これが空間の中に、時間の連続を見ていることである。そのことで人は、自分が個を超える時間の流れの一部であることを認識し、孤独から救われるのだそうだ。
時間の連続を感じさせる場所は、樹齢7000年という屋久杉に象徴される原生の森であり、昔ながらの山容である。
しかし、現在都市の風景は、そこに生活する人を含んで、まったく孤立するばかりである。
人間には生きた空間とでもいうべき場所に身を置いて、そこで自分を確認したいという欲求があるものだ。(明日に続く。)
■ タウン誌「月刊弘前」から原稿依頼(2)■
(承前)
「岩木山の花々は私たちに何を語るのだろう」
…「かたかごの花」として万葉集にも登場する日本人好みのカタクリは愛らしく美しい花だ。だが、よく見ると奇妙な恰好の花であることに気づく。極端に反り返った花弁、雄しべや雌しべはむき出しであるが、花は一つとして同じものはない。
一斉に同じ場所に咲きながらみな違う。何という自己主張と個性、異質の共存であろう。子孫を残すために許されたぎりぎりの同質の拒否である。
何も萌えていない枯れ野の中で、より異質に目立つ花弁は蜜の在処を確実に媒介昆虫に知らせるのだ。生物たちは密接な関係を保持しながら生活をしているのだ。
背丈が十センチほどの葉柄の根元には、オクエゾサイシンの臙脂色の小花が見える。花の付き方や咲き方が他の花と違っていてユーモラスで楽しい。だが、違っていることは「変なこと」ではない。これが個性であろう。
学校の目標に「個性の尊重」を謳うところが多い。しかし、その実は「一つの価値に同化する」こと、すなわち同じ顔貌を得るためにのために血道をあげている。生徒の個性を本気で護りながら、育てようとするといつも管理する側とぶつからねばならなかった。
雪消え間もない潤いある褐色の土、そこに色彩や美を超える力強い生命の原初、キクザキイチリンソウを見た。神話では、美の神が流した涙や美しい侍女アネモネが、この花に変わったと伝える。
生まれ変わるにはこのような「強い生命」が必要であろう。アネモネの仲間は美しく強靱なのだ。咲き方も多様で花色は濃い紫から青、純白とみな美しい。
古代ギリシャではこの紫が、染料の中で最も高貴な色として王衣を染めるのに用いられたというが、現代科学でもこの微妙な濃紫色の違いは超えられないだろう。花はすべて「そのまま」がいい。(明日に続く。)