岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

岩木山白狐沢下流域山麓から見た岩木山・2 / Mさんの「岩木山・花の山旅」に対する「書評」最終回

2008-09-20 05:31:15 | Weblog
 ■ 岩木山白狐沢下流域山麓から見た岩木山・2 ■

(今日の写真は9月10日に撮した岩木山白狐沢下流域山麓から見た岩木山だ。この撮影地までの道順だが…
 岩木山環状線から大石神社に向かって入り、大石神社の少し手前から右の車道に入る。しっかりした砂利道を移動して草原に出たところで下車する。
 車道の下部には原野や草原が広がっている。標高は350mほどである。下車地点の遠景は岩木山の北東面である。左から赤倉登山道尾根、赤倉キレット、1396mのピーク、1250mのピークと続いている。この1250mピークが扇ノ金目山に連なっている。右の深い沢が白狐沢、左の沢が赤倉沢だ。
 前景は山麓尾根に生えているミズナラを中心とした雑木林である。その手前が疎林と草地が混在していたかつての「採草地」跡であり、手前左側の「草地」は、放棄された「牧野」跡である。このような「牧草地」跡がこの上部に延々と連なっている。

 昨日も書いたが、ここからもかつては「山頂」に行くことが出来たのである。ところが、登山者は「先人が残した文化の継承者」であることを止めてしまい、この道は廃道となってしまったのだ。

 …登山道を含めた道は先人がさまざまな思いを込めて、苦しみながら築いてきたものである。先人の「思い入れ、考え、苦悩」は同じ「人」である以上、現代人の私たちにも通じるものだろう。
 古くからの道に思いを致すことは「温故」と呼ばれるものと接点があるように思える。「温故」には、時代が変わっても常に、現代に働きかけてくるものがあり、時を越えた永遠の不変なる心情を、また普遍なる真実を過去から現在に注いで、さらに未来へとつないでいくものがあるだろう。
 つまり、時代を越えて人の心に永遠に働きかけ、訴えてくる要素を持ったものである。それゆえに、古い道であってもやはり、それは現代に通じる道であるだろう。そして、我々は先人と同じように、さまざまな思いを持ってこの道を歩かねばならない。こうすることが歴史を作っていくことに連なるのである。これは伝承と呼んでもいい。

 歴史とは「今」を介在させながら、今を未来につないでいくことでもある。先人たちは、確実にこれを実践していた。先人たちは、今、つまり現在につながらない未来や将来など絶対にありえないことを知っていた。
 だから、今を「自然とともに必死」で生きた。そうしてして、つないできた。
 そのことを、私たちは伝統と呼ぶ。多くの現代人は忘れがちだが、この生きざまは当然、現代の我々にも課せられているのである。
 「道」は財産であり伝統である。財産を食い潰し、「道」を廃れさせることは、先人の築いてきた「文化を放棄」し、「根絶やし」にすることだ。歴史的な財産を、「道」を廃れさせてはいけない。
 登山者は「先人たちの財産と伝統を継承する者」たちであるはずだ。
 そして、登山者とは、道なきかすかな踏み跡に先人たちの思いを辿り、自分の思いを重ねながら歩き続ける「継承の徒」でもある。
 頂上に立つことにのみ価値を置いて、ぞろぞろと列を成し、人の後ろについて歩いたり、踏み固められた道に導かれているような「山岳会員」もいるが、彼らはリュックは背負っているが「先人たちの財産と伝統」を背負ってはいない。単なる登山客に成り下がっていると言えるだろう。…

 ■ Mさんの「岩木山・花の山旅」に対する「書評」(最終回)■

 Mさんは続けて「本書は、ひたすら、ものを思うことを我々に迫る」と言う。そのとおりなのだ。「カラーガイド」としてあるが、決して華美であったり、軽快ではない。
 私に言わせると「文章」は、花の美しさや華やかさとは違いどろどろとした人間生活に言及している。表層的で軽い己の人生や思想を重さをもって徹底的に打擲する。「重い」のである。
 人生というものを内面的に突き詰めた生活を自分の人生に取り込むことが苦手な人はこの「カラーガイド岩木山・花の山旅」を読むことは「重く」て「苦痛」だろう。そのような人は「写真」を中心に「花図鑑」として楽しめばいいのだ。
 そのようにすればMさんが言う『その花がそこに咲いている奇跡を思い、考え、ありのままを受容し、謙虚になり、自然と一体になって生きることの価値を思うことを迫る』ことから逃れることが出来るだろう。
 Mさんは決して、その「迫られる」ことから逃げようとしない。その花と屹然と対峙し、花から学び、それを自己の人生に生かそうとする人であるはずだ。
 
 私にとって花々との出会いは楽しいものではあったし、多くの花々の名前を知る機会にもなった。それらの植物的な特性、生育条件や生育事情を知ることになった。
 だが、元々「植物の素人」であり「一介の登山者」である私にとっては、それらは別に大したことではないのだ。花々が、そして、自然の有り様が「人間社会から人間を学ぶ」以上に人間を学ばせてくれたことに意義があったし、喜びがあった。
そのことを的確に読解しているものが、Mさんの「書評」である。
 それは、『山という非日常の世界に身をおいてみることが、現状を打開する大きな力となることもある。人生を左右するような心的体験を呼び起こすこともある。山に咲くまことに小さな花ひとつひとつに、自らの人生体験を重ね合わせ、生きることの深遠を感じることのできる良書である』という最後の一文に如実に集約されているだろう。
 最近、誰もが、例えば小学生までが簡単に「感動」とか「勇気」という心情語を使うようになってきた。このような言葉は、確固とした対象となる事実とあいまって使われるものでなければいけないものだ。つまり、簡単に口にしてはいけない言語である。テレビに出てくるタレントや大人が軽薄に口にするから、子供たちが受け売りで使っているのだろう。
 だが、私はどうしてもMさんにこの二語を使って言いたい。
「Mさん、本当に有り難う。あなたの真摯で飾らない書評には、著者として憚られる自分の本音・主題が的確に把握されていました。そのことに深く感動しました。そして、これからの人生もこれまでの姿勢と価値観を持って生きていくことが出来るという勇気を与えてくれました。」