■ 我が家の裏にアカバナが咲いた ■
(我が家の裏側は北向きである。一年の内のもっと日の長い時季にしか日が当たらない。しかも、それはその太陽が岩木山の頭の上に位置して、北の肩辺りに「沈む」という期間と時間という限定された時季である。
そろそろ、一日中「日」を浴びることのない時季に入っている。今日の写真は、そのアカバナ科アカバナ属の多年草「アカバナ(赤花)」である。)
岩木山でのアカバナとの出会いはこのようなものであった。
…二日続いた雨があがり、乾いた初秋の風が山麓の草原を吹き抜けていく。それに合わせて、路傍では萩が花をこぼし、尾花が大きく揺れる。とりわけ、尾花と風は相性がいいものだ。風に揺れると、途端に命が与えられたように生き生きしてくるから不思議だ。
いくらか高度を増したのだろう。道は林縁に沿って進むようになってきた。軽くてさわやな風が吹き抜けても、直ぐに道の水溜まりが乾くわけもない。しかも、法(のり)面からは水が染み出しているし、近くには沢もあり流れの音が耳を打つ。
いつ来てもこの辺りはじめじめしていた。窪地の水溜まりを避けようと道の端に寄った時だった。まだ夏緑の陰影を保った林縁に、明るく柔らかい緑の綾に瞬きながら白と紫紅で連れ立ち舞う小さな花を見た。それはいくぶん湿ったところに生え、葉には鋸歯のあるアカバナであった。
それにしても何と可愛い四弁花をつけているのだろう。可愛いさでは果実も花と同じだ。細長い種子には、多数の白くて長い毛がある。それが、柳の果(さくか)から飛び出す冠毛のある多数の種子のように、風に乗って飛びかう姿も、まさに連れだち舞いに等しいのである。私はしばらくの間、アカバナと向き合っていた。…
さて、この写真のアカバナはどうだろう。「岩木山のアカバナ」と比べてみよう。
先ず周りには緑がない。土の表面には川の砂利を敷いてある。しかも、生えているのはこれ1本だけなのだ。屋根の廂のしたであるから雨を受けることがまずない。乾いている場所なのだが、直ぐ傍には「野外の水道蛇口」があり、そこだけは「湿っている」という場所である。
花の周りに長く伸びている「茎」状のものは種である。間もなくこれは割れて、中から長い羽毛をつけた種が飛び出すだろう。それと同時に、茎や葉が赤く色づくことだろう。これが花名の由来になっている。
ところで、このアカバナはどこからやって来たのだろうか。きっと、私の衣服か靴について岩木山から運ばれてきたものに違いない。
何とも、いじらしくもあり、愛おしいアカバナであることだろう。
■ Mさんの「岩木山・花の山旅」に対する「書評」■
私が言う「自然への共感能力」とは箇条書きにすると次のようなことだ。
① 自然物を自分と平等に扱い、返すことができないものを奪わないこと。
② 植物や動物をとる者は詫びて、いつか自身が役立ちたい気持ちを持つこと。
③ 同じ命を持つものの優しさで、相互依存の連鎖という世界をとらえること。
④ 生き物の時間をそのままとらえ、人間の時間を尺度にしないということ。
⑤ 目の前の自然や景物に過去の時間を発見して感動すること。
⑥ 自然の生命体を通約された一元的な価値とせず、個別的価値とすること。
⑦ 動物や植物のデリケートな反応を、人間の感性と理性の延長ととらえること。
この「自然への共感能力」を持ってする観察を「感性的な観察」と言い換えてもいい。Mさんが、その「書評」の中で…
「山の厳しい環境下で咲く花に、我々がそれに依って生きる人生観や価値観に深くつながるものを見る」…と言うことは、まさに、この「自然への共感能力」を持った「感性的な観察」を見抜いて指摘していることでもあるだろう。
今現在、「自然観察指導員」である人にとっても、これから「自然観察指導員」になろうとしている人にとっても、「感性的な観察」がどれほど重要なことであるかは、決して否めない事実であろう。
今回の「自然観察指導員養成講習会」で、その内容に「感性的な観察」ということが主題的にどの程度入っていたのか、今度Tさんに訊いてみようと思っている。
ところで、昨日、五所川原市中央公民館で「あおもり県民カレッジ・地域キャンパス講座」があり、「岩木山の自然とイヌワシ」という題で講演をした。
西北教育事務所の係からは当初24名の受講者だと聞かされていたが、当日の受付も可能なこともあり、会場の視聴覚室定員50名が満席になるほどの盛況であった。
中には弘前からの受講者もいたという。
係の人は、「ここ数年で一番受講者の多い講座になった」と言い、とても喜んでいた。これらは、人々の何よりも「岩木山」に対する関心の強さからであろう。
事前に「カラーガイド岩木山・花の山旅」の販売許可を得ていたので、昨日10冊だけ会場に運び、宣伝することもなく、机の上に積み上げて置いた。ただ、そのようにして置いただけなのだが、講座終了時に、直ぐに「完売」してしまった。
代金を支払いながら「新聞で見ました」と言う人もいたし、「今日の講座で岩木山の花をもっと知りたくなった」と言う人もいた。
私はまたまた、迷路の世界に入り込んでしまった。昨日の「完売」という事実は私を、「自然に関心があり、自然を守り、その手はじめとして自主的に自然観察会を実施しようとする」人たちであるはずの「自然観察指導員養成講習会」受講者たちが、「講習会実施の地元フィルドである岩木山」の「花々」を含めたことを「内容」とする「カラーガイド岩木山・花の山旅」を「自分のもの」として読んで学習するために「購入」しなかったのかという「不思議の世界」に引き込むのである。(明日に続く。)
(我が家の裏側は北向きである。一年の内のもっと日の長い時季にしか日が当たらない。しかも、それはその太陽が岩木山の頭の上に位置して、北の肩辺りに「沈む」という期間と時間という限定された時季である。
そろそろ、一日中「日」を浴びることのない時季に入っている。今日の写真は、そのアカバナ科アカバナ属の多年草「アカバナ(赤花)」である。)
岩木山でのアカバナとの出会いはこのようなものであった。
…二日続いた雨があがり、乾いた初秋の風が山麓の草原を吹き抜けていく。それに合わせて、路傍では萩が花をこぼし、尾花が大きく揺れる。とりわけ、尾花と風は相性がいいものだ。風に揺れると、途端に命が与えられたように生き生きしてくるから不思議だ。
いくらか高度を増したのだろう。道は林縁に沿って進むようになってきた。軽くてさわやな風が吹き抜けても、直ぐに道の水溜まりが乾くわけもない。しかも、法(のり)面からは水が染み出しているし、近くには沢もあり流れの音が耳を打つ。
いつ来てもこの辺りはじめじめしていた。窪地の水溜まりを避けようと道の端に寄った時だった。まだ夏緑の陰影を保った林縁に、明るく柔らかい緑の綾に瞬きながら白と紫紅で連れ立ち舞う小さな花を見た。それはいくぶん湿ったところに生え、葉には鋸歯のあるアカバナであった。
それにしても何と可愛い四弁花をつけているのだろう。可愛いさでは果実も花と同じだ。細長い種子には、多数の白くて長い毛がある。それが、柳の果(さくか)から飛び出す冠毛のある多数の種子のように、風に乗って飛びかう姿も、まさに連れだち舞いに等しいのである。私はしばらくの間、アカバナと向き合っていた。…
さて、この写真のアカバナはどうだろう。「岩木山のアカバナ」と比べてみよう。
先ず周りには緑がない。土の表面には川の砂利を敷いてある。しかも、生えているのはこれ1本だけなのだ。屋根の廂のしたであるから雨を受けることがまずない。乾いている場所なのだが、直ぐ傍には「野外の水道蛇口」があり、そこだけは「湿っている」という場所である。
花の周りに長く伸びている「茎」状のものは種である。間もなくこれは割れて、中から長い羽毛をつけた種が飛び出すだろう。それと同時に、茎や葉が赤く色づくことだろう。これが花名の由来になっている。
ところで、このアカバナはどこからやって来たのだろうか。きっと、私の衣服か靴について岩木山から運ばれてきたものに違いない。
何とも、いじらしくもあり、愛おしいアカバナであることだろう。
■ Mさんの「岩木山・花の山旅」に対する「書評」■
私が言う「自然への共感能力」とは箇条書きにすると次のようなことだ。
① 自然物を自分と平等に扱い、返すことができないものを奪わないこと。
② 植物や動物をとる者は詫びて、いつか自身が役立ちたい気持ちを持つこと。
③ 同じ命を持つものの優しさで、相互依存の連鎖という世界をとらえること。
④ 生き物の時間をそのままとらえ、人間の時間を尺度にしないということ。
⑤ 目の前の自然や景物に過去の時間を発見して感動すること。
⑥ 自然の生命体を通約された一元的な価値とせず、個別的価値とすること。
⑦ 動物や植物のデリケートな反応を、人間の感性と理性の延長ととらえること。
この「自然への共感能力」を持ってする観察を「感性的な観察」と言い換えてもいい。Mさんが、その「書評」の中で…
「山の厳しい環境下で咲く花に、我々がそれに依って生きる人生観や価値観に深くつながるものを見る」…と言うことは、まさに、この「自然への共感能力」を持った「感性的な観察」を見抜いて指摘していることでもあるだろう。
今現在、「自然観察指導員」である人にとっても、これから「自然観察指導員」になろうとしている人にとっても、「感性的な観察」がどれほど重要なことであるかは、決して否めない事実であろう。
今回の「自然観察指導員養成講習会」で、その内容に「感性的な観察」ということが主題的にどの程度入っていたのか、今度Tさんに訊いてみようと思っている。
ところで、昨日、五所川原市中央公民館で「あおもり県民カレッジ・地域キャンパス講座」があり、「岩木山の自然とイヌワシ」という題で講演をした。
西北教育事務所の係からは当初24名の受講者だと聞かされていたが、当日の受付も可能なこともあり、会場の視聴覚室定員50名が満席になるほどの盛況であった。
中には弘前からの受講者もいたという。
係の人は、「ここ数年で一番受講者の多い講座になった」と言い、とても喜んでいた。これらは、人々の何よりも「岩木山」に対する関心の強さからであろう。
事前に「カラーガイド岩木山・花の山旅」の販売許可を得ていたので、昨日10冊だけ会場に運び、宣伝することもなく、机の上に積み上げて置いた。ただ、そのようにして置いただけなのだが、講座終了時に、直ぐに「完売」してしまった。
代金を支払いながら「新聞で見ました」と言う人もいたし、「今日の講座で岩木山の花をもっと知りたくなった」と言う人もいた。
私はまたまた、迷路の世界に入り込んでしまった。昨日の「完売」という事実は私を、「自然に関心があり、自然を守り、その手はじめとして自主的に自然観察会を実施しようとする」人たちであるはずの「自然観察指導員養成講習会」受講者たちが、「講習会実施の地元フィルドである岩木山」の「花々」を含めたことを「内容」とする「カラーガイド岩木山・花の山旅」を「自分のもの」として読んで学習するために「購入」しなかったのかという「不思議の世界」に引き込むのである。(明日に続く。)