岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

NHK弘前ギャラリー企画展『岩木山の花・写真展』のお知らせ / 自転車で…走る・風向きのこと(9)

2008-08-06 05:53:22 | Weblog
  NHK弘前放送会館ギャラリー企画展『岩木山の花・写真展』のお知らせ

   ※これは「岩木山・花の山旅」出版・発売を記念して開催されるものです。

※開催期日: 2008年8月29日(金)~9月2日(火)

※展示時間: 10:00時から17:00時まで、ただし、最終日は16:00時まで

※展示内容:花の写真、約120種と文章のコラボレーションとなります。

 なお、「岩木山・花の山旅」には掲載されているものの、紀行随筆文章がつかないもので、写真の小さいものなどは大きい写真で展示しております。
 また、また非常に珍しく、「岩木山・花の山旅」が編集された後で発見、撮影された「岩木山・花の山旅」には掲載されていない、岩木山を考える会会員が撮影した写真など、数種の展示もあります。
どうぞ、気軽にお立ち寄りください。三浦が常時、展示場に詰めていて、案内や解説をする予定です。

 なお、展示会場では「岩木山・花の山旅」(定価2800円)の販売もしております。

 今日の写真は、「岩木山・花の山旅」で紹介出来(間に合わ)なかった「2枚の苞を持つミズバショウ」である。これは「オチクラミズバショウ」と呼ばれていて、非常に珍しいものである。
 普通、一般的なミズバショウは苞は1枚である。苞とは花を包んでいる「白い花」のように見える部分である。だが、花は白くはない。黄色い小さな多数の雄しべと数少ない雌しべをつけた「塔柱」のような部分が花である。
 だから、厳密に言えば、「白いミズバショウの花」という表現は間違いなのである。
 名前の由来は、長野県白馬村落倉で最初に発見されたので、その地名を冠してのことらしい。
 白馬村の岩岳から栂池に行く途中に落倉自然園があり、毎年4月~5月に園内で5~10株の苞が2枚のこのミズバショウが見られるそうだ。岩木山でも同様に普通種に混じって、場所によって数株の「オチクラミズバショウ」が見られるのである。


   自転車で…走る・風向きのこと(その9)

 追い風の中を走る。それは、まさに「風に吹かれてどこまでも」である…。
数年前、50代の前半である。弘前から竜飛岬の手前まで行ったことがあった。小泊までは2時間30分で行った。驚異的なスピード、信じられない速さであろう。
 そのことを2、3の人に喋ったが「嘘だろう」という言葉を出さないものの、顔ではそれを示して信じてもらえなかった。このブログの読者もきっとそうだろう。

 信じてくれない人たちの言い分はこうだ。…「自動車でもそれくらいはかかる」である。
 これは自転車に比較した時の自動車の優位性を、あくまでも「文明的な尺度」で「既定の事実」として認めていることでもある。これは、現代人が持つ最大で最高の弱点である。ここには「自然的な尺度」が欠落している。
 「地球温暖化の防止に原子力発電を」という論理もこの「弱点」からの発想や思考である。
 物事は「文明的な尺度」だけでは決して測れるものではない。ここでの「文明」の意味は「人間の技術的・物質的所産」のことである。
 「文明」の対意語を「野蛮」という。私は「文明」をあまり重視しない人間なので「野蛮人」と呼ばれる類かも知れない。そうのように呼ばれても、私はいいと思っている。むしろ、そう呼ばれることがあれば、それは「誇り」でもある。
 「人間の技術的・物質的所産」は人工的な機械というもので象徴される。だから、自転車も「文明の利器」であり、自動車もその点では、同列なのだ。
 だが、決定的な違いは「人の運動エネルギー」で走ることと「化石燃料をエネルギー」として走行することである。その意味からも、自動車の方が「物質的所産」という点では全く「文明の利器」なのである。

 その日は、北海道の北に、強大な「冷たいオホーツク高気圧」が居座っていた。日本海から南東に延びる梅雨前線が関東の南の太平洋上に移動して、まさに「梅雨の晴れ間」の1日だったのである。その高気圧に向かって南から暖かい強風が吹き込んでいた。
 私はその追い風、強い南風に乗って北にむかう渡り鳥のように、自転車で小泊を目指したのである。弘前から藤崎、339号線を北上して五所川原、さらに金木、中里、市浦、相内、小泊までと、ひたすら北を目指すのであった。
 市浦辺りからは起伏のある、つまりアップダウンのある道となるが、それまでは、一定して「平坦」な道が続いている。もちろん、自転車は「軽い」ロードレーサーである。
 追い風は軽くペダルを踏むだけで、その平坦な道を「母衣(ほろ)」を着けた騎馬武者のように駆け抜けさせたのである。
 「風」のエネルギーは「人間の技術的・物質的所産」ではない。文明の力ではない。それは人工的な所産とは対意をなす「自然」である。文明の弱点は「自然の力」を無視するところにある。
 人々は「風」に「脅威」を抱きながらも「畏怖」しながら、長いこと身近な存在、または仲間として位置づけてきた。
 季節風や貿易風を利用しながら、そのエネルギーで帆船を用いて大海原に出かけて、交易し「文化交流」の役割を担ってきた。日本人も歴史に「その航跡」をしっかりと残している。新しい大陸の発見もその延長線にあった。(明日に続く。)