岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

会報「ワルナスビ」の記事の訂正 / 「湯ノ沢」・噴出ガスに注意を…(3)

2008-08-12 04:22:40 | Weblog
■会報「ワルナスビ」の記事の訂正と補足について

 昨日、会員の元弘前大学教授T先生から、会報記載の「岩木山の山麓は今、外来種に…」(ワルナスビが蔓延る環状線の路傍)の記事についての正しい情報を頂いた。何分ど素人の私が正しい理解のないままに書くことなので「間違い」が多い。早速、T先生からの指摘を掲載し、訂正してお詫びをしたい。
 
『…これは学名を「Solanum carolinense」といい、 北米キャロライナ地方のSolanum(ソラナム:安静)が語源である。この属の植物に鎮痛作用を持つものがあることによるらしい。だが、これはれっきとした毒草である。
 実には、ジャガイモの芽毒で知られるソラニン、サポニン「界面活性アルカロイド」、セリンプロテアーゼなどの毒素が含まれている。』という部分の「ソラニン」と「サポニン」についてのご教示をいただいた。
 「ソラニン」は、ジャガイモの皮や芽に含まれる天然毒素で、鮮度が落ちたり、表皮面が緑色に変色した場合に発生する毒素であること。
 「サポニン」は、シャボン(ラテン語)と語源は同じで、水と混ぜて振ると泡立つ性質(起泡性)がある。つる性多年草の「甘茶蔓」にも含まれていて利尿、強壮という薬効作用があること。
 「毒」は薬にもなるということを、それに一方的な思いこみの「素人」考えを、厳しく指摘された。本当に嬉しかったし、有り難かったのである。それは、T先生が何よりも「しっかりと」読んでくれた証でもあったからである。


 ■「湯ノ沢」・噴出ガスに注意を…目に見えない「硫化水素」ガスの噴出している場所での対処はどうあるべきか。(3)

 (今日の写真も、今でも「硫化水素」を噴出している「湯ノ沢」である。これは沢底部両岸に開ける「細かい砂礫」の丘だ。植物は全く生えていない。不毛の砂漠のような風姿であろう。岩木山ではこの場所でしか見ることが出来ない「景色」が広がる。)
(承前)
 東京の14人パーティが、安達太良山・沼ノ平で、登りの時には「硫化水素」ガスを吸わなかったのだが…、
 それでは、下りの時にはどうして「ガス」を吸引したのであろう。
 山に慣れた者は、かなり急な斜面でも前向きと腰高の姿勢で、リズミカルに調子を取りながら、早いスピ-ドで降りることが出来るものだ。
 ところが、慣れない者ほど、滑る、落ちるという恐怖感が先になり、斜面に対して、まっすぐに立てないのである。
 いきおい、前向きで背を低くして腰を引き、尻を斜面につくようにする。体と斜面(沢の底)が接触するほどの状態で降り続けるのである。
 後ろ向きで降りる者は、斜面に腹ばったりぶら下がる状態となるから、前者よりも沈殿している「有毒ガス」の至近距離に口や鼻が位置するのだ。
 つまり、「有毒ガス」の溜っているところに、腹ばったり、しゃがんだり、座ったり、腰を降ろしたりするのである。しかも、降りるスピ-ドは登りに比べると段違いに遅い。当然、その時に「有毒ガス」を吸う。「有毒ガス」吸引の機会は、その場所と回数や時間の長さに比例するのである。
 早く沢を抜け切った3人は「ガス」吸引を免れた。近くの尾根にいた1人が、倒れた3人を救おうとそばに駆け寄り、顔を下向けにしてしゃがみこんだ。
 そして「ガス」を吸って死亡した。尾根の3人と沢の上部にいた4人は、いずれも「高いところ」にいて「ガス」吸引を免れたのである。この事実がなによりも私の推測の裏付けとなっている。
 登山の、もちろん体力を含めての力量という時、それには、必要に応じて「その求められるスピ-ド以上の早さで登り・降りが出来る力」を入れておかねばならないようである。安達太良山の事故は、このことをも教えてくれている。
 この意味からも、中高年登山という場合、その登山の間口と奥行きはかなり厳しく制限を受け、縮小されるものと考えなければいけないだろう。
 中高年登山者には、ゆっくり長時間という持久力はあっても、短時間の激しいアルバイトに耐える体力はない。行動にスピ-ド性もないし、敏捷性もない。身体の柔軟さにも欠けるしバランス感覚も鈍くなっている。若くないのである。これらは紛れもない事実なのだ。よく見かけるゆっくりペ-スの杖付き登山者集団がそれを明らかに物語っている。
 中高年登山者の中には、数十年の登山経験を持ち、岩、雪をこなしオ-ルラウンドに行動し、ヒマラヤをはじめとする海外の7、8000m峰に登ったりした者もいる。彼らはその実績から、正しい判断や対処の仕方は出来るし、気力もある。知識も技術もあり、ル-ト設定にもミスはない。
 しかし、行動に持久力以外のものを求められても、壮年のような力も動きも出てこないのである。だから、時には、彼等もきわめて危険のない場所で滑落をしたり、死亡したりすることがある。
 つまり、経験豊富なベテラン登山者でも、中高年になるとこうなるのである。山を登ることは危険を背負っていることと同義なのだ。
 ましてや、経験も少なく、最近始めたばかりの中高年登山者である。許される登山活動は、その内容において極めて制限されたものになることは当然であろう。
 しかし、それに気づかない中高年登山者は実に多い。そういう登山者は「装備が山を行く」とか「ガイドの先をてくてくと」などと皮肉を言われても意に介さないものだ。
 さて、事後の調べによると、このグループは、沼ノ平が「ガス」の出る場所とは知らなかったというのである。まったくあきれた話しだ。
 山行は事前の調査と計画によってその70%を終えると言われている。その事前調査の中で当然、有毒ガス噴出を理解しておくべきであったし、対処の仕方も想定していなければならなかった。若くはない。スピードがない、敏捷性に欠ける。緊急時なのに早い行動が出来ない。
 だからこそ、それらを補うべく、事前の徹底した学習が求められるのである。「ガス」についての予備知識が少しでもあれば、その危険を喚起する立て看板は必ずや目に入ったであろう。何も知らない者には、「在るもの」ですら見えないのだ。「在る」ことは分かったが気にしなかった、という証言もあるが、これも何も知らないことに等しい。
 しなければいけないことをしないまま、登山という実行動に走る危険性が、現実と化したのである。このような危険性は、最近の中高年登山者に共通している弱点であるとも言える。(この稿は今日で終わる。)