■8月15日を忘れない・「果てなき消耗戦証言記録レイテ決戦」
今日の写真は朝日新聞テレビ案内版の「試写室」NHKスペシャル「果てなき消耗戦・証言記録 レイテ決戦」「誤った戦況判断の末に」に使われていたものである。
このような番組は、本当は「ゴールデンタイム」に放映すべきである。ナレーションの「日本人一人一人が深く考えねば…」などと言っていることが実に白々しく空しい。
NHKテレビは昨日の午後1時5分から10時29分まで、途中ちょっとだけニュース」放映はあったものの、10時間近く「北京オリンピック」漬けである。
その上、「ゴールデンタイム」はNHKも民放もこぞって「北京オリンピック」だ。朝起きるのがいつも速いので、遅くても10時には就寝する私としては「夜10時30分」から始まる番組を見ることは辛い。しかし、「戦後63年も生きながらえてきた者」として、日本人として「見なければいけない」と考え11時30分近くまで、その映像に食い入りながら、証言に耳を傾けた。
この「試写室」を書いているのは、「朝日新聞」の加来由子記者だ。その抜粋を次に載せよう。
「…状況判断を誤るリーダーたちから何かを強制的にやらされることほど悲しいことはない。それが戦争だったらなおさらだ。
フィリピンのレイテ戦。日本軍は、米軍が弱体化しているという誤った戦況判断のもと、ずさんな作戦でこの戦いに臨む。
…不条理なレイテ戦の実態に、背筋が寒くなる。翻って考える。私たちは今、どんなリーダーたちのもとで働き、どんな空気の中をいきているのかと。」
ここには、この「果てなき消耗戦・証言記録 レイテ決戦」という番組の主題がある。その中心は「私たちは今、どんなリーダーたちのもとで働き、どんな空気の中をいきているのか」であろう。
食料等の補給のない日本軍はすべてを「現地調達」という方法をとった。この「現地調達」が日本軍の基本姿勢であった。「現地調達」とは言うものの、その実態は「現地住民からの略奪」である。「略奪」という実態を隠すための贋金同然、紙切れ同然の「軍票」を発行した。
「紙幣」を含めた貨幣というものは、その価値を保証する国家的な存在があってはじめて「意味」を持つものである。資源が乏しい飢えに、戦線の拡大で弱体化した国家…日本の一方面軍の発行する「紙幣(軍票)」に何の価値があろう。
武力で抑え、軍票を発行し極度の「インフレ」を起こして現地住民を苦しめる。自分たちの「蛮行」が漏洩することを恐れて、口封じのために現地住民を殺戮する。フィリピンの多くの人たちには、直接の記憶はないだろうが、「祖父や祖母、父や母、叔父や叔母」から聞いた記憶は、血のつながりのように、「伝聞」されているだろう。日本という国に対する不信と日本人に対する憎悪は消えないだろう。
「北京オリンピック」で中国の人たちの日本選手に対して、ことさら「ブーイング」するというあの行為の根っこにあるものも同じなのではないだろうか。
軍票を発行し極度の「インフレ」を起こしても平然としていることが出来るリーダーと、物価高や収入減、景気後退、インフレ、スタグフレーション(経済活動の停滞・不況と物価の持続的な上昇が共存する状態)などで国民が困窮生活を余儀なくされている「どこかの国のリーダー」とは同質・同レベルだろう。
国のリーダーは「10.000円という貨幣価値を不変する」という義務を負っているのだ。つまり、30年前の「10.000円」も現在の「10.000円」も額面ではなく、実質的に同じ価値しなければいけないという責任があるのだ。つまり、30年前に10.000円で買えたものは今でも10.000円で買えるということだ。30年前に10円で買えたものが今も10円で買えるようにしておくことが、その国のリーダーに課せられた経済的な責務なのである。
「狂乱物価」高の責任を「原油高」や「サブプライムローン」に押しつけているようでは責任逃れといわれてもしようがあるまい。「物価」を抑え、国民が一定の「収入」が得られるようにすることだ。
経済だけではない。国民の安心と安全も当然責任を負わねばならない。ところが今の「日本国」はどうだ。
「年金、ワーキングプア、老人いじめ、犯罪多発、安心霧散、物価高、高税率」など、国民の生活を脅かすことしかやらないのが、現在の「日本国であり国のリーダー(為政者)」ではないか。
一方では、「命令」の下、そのとおりにしか生きられない兵士たちのことだ。…『死にたくない、しかし玉砕の名の下で死なねばならない。』国よりも家族や恋人が大切だ。みんなそう思っているが、その「思い」を押し殺して「死なねばならない」というその根拠は「国のリーダー」が発した命令だ。レイテ決戦はまさにそこにあったのだ。
その「命令」は、色々と形を変えながら、個人に極限状態を強いるものだ。ここで言う個人とは、戦争中の多くの子女婦であり、前戦で「戦う」多くの「兵卒」である。
大多数の者が「人間としての尊厳」を失った時、その先にあるものは、地獄絵図のような「悲惨」でしかない。
だが、「戦争」の時、為政者たちは我が身を安全なところに置いて、飢えとは縁のない生活をしながら、多くの国民に「死ぬ」ことを強要していたのだ。
そのような人たちを二度とリーダーとして選んではいけない。
戦後、63年が経った。憲法第九条は、日本周辺の国の国民に安心を伝えるメッセージであり、私たち日本国民の心からの「反省と悔い改める行為」の証である。
今日の写真は朝日新聞テレビ案内版の「試写室」NHKスペシャル「果てなき消耗戦・証言記録 レイテ決戦」「誤った戦況判断の末に」に使われていたものである。
このような番組は、本当は「ゴールデンタイム」に放映すべきである。ナレーションの「日本人一人一人が深く考えねば…」などと言っていることが実に白々しく空しい。
NHKテレビは昨日の午後1時5分から10時29分まで、途中ちょっとだけニュース」放映はあったものの、10時間近く「北京オリンピック」漬けである。
その上、「ゴールデンタイム」はNHKも民放もこぞって「北京オリンピック」だ。朝起きるのがいつも速いので、遅くても10時には就寝する私としては「夜10時30分」から始まる番組を見ることは辛い。しかし、「戦後63年も生きながらえてきた者」として、日本人として「見なければいけない」と考え11時30分近くまで、その映像に食い入りながら、証言に耳を傾けた。
この「試写室」を書いているのは、「朝日新聞」の加来由子記者だ。その抜粋を次に載せよう。
「…状況判断を誤るリーダーたちから何かを強制的にやらされることほど悲しいことはない。それが戦争だったらなおさらだ。
フィリピンのレイテ戦。日本軍は、米軍が弱体化しているという誤った戦況判断のもと、ずさんな作戦でこの戦いに臨む。
…不条理なレイテ戦の実態に、背筋が寒くなる。翻って考える。私たちは今、どんなリーダーたちのもとで働き、どんな空気の中をいきているのかと。」
ここには、この「果てなき消耗戦・証言記録 レイテ決戦」という番組の主題がある。その中心は「私たちは今、どんなリーダーたちのもとで働き、どんな空気の中をいきているのか」であろう。
食料等の補給のない日本軍はすべてを「現地調達」という方法をとった。この「現地調達」が日本軍の基本姿勢であった。「現地調達」とは言うものの、その実態は「現地住民からの略奪」である。「略奪」という実態を隠すための贋金同然、紙切れ同然の「軍票」を発行した。
「紙幣」を含めた貨幣というものは、その価値を保証する国家的な存在があってはじめて「意味」を持つものである。資源が乏しい飢えに、戦線の拡大で弱体化した国家…日本の一方面軍の発行する「紙幣(軍票)」に何の価値があろう。
武力で抑え、軍票を発行し極度の「インフレ」を起こして現地住民を苦しめる。自分たちの「蛮行」が漏洩することを恐れて、口封じのために現地住民を殺戮する。フィリピンの多くの人たちには、直接の記憶はないだろうが、「祖父や祖母、父や母、叔父や叔母」から聞いた記憶は、血のつながりのように、「伝聞」されているだろう。日本という国に対する不信と日本人に対する憎悪は消えないだろう。
「北京オリンピック」で中国の人たちの日本選手に対して、ことさら「ブーイング」するというあの行為の根っこにあるものも同じなのではないだろうか。
軍票を発行し極度の「インフレ」を起こしても平然としていることが出来るリーダーと、物価高や収入減、景気後退、インフレ、スタグフレーション(経済活動の停滞・不況と物価の持続的な上昇が共存する状態)などで国民が困窮生活を余儀なくされている「どこかの国のリーダー」とは同質・同レベルだろう。
国のリーダーは「10.000円という貨幣価値を不変する」という義務を負っているのだ。つまり、30年前の「10.000円」も現在の「10.000円」も額面ではなく、実質的に同じ価値しなければいけないという責任があるのだ。つまり、30年前に10.000円で買えたものは今でも10.000円で買えるということだ。30年前に10円で買えたものが今も10円で買えるようにしておくことが、その国のリーダーに課せられた経済的な責務なのである。
「狂乱物価」高の責任を「原油高」や「サブプライムローン」に押しつけているようでは責任逃れといわれてもしようがあるまい。「物価」を抑え、国民が一定の「収入」が得られるようにすることだ。
経済だけではない。国民の安心と安全も当然責任を負わねばならない。ところが今の「日本国」はどうだ。
「年金、ワーキングプア、老人いじめ、犯罪多発、安心霧散、物価高、高税率」など、国民の生活を脅かすことしかやらないのが、現在の「日本国であり国のリーダー(為政者)」ではないか。
一方では、「命令」の下、そのとおりにしか生きられない兵士たちのことだ。…『死にたくない、しかし玉砕の名の下で死なねばならない。』国よりも家族や恋人が大切だ。みんなそう思っているが、その「思い」を押し殺して「死なねばならない」というその根拠は「国のリーダー」が発した命令だ。レイテ決戦はまさにそこにあったのだ。
その「命令」は、色々と形を変えながら、個人に極限状態を強いるものだ。ここで言う個人とは、戦争中の多くの子女婦であり、前戦で「戦う」多くの「兵卒」である。
大多数の者が「人間としての尊厳」を失った時、その先にあるものは、地獄絵図のような「悲惨」でしかない。
だが、「戦争」の時、為政者たちは我が身を安全なところに置いて、飢えとは縁のない生活をしながら、多くの国民に「死ぬ」ことを強要していたのだ。
そのような人たちを二度とリーダーとして選んではいけない。
戦後、63年が経った。憲法第九条は、日本周辺の国の国民に安心を伝えるメッセージであり、私たち日本国民の心からの「反省と悔い改める行為」の証である。