(今日の写真どこだろう。どこで写したものだろう。ある年の秋である。真夏だとこの辺りまで来ると「ほっと」する。冷たい水が待っているからである。
標高は1300mを越えている。緑は「ミヤマハンノキ」と「チシマザサ」である。岩の間に、所々淡い緑が見えるが、これは「ヤマハハコ」である。
黄色は「ミネカエデ」や「ホザキカエデ」であり、赤く色づいているものは「ナナカマド」だ。その上の黒い部分は岩稜である。褐葉しているものはダケカンバだろう。
左側の斜面は「鳥海山」の左岸だ。岩の間にはイネ科のノガリヤスも見えている。だが、まだ草紅葉にはなっていない。
ここは、大沢の上部、「錫杖清水」の近くである。沢の左岸に「清水」はある。いくら冷涼な秋のお天気といっても、ここまでの登りはきつい。汗びっしょりだ。体が「水」を求める。
湧水を手で受け止める。夏の「冷たさ」はない。口に含んでも同じだ。外気温が下がっているのだ。水温よりも「気温」が低いので、その分「温い暖かさ」を触感が教えてくれているのだ。
のんびりしてはいられない。秋の日は「釣瓶落し」のように暮れる。出来るならば、午前中のうちに、或いは午後1時前には、山頂を踏んで下山しなければいけない。
登山口には3時前後には着きたいものだ。ある年の10月中旬、百沢登山道を登り、ピストンで下山した時のことである。)
◇◇気象庁、マスコミ、自治体だけが「台風」なみに大風吹かせた「台風18号」◇◇
マスコミや自治体の煽りだけが「最強級、最大級」の台風、それが「台風18号」であった。キャプションをつけると「マスコミと自治体が超弩級に煽った台風18号」としてもいいのではないだろうか。
とにかく、「マスコミ」の騒ぎ方が異常であり、異様であった。特にテレビは、定期番組をほぼキャンセルして「台風報道」にあてていた。だが、そこで報じられる映像も言語情報もウオッチしている者が真に求める事柄とは言い難いものだけだった。
NHKも民放も、どのチャンネルを選んでも皆同じだ。荒れ狂う大波の実況放送が「台風報道」に、どれほどの意義と意味を持つものであろうか。びしょ濡れになりながら「マイク」を握って喋っているアナウンサーが気の毒に思えていたが、何回も同じ「場面」を見せられているうちに、何だかアホくさくなり、申し訳ないけど、そのアナウンサーやキャスターがピエロに見えてきたものだ。
このような「大騒ぎ」を後押ししたのが「気象庁」の「台風18号」を「伊勢湾台風」並みとした情報である。気象庁の「名誉(?)」のために、言い換えると、その情報を真に受けて、あるいは勝手に踊ったマスコミ、自治体としてもいいのだ。
だが、やはり、「気象庁」の曖昧な情報と、それを訂正しながら、詳しい情報を「そのまま」国民に発信しようとしない姿勢は、批判や非難されても仕方がないだろう。
伊勢湾台風とは1959(昭和34)年9月26日に潮岬に上陸し、紀伊半島や東海地方に大きな被害を及ぼした台風15号である。
最低気圧は895 hPa、最大風速は75 m/sと記録されている。非常に大きな台風で、強風域は、およそ2500kmに及び、暴風域も非常に広く、北日本と西日本の一部を除いて、ほぼ、全国的に最大風速20m以上を記録したそうである。特に高潮による被害が多く、死者は4.697名、行方不明者401名、負傷者38.921名に達したとされている。
今回の「台風18号」も大型で強いものだったが、その強風域は大体、日本列島の半分程度であった。およそ1000kmとしていいだろう。暴風域も根室の沖に達した時点でも上陸時の大きさと違いはなかった。(明日に続く)
◇◇またまた残虐、車で轢いて、その上で「クマ」射殺・深浦(最終回)◇◇
(承前)
また、「農道」のある場所、つまり、農作業のために人が歩くだろう、自動車が走るだろう…では、当然「銃の発射」は規制されているはずだ。
「クマ」が人間社会に近づいてきたのではない。人間の方が「クマの棲む社会」に無頓着に、入り込んでいるのだ。言ってみるといい迷惑な方は「クマ」である。クマは自動車事故の被害者だけではなく「人間の種々な圧力」に逃げ惑う被害者なのだ。
「フロントガラス」が割れずに「運転」が出来ているならば、「24歳の男性」は何の躊躇もなく「轢いて撥ねた」クマを置き去りにして、走り去っただろう。「轢き逃げ」行為である。
もしも、この農道を夜に走行したら「クマ」と衝突するかも知れないと思いながら「走行」していたとすれば、そして、そう思いながらも「減速」「徐行」をしないで走行していたならば、それは「未必の故意」という立派な犯罪的要因を持っていることになる。
自分を相手に置き換えて考えること、そして、それを行動の基準にしない限り、「共生や共存」という思想や世界は「画餅」に過ぎない。
「24歳の男性」よ、「60歳の県猟友会支部員の男性」よ、それに、彼らを取り巻く家人や地域社会が「クマ」を自分に置き換えて捉えない限り、この事件は「あなた方の家に自動車が飛び込んで来て、家人が死亡した」ことと同じなのである。
マスコミも「この点」、つまり、「生物の多様性」という視点での啓蒙に、一翼を担うべき時期に来ていると思うがどうだろう。
最後に疑問がある。「24歳の男性」はお咎めなしの起訴もなしなのか。それでは、「クマ」は殺され損に過ぎないではないか。「スピードの出し過ぎ」、「安全運転義務違反」などは最低でも求めるべきではないだろうか。
「24歳の男性」に「クマ」を含めた多くの生き物に対する謝罪の気持ちがないのならば、なおさらである。
自動車は、その通行中に多くの「昆虫」や「両生類」、「小ほ乳類」、「小鳥」や「犬、猫」などを撥ねて、轢き殺しているのである。運転者にはその痛みを「触感」として捕らえるすべを持っていない。だから、「痛み」を実感出来ない。「犬や猫」でも、そのままにして立ち去る。轢き逃げだ。それゆえに、謝罪もない。
撥ねられて轢き殺される生き物たちは「ものを言えない」。「クマ」も同じだ。
法制上、代理人として訴訟が可能ならば、私が訴えたい気持ちだ。
だが無理だ。法律は「人間社会限定」のものだ。賢い人間が編み出した法律も結局のところ「人間の都合」が第一義なのだ。 (この稿は今回で終わりとなる)
[連続1000回ブログ書き達成まであと、26回・連続1000日達成まではあと、35日]
標高は1300mを越えている。緑は「ミヤマハンノキ」と「チシマザサ」である。岩の間に、所々淡い緑が見えるが、これは「ヤマハハコ」である。
黄色は「ミネカエデ」や「ホザキカエデ」であり、赤く色づいているものは「ナナカマド」だ。その上の黒い部分は岩稜である。褐葉しているものはダケカンバだろう。
左側の斜面は「鳥海山」の左岸だ。岩の間にはイネ科のノガリヤスも見えている。だが、まだ草紅葉にはなっていない。
ここは、大沢の上部、「錫杖清水」の近くである。沢の左岸に「清水」はある。いくら冷涼な秋のお天気といっても、ここまでの登りはきつい。汗びっしょりだ。体が「水」を求める。
湧水を手で受け止める。夏の「冷たさ」はない。口に含んでも同じだ。外気温が下がっているのだ。水温よりも「気温」が低いので、その分「温い暖かさ」を触感が教えてくれているのだ。
のんびりしてはいられない。秋の日は「釣瓶落し」のように暮れる。出来るならば、午前中のうちに、或いは午後1時前には、山頂を踏んで下山しなければいけない。
登山口には3時前後には着きたいものだ。ある年の10月中旬、百沢登山道を登り、ピストンで下山した時のことである。)
◇◇気象庁、マスコミ、自治体だけが「台風」なみに大風吹かせた「台風18号」◇◇
マスコミや自治体の煽りだけが「最強級、最大級」の台風、それが「台風18号」であった。キャプションをつけると「マスコミと自治体が超弩級に煽った台風18号」としてもいいのではないだろうか。
とにかく、「マスコミ」の騒ぎ方が異常であり、異様であった。特にテレビは、定期番組をほぼキャンセルして「台風報道」にあてていた。だが、そこで報じられる映像も言語情報もウオッチしている者が真に求める事柄とは言い難いものだけだった。
NHKも民放も、どのチャンネルを選んでも皆同じだ。荒れ狂う大波の実況放送が「台風報道」に、どれほどの意義と意味を持つものであろうか。びしょ濡れになりながら「マイク」を握って喋っているアナウンサーが気の毒に思えていたが、何回も同じ「場面」を見せられているうちに、何だかアホくさくなり、申し訳ないけど、そのアナウンサーやキャスターがピエロに見えてきたものだ。
このような「大騒ぎ」を後押ししたのが「気象庁」の「台風18号」を「伊勢湾台風」並みとした情報である。気象庁の「名誉(?)」のために、言い換えると、その情報を真に受けて、あるいは勝手に踊ったマスコミ、自治体としてもいいのだ。
だが、やはり、「気象庁」の曖昧な情報と、それを訂正しながら、詳しい情報を「そのまま」国民に発信しようとしない姿勢は、批判や非難されても仕方がないだろう。
伊勢湾台風とは1959(昭和34)年9月26日に潮岬に上陸し、紀伊半島や東海地方に大きな被害を及ぼした台風15号である。
最低気圧は895 hPa、最大風速は75 m/sと記録されている。非常に大きな台風で、強風域は、およそ2500kmに及び、暴風域も非常に広く、北日本と西日本の一部を除いて、ほぼ、全国的に最大風速20m以上を記録したそうである。特に高潮による被害が多く、死者は4.697名、行方不明者401名、負傷者38.921名に達したとされている。
今回の「台風18号」も大型で強いものだったが、その強風域は大体、日本列島の半分程度であった。およそ1000kmとしていいだろう。暴風域も根室の沖に達した時点でも上陸時の大きさと違いはなかった。(明日に続く)
◇◇またまた残虐、車で轢いて、その上で「クマ」射殺・深浦(最終回)◇◇
(承前)
また、「農道」のある場所、つまり、農作業のために人が歩くだろう、自動車が走るだろう…では、当然「銃の発射」は規制されているはずだ。
「クマ」が人間社会に近づいてきたのではない。人間の方が「クマの棲む社会」に無頓着に、入り込んでいるのだ。言ってみるといい迷惑な方は「クマ」である。クマは自動車事故の被害者だけではなく「人間の種々な圧力」に逃げ惑う被害者なのだ。
「フロントガラス」が割れずに「運転」が出来ているならば、「24歳の男性」は何の躊躇もなく「轢いて撥ねた」クマを置き去りにして、走り去っただろう。「轢き逃げ」行為である。
もしも、この農道を夜に走行したら「クマ」と衝突するかも知れないと思いながら「走行」していたとすれば、そして、そう思いながらも「減速」「徐行」をしないで走行していたならば、それは「未必の故意」という立派な犯罪的要因を持っていることになる。
自分を相手に置き換えて考えること、そして、それを行動の基準にしない限り、「共生や共存」という思想や世界は「画餅」に過ぎない。
「24歳の男性」よ、「60歳の県猟友会支部員の男性」よ、それに、彼らを取り巻く家人や地域社会が「クマ」を自分に置き換えて捉えない限り、この事件は「あなた方の家に自動車が飛び込んで来て、家人が死亡した」ことと同じなのである。
マスコミも「この点」、つまり、「生物の多様性」という視点での啓蒙に、一翼を担うべき時期に来ていると思うがどうだろう。
最後に疑問がある。「24歳の男性」はお咎めなしの起訴もなしなのか。それでは、「クマ」は殺され損に過ぎないではないか。「スピードの出し過ぎ」、「安全運転義務違反」などは最低でも求めるべきではないだろうか。
「24歳の男性」に「クマ」を含めた多くの生き物に対する謝罪の気持ちがないのならば、なおさらである。
自動車は、その通行中に多くの「昆虫」や「両生類」、「小ほ乳類」、「小鳥」や「犬、猫」などを撥ねて、轢き殺しているのである。運転者にはその痛みを「触感」として捕らえるすべを持っていない。だから、「痛み」を実感出来ない。「犬や猫」でも、そのままにして立ち去る。轢き逃げだ。それゆえに、謝罪もない。
撥ねられて轢き殺される生き物たちは「ものを言えない」。「クマ」も同じだ。
法制上、代理人として訴訟が可能ならば、私が訴えたい気持ちだ。
だが無理だ。法律は「人間社会限定」のものだ。賢い人間が編み出した法律も結局のところ「人間の都合」が第一義なのだ。 (この稿は今回で終わりとなる)
[連続1000回ブログ書き達成まであと、26回・連続1000日達成まではあと、35日]