岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

紅葉の植物的なメカニズム / 岩木山・映える錦秋…(その8)

2009-10-07 05:19:24 | Weblog
 (今日の写真は、早々と紅く染まったウルシ科ウルシ属の落葉樹「ウルシ(漆)」である。見た目には低くて小さいので、「ツタウルシ(蔦漆)」に見えないこともないが、これは正真正銘の「ヤマウルシ(キウルシ)」だ。
これにかぶれるとひどい目に遭うが、秋早くから「紅葉」してくれるので、四季を彩り、それを知らせてくれる使者としての役割を十分果たしてくれる「樹木」でもある。)

◇◇ 紅葉の植物的なメカニズム ◇◇ 

 ところで、なぜ、樹木の葉は「紅葉」するのだろう。「紅葉」するのは「落葉樹」だ。青森県を含む東北地方の広葉樹は落葉するものが多い。針葉樹でも「カラマツ」は黄葉して落葉する。
「紅葉」というが、山や森の中には「紅くなる葉」と「黄色くなる葉」、それに「黄褐色になる葉」がある。
がある。
ヤマモミジをはじめ、ナナカマド、などさまざまな木の葉が鮮やかな赤色になるが、それは、「アントシアン」と呼ばれる紅い色素が葉の中で造られるからだ。
 また、黄色くなるのは、夏の間緑色の下にもともとあった「カロチノイド」という黄色の色素が表に出てくるからである。

 秋になると、「日射し」が弱くなる。そうなると、「光合成」がうまく機能しないで、得られる栄養分も少なくなる。「光合成」は葉の「葉緑体」で行われるが、「光合成」が造り出す栄養「エネルギー」が葉を維持するためのエネルギーよりも少なくなると、「葉」は自分を支えることが出来なくなり、「落ち葉」となるのである。
 ところが、樹木は「葉を落とす前」に、葉の中の養分として再利用出来る物質(栄養素)を回収するのだ。そして、落葉が始まり、回収した栄養素物質は、次の春に葉を出すためのエネルギーとして使われるのである。葉が「紅くなったり」「黄色になったり」するのは、この機能と深く関係がある。

 日射しが弱くなると、「光合成」を行う葉緑体と葉緑体内の緑色の色素(クロロフィル)も分解される。
 ところが、分解される過程で、植物にとって有害な物質とされる「活性酸素」を造り出して、植物の組織を破壊してしまうのである。
 「クロロフィル」は、青色の光を吸収して「活性酸素」を造り、「光酸化障害」といわれる植物の細胞組織を破壊していくのだ。この「青色の光」を遮断することさえ出来れば、「活性酸素」の生産を阻止することが出来る。葉たちは必死になって「青色の光」を遮断しようと頑張るのだ。
 そして、「青色の光」をよく吸収する「赤い色の色素(アントシアニン)」や「黄色の色素(カロチノイド)」を産み出すのである。
つまり、赤とか黄色のベールで葉の中をすっかり覆いつくしてしまい、葉は紅や黄色の世界に変身する。これで、「青い光」を受けなくなり、「活性酸素」も造られず、次の春に葉を出すための養分を十分に取り込み、蓄えることが出来ることになるのである。

紅葉は美しい。だが、それは樹木にとっては「必死になって新しい葉造りの準備」をしていることでもある。植物も動物も「必死になって生きている」ものは、すべて美しいのではないだろうか。
 紅葉は昼夜の温度差が大きいほど、つまり、夜の冷え込みが大きいほど、美しく色づく。
 最後に、岩木山で主に見られる「紅葉する」樹木をあげておく。

[紅葉]する落葉樹: ガマズミ、ハウチワカエデ、コマユミ、ミネカエデ、スノキ、ツタウルシ、ヌルデ、ムシカリ、ヤマウルシ、オオヤマザクラ、ナナカマド、ニシキギ、マユミ、リョウブ、ヤマツツジ、ヤマモミジなど

[黄葉]する落葉樹: アブラチャン、イタヤカエデ、ウワミズザクラ、エゴノキ、カツラ、カラマツ、クロモジ、コシアブラ、マンサク、ヤマナラシ、ノリウツギ、ツルウメモドキ、オオバクロモジ、ハクウンボクなど

[黄褐色]の葉になる落葉樹: クリ、カシワ、ミズナラ、コナラ、ツノハシバミ、ブナなど)

◇◇ 岩木山・映える錦秋…(その8)「お山参詣」の様変わり◇◇ 

…「お山参詣」の真の目的は「ご来光遙拝」ではない。私にとって「通過儀礼」とは…(7)
(承前)
…人生とは「自分探しの旅」である。私は岩木山との関わりの中に自分を見いだそうとしていたのかも知れない。
 「自分探し」や「自分の見いだし方」は多様である。人は他者を通して、他者の中に自分を発見する。私の場合は岩木山も、この他者の一人であったのだ。
 人は、名誉や地位や出世や富みを手に入れるために「他」と戦っている。私は弱い。他と戦うにはあまりにも非力だ。
 私は精進などというものからほど遠い人間だ。無節操で、野蛮で、薄情で、その上、軽薄で単純な人間だ。私は「開け放しと評するのが適当なくらいに無用心」である人間であると思っている。
 私はいつも、かなりの年少時からであるが、他人の前に自分を曝(さら)け出して生きてきたように思える。正直に生きることが、何故か一番楽だったからであり、開けっ放しで生きることがとても潔(いさぎよ)く強い感じがしたからだ。
 無きに近い手の内は、常に他に見透(みす)かされ、掌握されてきた。私のこれまでの人生には「策略」らしいものは殆どなかったはずだ。
 だから、「他」との勝負は、する前から決まっていた。勝負にならなかった。私にとって、他人との戦いは自分が弱過ぎるがゆえに、意味をなさないものだった。
 だが、私は弱いにもかかわらず、「男」として戦いを好むのだ。相手は自分だ。

 私は長いこと「自分」に戦いを挑(いど)んできた。この戦いには策略は必要がなかった。素直に「自分」の力を出せばそれでよかった。そのひとつが、岩木山に月に3回以上は登ることであり(最近はこれも出来ないが)、その積み重ねが数十年に渡る年末年始の登山でもあった。
 岩木山は、その戦いの場を色々な形で提供してくれた。戦いの場である岩木山は、「自分」と戦うどんな人に対しても、いつも同じであると私には思える。安心して私は登っている。岩木山の心は広くて深い。誰をも一視同仁としてとらえてくれるはずだ。(明日に続く)

・またまた残虐、車で轢いて、その上で「クマ」射殺・深浦・は、字数制限により今日も休載します。

[連続1000回ブログ書き達成まであと、30回・連続1000日達成まではあと、39日]