岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

岩木山・映える錦秋…(その5) / またまた残虐、車で轢いて、その上で「クマ」射殺・深浦(8)

2009-10-04 05:09:39 | Weblog
 (今日の写真は、10月下旬の岩木山だ。錦秋は色あせて、木々の葉は褐色に変わり、「落ち葉」になる前に静かに陽を浴びている。緑なすものは根曲がり竹と山頂近くの「ハイマツ」だけである。厳密に言うと、他のツツジ科の常緑低木も混じるが、ここからは見えないので、そういってもいいだろう。
 ここは、百沢スキー場の上部である。百沢スキー場の上部には「ジグザグ」に「道」が続いていて、それはその上部のブナ林の中へと入っている。「ジグザグ」道はスキー場を造る時に「開鑿」した、いわば「新しい道」だ。新しいといっても、現在ではほぼ歩けないほどの藪に覆われている。だが、「ブナ林」の中の道は、雪解け間もない下草の生えていない時季には、それを辿って大沢に出ることが出来る。
 この「踏み跡道」は「旧い登山道」なのである。この「」に入ると山頂はまったく見えなくなる。右正面に見えるのが、後長根沢の源頭、「オオマブ」だ。ほぼ垂直の岩の崖である。左正面が「大沢」であり、鳥海山の中腹に見える「白い」部分がブナ林の梢だ。葉を落としたブナの梢は「白く」輝く。そして、春になると「赤く」輝く。
 左手前には「ススキ」が見える。開鑿された道は「荒地」でしかない。「ススキ」は荒地に先ず生える遷移植物だ。ススキが影を潜めると「陽樹」が生えてきて「森」作りが始まるのだ。
 ススキは草の中では、高さが2mに達する大型のものだ。日当たりのいい山野や荒地に自生する。別名では「袖振草」などとも呼ばれるが、それは見た目の話しだろう。そんな「なまやさしいもの」ではない。細長い葉は刃物のように鋭く、触れると指を切る。
 昨晩は「仲秋の名月」、十五夜だった。一昨日、「十五夜」の御供え用にと「ススキ」を採りに行った。自転車では10分もかからない「加藤川」の川縁である。
 そこで、山では「軍手」を外すことがないのに、不注意にも素手で葉を握ったところ、左手親指の裏側を切ってしまった。
 昨晩の「十五夜」はほぼ天中で輝き、天中に近い真上をとおって「岩木山の西」に沈んだ。今朝5時過ぎに、外に出て「お月様」はどこだろうと探したところ、昨晩10時に見た「白い」月は、赤みを帯びた「橙色」に輝きながら、大きさを増して、まさに「岩木山」の「端(は)」に沈もうとしていたのだ。)

◇◇ 岩木山・映える錦秋…(その5)「お山参詣」の様変わり◇◇ 

      …「お山参詣」の真の目的は「ご来光遙拝」ではない(4)…
(承前)

 …山麓の「登山口」から登らなくなった「お山参詣」は形骸化してしまった。そして、目的化してしまったのだ。
 「お山参詣」に託されていた3つの「目的」、つまり、「成人男子になるための通過儀礼」、「五穀豊穣への祈り」、「ご先祖様への感謝と労り」は山麓登山口から登ることで、その実態を持ち続けてきたのである。その「登山口から登る」というプロセスが省かれてしまった「お山参詣」は実体を失って、この「ご来光」を拝むという行為だけが「目的化」してきたのである。
 そして、それが「観光客」や一般市民の意向とマッチしたのである。一方では「農家」の減少による真の意味で「お山参詣」を支える人々の減少ということもある。それよりも何よりも、戦後60余年、日本という国を「包み込んでしまったアメリカ的な機械文明」と「アメリカ的な文化」が「日本人が受け継いできた自然信仰とその文化」をなし崩しにしてきたことに問題があるのである。津軽の多くの農民から「岩木山への畏敬」は次第に消え去りつつあるのだ。
 だからこそ、「岩木山への畏敬」を取り戻し、真の「お山参詣」として参加して貰うことが大事だろう。
 あえて、地元の「マスコミ」に、形骸化した「お山参詣」を「ご来光を拝む」という抽象化で捉えることなく「お山参詣」の目的にそった側面から、人々に問い直すような記事を書き、映像で迫るべきではないかと言いたい。

 私は50年近く、岩木山と関わり、「春夏秋冬」と登り続けているが、お山参詣の前日の晩から登り始めて、いわゆる「朔日山」の早朝に、山頂に立ったことは、これまでたった1回だけである。(明日に続く)

◇◇またまた残虐、車で轢いて、その上で「クマ」射殺・深浦(8)◇◇
(承前)

 記事には…「この男性は、散弾銃の所持許可を持っているが、鳥獣保護法では、日没後の夜間に銃でクマなどを撃つことは禁じられている。同署は、同法違反の疑いもあるとみて事情を聴いている」とある。
…だが、「ハンターなど、銃を持っている者が、警察を無視して、銃で勝手に処理をする」ことについての論評はまったくない。私だったら、「このこと」を問題にしたいところだ。
 記事では「日没後の夜間に銃でクマなどを撃つことを禁じている」鳥獣保護法違反であることに「論評」の中心を置いている。
 そのようなことよりも、「24歳の男性」がとった一連の行動と、「県猟友会支部員の男性」の射殺という行為が、「自然に生きる動物」と「人間社会」との接点でどのような意味と問題を含んでいるのか、つまり、「生物の多様性」という視点でのとらえ方で書いて欲しかった。
 もう一つは、この「24歳の男性」と「県猟友会支部員の男性」の人間性の問題だ。あらゆる事件、あらゆる犯罪というものには、当事者の人間性が深く関わっているものだ。
 「轢かれ、撥ねられ射殺された」ものが「人間」でなく、「獣・クマ」だから相対的に「加害者」の人間性とその行為を「問わない」とするならば、それこそ「人間の勝手な論理」である。「命を持つもの」という視点では「クマ」も「人間」も絶対的な存在なのである。
 クマには「クマ性」を、人には「人間性」をしっかり求めるべきなのである。私は「轢かれ撥ねられたのが『クマ』でなく、『人』だったら、この『24歳の男性』はどうしただろうか。また、『県猟友会支部員の男性』はどうしただろうか」という視点で、もう少し考えてみたい。(明日に続く)  

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