たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『Anne of Green Gables』より_Morning at Green Gables

2020年05月20日 12時15分49秒 | 『赤毛のアン』
"It,s time you were Dressed," she(Marilla) said curtly.

Marilla really did not know how to talk to the child,and her uncomfortable ignorance made her crisp and curt

when she did not mean to be.

Anne stood up and drew a long breath.

"Oh,isn,t it wonderful?" she said,waving her hand comprehensively at the good word outside.

"It,s a big tree ," said Marilla,”and it blooms great ,but the fruit don,t amount to much never--small and wormy."

"Oh,I don,t mean just the tree;of course it,s lovely --yes ,it,s radiantly lovely--it blooms as if it meant it--but I

meant everying.the garden and the orchard and the brook and the woods,the whole big dear world.

Don,t you feel as if you just loved the world on a morning like this?

『Anne of Green Gables』より_第25章Matther insists of Puffed Sleeves

2020年05月20日 02時12分41秒 | 『赤毛のアン』
 Anne took the dress and looked at it in reverent silence.

Oh,how pretty it was-a loverly soft brown gloria with all the gloss of silk;a skirt with dainty frills and

shirrings;a waist alaborately pintucked in the most fashionable way,

with a little ruffle of filmy lace and the neck.

But the sleeves -they were the crowning glory!

Long elbow cuffs and above them two beautiful puffs divided by rows of shirring and bows of brown silk

ribbon.

"That,s a Christmas present for you,Anne," said Matthew shyly.

Why-why-Anne,don,t you like it? Well now-well now."

For Anne,s eyes had suddenly filled with tears.

"Like it! Oh,Matthew!" Anne laid the dress over a chair and clasped her hands.

"Matthew.it,s perfectly exquisite. Oh,I can never thank you enough.

Look at those sleeves!

Oh,it seems to me this must be a happy dream."

「アンは服を受けとると、感激に打たれたように無口になって、じっと見つめた。ああ、なんてきれいなんだろう。茶色のグロリア地は絹の光沢に光り、とてもしなやかだ。スカートは、優美なフリルとシャーリングで飾られ、銅には、手のこんだピンタックが最新流行の縫い方でよせてあり、衿ぐりには、薄いレースの小さなラッフルがついている。しかし何と言っても、この袖、袖がいちばんすばらしい!
袖口から肘まで長いカフスが続き、その上に、二段の大きなパフスリーブがついているのだ。二つのふくらみとふくらみの間は、シャーリングで縫いしぼり、そこに茶色の絹のリボンが蝶々結びにしてあった。
「アン、クリスマス・プレゼントだよ」マシューは恥ずかしそうに言った。「おや、どうした、アン、気に入らないのかい、ほれ、どうしたね」
 というのも、アンの目は、見る見る間に涙でいっぱいになったのだ。
「とても気に入ったわ! ああ、マシュー!」アンは椅子に服をかけると、両手を握りあわせた。「マシュー、完璧に優雅だわ。ああ、どんなにお礼を言っても言いたりないわ。それに、この袖!ああ、幸せで夢をみているみたい」

(『3カ月トピック英会話ー『赤毛のアン』への旅』2008年テキストより)













苦悩していた日々を思い出す_実習記録ノートより(15)

2020年05月19日 19時47分03秒 | 祈り
「平成18年11月29日(水)晴 12日目

12日間をやり通した。途中、風邪をひくなどしたのでかなりきつかったが、最大の課題であった仕事との両立をこなすことができた。自分に拍手を送りたいと思う。すでに4日が過ぎようとしている。(12/3現在) フリースペースのゆるやかな時間がなつかしく思い出される。最後の一日は気負いもなく、楽しく過ごした。

常連のIさん、「がんばったね」と笑顔で言ってくれた。Hさんは、私がこじんまりとひっそり生きているようにみえるそうだ。細く長く・・・。そうだなあ、あたっているかもしれない。Oさんは年齢の近いことがわかってか、気さくに話しかけてくれる。障害者手帳を見せてくれた。2級とある。そうなんだ。病気と障害をもっているんだ。だが、その前に、Oさんは固有の人格をもった人である。私はOさんと話した。今度食事に行こうよと誘ってくれたが、普段は東京で仕事をしているのでFには来れないこと、国家試験が終わったら、〇〇〇〇に遊びに来たいと思っていることを伝えた。そして「ありがとう」も。
Kさんは、風邪をひいていたようでしばらく顔を見なかった。定期券を買って市外から来ている常連さんだ。20代後半。家を出てくる時、「あなたはゆっくりできていいわねと母親に言われちゃったよ」と話す。彼の疾患名は知らない。病気であることが問題ではなく、病気によって生じる生活のしづらさが問題であるとは、そういうことなのだ。そういうことに焦点をあてていくのがPSWの役割だ。最近買ったらしいCDウォークマンをきかせてくれた。嬉しそうだ。
Nさんは昨晩眠れなかったと、ソファから立ち上がるのがつらそうだ。休憩から戻って来た時には、姿が見えなかったので帰ることができたのだろう。KさんとNさんにはありがとうを言うタイミングを逸してしまったのが少し残念だ。
Tさん、女性。20代後半。週4日、働いているようだ。
「幻聴がきこえてしまった」と他の利用者さんに話しているのを耳にする。にこやかだ。とてもパワーを感じる。彼女は今仕事に行くことができている。それはとても大切なことにちがいない。

私は実習をスタートする時、利用者さん達を受け入れなければ・・・、お話をきいてあげなければ・・・と思いこんでいた。だが全く逆だった。私が受け入れられたし、パワーをもらった。人が生きるエネルギーを利用者さん達は私に伝えてくれた。オブラートに包まれていない素の人ってこんなにすごいエネルギーをもっているんだ。
Nさん、女性、初来所。思い切って声をかけてみた。うつであること、旦那さんは理解があること、家で一人いるとつらいこと、短期的に仕事をしていることなど話してくれた。がんばって生きているんだなあ。〇〇〇〇に来ようと思って、一歩踏み出した。私は彼女の話を聴くことができていただろうか。私と話している時、彼女はほんの少しでも心地いい感じになっていただろうか。そうであればいいが・・・。

12日間は終わってみれば、長くもあったが短くもあった。
たくさんのことをおしえてもらったし、考えさせられた。
人間と関わっていくことにこれが正しい、まちがっているという絶対的なものなどない。その深さを少しではあるが肌で感じることができた。
これから自分がどう関わっていくかということはまだみえてこない。作業所や他の生活支援センターなどもみてみたいと思う。〇〇〇〇のスタッフさんやボラさんともっともっと色々話したいと思う。
〇〇〇〇で学んだことを生かして、専門的な視点をみがいていくこと、具体的にどんな方向へ進んでいくのか手探りしていくことがこれからの課題だ。
あせることはない。

12日間をやり通したこと、ずっと越えられなくて苦しかった壁を乗り越えられたかもしれないこと、オリエンテーション時の所長の言葉通り、楽しかったで終われたこと、今の私には精一杯の十分な実習だったと思う。
〇〇〇〇の利用者さん、スタッフさんに心からありがとうを伝えたい。そしてがんばった私を少しだけほめてあげたいと思う。」


大会社で二人分労働しながら己に鞭うち続けてなんとかやりくりした12日間の長い実習はようやく終わりました。自分をオブラートに包むことができなくなった方々との時間は、日頃いかに自分で自分をオブラートに包むことに必死になっているのかを知ることとなった時間でもあったかもしれません。

業務としてわたしが障害者手帳を持っている方々と会うことが日常となったのはようやく前々職、この実習を経て国家試験合格から10年ほどの時が流れていました。結果的に使い捨て同然の契約終了となるまで大会社を抜けだすことができませんでした。手帳更新のための診断書なども日常的にみるようになって、ようやく私の中で統合失調症は誰もがなり得るものなのだということが私の中でおりてきたのかもしれません。

スクーリングでの精神医学の講師の断片的に時々思い出します。自分の母も含めて統合失調症を発症する人は100人に一人と言われていると。山手線の話がでました。くわしい数字の話は忘れてしまったので調べてみました。山手線は11両編成、ロングシートの1両当たりの乗車定員は座席と立席をあわせて150~160名ぐらい。11両編成の山手線の中に統合失調症になる可能性のある方は20人前後いるということになります。精神疾患になりたくてなる人はいない。100人に一人発症した人は他の99人分を背負ってくれているのだと、私の中に素直におりてくるまで長い時間が必要でした。

心を病むことは深いことなのだとおしえられました。

こうした実習もまだ存命だった母と物理的に距離をおくことが可能にしました。郷里との距離、私の中で大切なことでした。


まずはウィークリーマンションを借りて住民票を移すところからからやり直し、どこの駅の近くに部屋を借りるところからやり直せばいいのか・・・。


気がつけばおばあさんですが生きているかぎり、人生は続いて行く・・・。

迷い悩んでいる間に人生終わってしまいますかね、そんなことはない・・・?!


こんなブログへの訪問、ありがとうございます。

2014年『CELEBRATION100!TAKARAZUKA』‗思い出し日記(5)

2020年05月19日 02時30分49秒 | 宝塚
2020年5月17日:2014年『CELEBRATION100!TAKARAZUKA』_思い出し日記(4)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/df91d3302fb7e92b6274b71c0335093e




(公演プログラムより 眞帆志ぶきさん、三木章雄先生の対談)

「在籍23年、そのうち13年がトップスター扱いという眞帆志ぶき。彼女と共に、宝塚歌劇100周年んを記念して設立された<宝塚歌劇の殿堂>入りとなった三木章雄。(略)長い付き合いの二人が、数々の伝説を生んだスータンの<宝塚初めて物語>を存分に語ります!

🌹眞帆が宝塚に入団したのは1952年。男役といえど女声のキーで歌うのが通常だった宝塚歌劇で、彼女はまだ若手だったにもかかわらず、男役のキーを低くするという革命をもたらし、一躍注目の人となった。

三木;眞帆さんというと雪組のイメージが強いけれど、若手時代は花組で活躍されていたんですね。

眞帆;歌って踊って芝居しての三つがね、最初はどうやっていいのか分からなかった。おまけに言葉の壁があって、大阪弁で叱られても(関東出身の)私には通じないの。でも演出家の意図するところをつかまなくちゃいけない・・・勉強しましたね。フランス映画に通って。日本映画だと石原裕(次郎)ちゃん♪ それから市川雷蔵さん。あとはね、天津乙女さんや春日野八千代さんをはじめとする先輩たち。

三木;当時の男役は、燕尾服を着てもソプラノで歌っていました。

眞帆;私も最初はメゾでした。でもある時「すみれの花咲く頃」を加茂さくらさんとデュエットすることになって、彼女のソプラノが映えるよう私がキーを低く、ジャズ的なフィーリングで歌ってみたら「面白い子が出てきた」って公演評にも書かれて。その頃、大劇場で初めて新人公演が行われることになったんですが、私がその新人公演で主役に抜擢されて、そりゃもう嬉しかったですね。その時も本役どおりでなく低く歌ってみたら「良かった」と褒められて。でも、褒められたら褒められたで上級生の前を歩きにくくってねぇ。

🌹1960年に花組から雪組へ組替えとなり、活躍の場を広げる眞帆。次々に新しい風を吹き込んでいった。

眞帆;その頃の雪組は芝居上手がそろってて。千穐楽は、お客様を喜ばせようと「ちゃんと元の筋に戻しますから怒らないでください」って白井(鐵造)先生にご挨拶したら「好きなようにやってみなさい」って。鴨川(清作)先生もそういうの好きでしたから、千穐楽はいっぱい遊ばせてくれたの。千穐楽でのお遊びのはしりです。私は三枚目を演じるのが好きだったの。



🌹エンターテイナーとして評価の高い眞帆。ショーでは最先端の音楽やリズムで独自の世界を展開する。

三木:寿美花代さんの『華麗なる千拍子』の頃からジャズっぽいものが宝塚のショーに出てきたけれど、スータンは土着的な舞台のパイオニア。宝塚の男役って春日野八千代さんみたいに美しさで酔わせるタイプと、スータンみたいに想像もつかない何かを見せてくれそうで目が離せなくなるタイプがいて、今の生徒たちにもいろんなかたちで影響が残ってます。僕は1971年年に入団して、初めてスータンにお目にかかったのが『ノバ・ボサ・ノバ』なんですが、スータンが稽古場に現れるファッションがアメリカのモード誌から抜け出したようで、毎日「今日はどんな格好をしてくるんだろうな」と楽しみでした。

眞帆;私、ファッション好きなの。髪の毛を1㎝位の短髪にカットしたこともあったわ。

三木;眞帆さんがトップとして参加しあ1965年のパリ公演で、宝塚は初めて洋物ショーを海外で上演しました。外国の方は反応がいいですね。

眞帆;あちらのお客様は主役が誰だか知らないはずなのに、劇場の空気感や熱気で注目されているのが分かるの。パリ公演が振付家のパディ・ストーンとの出会いでした。コサック・ダンサーが真剣に踊っている中、私だけが上手くできない三枚目の役で「あー、しんどい」とボヤく場面、あれは受けたわね。私、真面目な場面の中にちょっと楽しいものを入れるのが好きなの。

三木:ストーンはガッツリと盛り上げる振付を得意とした人だけど、面白いナンバーもすごく上手。オチがあって、ユーモアがあって。スータンはユーモア担当。『ポップ・ニュース』の酔っぱらいが回転ドアをぐるぐる回る場面で、どんどん酔っていく人をカリカチュアするセンスといったら!

眞帆;あの役はまたやりたいわ。」



 真帆志ぶきさん、わたしは2014年5月22日(木)、最初で最後、拝見しました。

 細身の小柄な体にキラキラ、キラキラと光る衣装を着こなし、曲名はわからなかったのですが低音ボイスを響かせて腹の底から豊かな声量で歌われる姿に驚愕しました。正直、初風諄さん、榛名由梨さんと三人で思い出話をされていた時は、年齢相応といえば年齢相応だったと思いますが、弱々しいと感じる声に、この方が歌えるのだろうかとすごく失礼と思いましたが心配でした。歌い始めた途端、そんな危惧はぶっとびました。表情もきりっと変わり、舞台に立っていたのは男役トップスター真帆志ぶきさんでした。もしかしたら立っていることすらきつかったのかもしれないと思うのですが、長きにわたりトップスターをつとめたタカラジェンヌの底力、誇りと自信を目の当たりにした思いでした。わたしのなんぞのことばではほとんど表現しきれない、そこに立っていたのは男役トップスター、真帆志ぶきさんでした。80歳を過ぎて全身にキラキラをまとい、そのキラキラに負けないオーラを放つ、ほんとにすごい方でした。こうして一度きりでしたが生で拝見できたのは貴重な出会いでした。

 1992年月組公演『メモリーズ・オブ・ユー』の中でパディ・ストーン振付の「バナナボート」と「ココナッツボーイ」の場面が再演されました。かつて真帆志ぶきさんが演じた役を涼風真世さんが演じるということで話題になりました。公演プログラムには、稽古場に演技指導に訪れた、まだ60代だった真帆志ぶきさんのお姿と指導を受ける月組生の姿が掲載されたことを思い出します。四つん這いになった男役たちの背中に涼風さんがのってバナナを食べようとするんだったかな、楽しい振付、オーソドックスな宝塚のショーにはない面白い場面、動きはハードだと思いました。

 真帆志ぶきさん、2020年3月9日、87歳でAnotherWorldへと旅立たれました。

 2018年星組公演『AnotherWorld』のあと、宝塚ファンは、冥途歌劇団ではどなたか主役の舞台を上演しているのかな、柴田先生が新作を書き下ろしているのかな、あちらもチケットとるの大変かしらと思い巡らすことができるようになりました。谷正純先生、こんな作品をありがとうございます。わたしもAnotherWorldへ行ったらチケット争奪戦に参戦する気満々です。AnotherWorldは永遠ですから、真帆志ぶきさんの舞台にもきっと会えるでしょう。

 初風諄さんが「青きドナウの岸辺」を歌われた時は、さすがに歌声も年を重ねていると感じましたが小学生だったわたしが憧れた昭和のベルばらのマリー・アントワネットが歌っていることになんともことばにしようのない胸があつくなる思いでした。

 OG公演、現役時代をなぞるというよりはダンスも歌もさらに磨きがかかり、人生を重ねてきたから醸し出せる強さがそこにはあって退団されてからの時間を感じつつ拝見する楽しさがあります。

 あと一回だけ書きたい気持ち。









ささやかなブログへの訪問、ありがとうございます。夕方から下書きをはじめて、6年越しで書きたかったことがようやく書けました。


『ジャージー・ボーイズ』の中止が決まり、主演作が二本続けて中止となったアッキー(中川晃教さん)からのメッセージ。
「コロナは必ず終息する。今は健康第一に、命があれば、また何でもできる。
 そう僕は見方を変えました。
 この無念さも、きっと前向きなものへと意味を変える日がきますように!
 人生に無駄なものはないから、ここから、より良いものに高めていけなすよねっ。」

苦悩していた日々を思い出す_実習記録ノートより(14)

2020年05月17日 19時43分43秒 | 祈り
「平成18年11月25日(土)、晴、11日目

例えば、幻聴がきこえたり、関係妄想という症状があらわれていたり、そのこと自体が辛いのではなく、そのことによって社会生活が送れなくなることが辛いのだということ。この人は今何を求めているのだろう、何を言おうとしているのだろう、何を必要としているのだろう、そのためにはどうすればいいのだろう。そういう意味でのアセスメントの大切さ。アセスメントの意味がようやくわかりかけてきた。

11日目を終えて、所長が言われた、ここには精神障害者はいないということ。少し見方を変えて、いろんな人を受け入れる柔軟さをもってほしいということ。

私はずっと母をきちがいばばあと思い続け、心のどこかでいなくなってくれればいいのにとさえ思い続けていた。自分のことを、きちがいばばあの娘と思い続け、母を、そして自分を拒絶し続けてきた。親子を途中でやめることはできない。が、別個の、各々固有の世界をもった人間だ。私の中に居すわり続けた偏見、遺伝への畏れ。それらと向き合い続けた。苦しかったが、やり遂げようとしている。私にはどうしても必要なプロセスだった。

私が時間を共有したのは、統合失調症のOさんではなかった。躁うつ病のFさんではなかった。その他にも何度も顔を合わせ、言葉を交わした利用者さん達。それぞれの世界をもって右往左往しながらも生きている人達だ。疾患名は知らない。症状があらわれている場面もあったが、そこにいられた。病気のAさんではなく、Aさんとして接していたということ。Aさんがたまたま病気になったのだということ。
病気になってもAさんは、Aさんだ。
精神障害者がいないというのはそういうことだった。

母は関係妄想がひどかった。365日同じ屋根の下にいて顔を合わせれば現実にはあり得ないことを口走る。一生懸命それは違うよと言葉で説得しようとした。私は20代半ば、お母さんは今辛いんだなと受けとめることなどできる筈もない。自分がわけわからなくなりそうだった。私は母のそばを離れた。自分を守るために・・・。
だが、自分もどこかおかしいのではないかという思いから逃れることはできなかった。きちがいばばあの娘は結婚したり子供を産んだりしてはいけないのだとさえ思った。

精神障害にいちばん偏見をもっているのは、当事者、その家族、福祉関係者だという。全てを病気や障害のせいにしてしまいがちである。だが、そこにいるのはAさんだ。ワーカーはそういう見方を大切にしてほしいという所長のお話だった。
病気による症状はあるが、全てを病気のせいにしたら、そこで終わってしまうこわさがある。
スタッフさんに、利用者さん達の活舌が悪くて言葉がききとりにくいのは薬の副作用ですか?とたづねてみた。必ずしもそうではない、病気になる前から喋っていることが聞き取りにくいタイプの人はいる、会社なんかにもそういう人いますよね、というようなお話だった。たしかにそうだ。
会社にも、特に年配者の中には勝手なこと言っていて慣れないと何を言おうとしているのかわからない人達がたくさんいる。こちらは、仕事だから聞きとろうとする。

特別視することはない。例えば会社の人達は、精神障害をもっていないと言い切れるだろうか。明日にも症状があらわれないという可能性がゼロだとはいえない。ただ、みんな自分はまともだというような顔をしていて、おそらく、自立支援法などもひとごとで、目の前にある仕事をこなし、また利益をだすために、会社の上からたたかれて新しい仕事をとりにいく。
何のために働いているのだろう。自分は何者なんだろう、という問いかけをすることはないのだろうか。目の前の現実があるからそんなことを考える時間もなく、また考えることがあってもおおい隠しているのだろうか、わからない。
いずれ死を迎える、ということではみんな平等だ。
だからこそ、生きている、ということはすごいことだと思う。
母は弟が高校の先生をしていると思い込んでいるらしい(現実は会社員)。母の願望だったのか、わからないが、母の中でずっとつながって生きている何かがありますよ、という所長のお話だった。

強いストレスを受けた時、自分のしてきたことは間違いだったと思い込んでしまった時、気がつけばふっつりと母はきれてしまっていた。生真面目で自分に正直であるからこそ、そうなることでしか生きられなかったのかもしれない。自分を表現できなかったのかもしれない。母は今も生き続けている。これから痴呆が出てくるくることが考えられるが、とにかく生きている。他の誰にもわからない母の世界の中で生きている。
人は弱い者であると同時に強いものだ。

Fさん、女性、食事会のメニューのひとつ、豚肉は食べられなかったそうだがおいしかった、楽しかった、と嬉しそうだ。たぶん、メニューなんかなんでもいい。〇〇〇〇にきて食事会に参加する。ワイワイガヤガヤと人の中にいる、話相手がいる、そのことが大切なのだ。この先どうしていうのだろうと思うと、いろいろ考えさせられるが、今彼女はたぶん幸せな気持ちでいる。それはとても大切なことだ。
人がどう思おうと、その人が今幸せであればそれでいいではないか。

フリースペースは、ダイレクトに人のエネルギーを感じる場所だ。
人は生きるエネルギーをもっている。妹は不幸にして自ら死を選んでしまった。その事実は変わらない。救ってやれなかったことをずっと背負って私は生きていかなければならない。妹の分まで生きて幸せになりたい。
楽しいこと、いっぱい見つけたい。

最後の一日を楽しんでほしい、楽しかったで実習を終ってほしい、という所長の言葉だ。先ず自分だよと言ってくださった。間隔をあけてきたことで、ようやくそんな自分になりつつあるのかもしれない。こうして一生懸命生きている私がいる。
それで十分ではないか。
あと一日、なんとかやり遂げたい。
オブラートに包まれていない世界は、こわくもあるが面白い。
人間そのものに出会う仕事はきついが、何らかの形で関わっていきたい。どう関わっていくかは、またゆっくり考えよう。」

「平成18年11月29日(水)晴 12日目

本日の目標;いよいよ最終日。仕事とのやりくりをしてどうにかここまでくることができた。できるだけ元気に楽しみたいと思う。」


 実習の一日が終わったあと、最寄り駅に帰り着くと駅前のマクドナルドに入って揺さぶられた気持ちをこうして長々とノートに書きつけないではいられませんでした。スペースが足りず、レポート用紙を足して書いていました。

こうして積み上げたものを自分は振り出しに戻してしまったのか、今の自分はどこまでがいわゆる自己責任で、どこからが社会の責任ということになるのかわからなくなっています。家賃負担は大きい。5年前会ったクローズアップ現代のプロデューサーさんが取材をしていて、いちばん大変だと思うのは家がない人だと言っていたのを思い出します。これから先対人援助職の需要はさらに高まってくると思いますが自分が家賃を払って生活できなければどうにもなりません。郷里近郊、都会とくらべれば家賃は安いですが車を運転しないかぎり必要とされるところはないのだとわかった帰省、テーボーをこえなければどこにも行くことができない家を離れなければまた居場所を見つけることができないのは明白。
母の荷物は台所用品をのぞけば全て整理しました。父の荷物もほぼ整理。妹の荷物はようやく7割方整理。つぎにどこの駅の近くに部屋を借りて暮らしていくのか。

倒産、自己破産、閉店・・・、新型コロナウイルスにより引き起こされたというよりは、新型コロナウイルスにより社会の脆弱性がどんどんあぶりだされてきているのだと思います。今は人が行き交う街もなく、人口密度の低い郷里近郊にいる方が密もさけやすく安全だと考えて身の回りを整理しつつ、流れを見守っていく のが賢明だと思わざるを得ない時、辛抱の時。ほんとうは家にいてはいけないプレッシャー、利用できるセーフティネットはなく、人と会うことも人と話すこともなく、孤立し続けている不安、かといって二か月のアルバイトを引き受けていたことが正解だったとも思えず、悪夢のような10カ月はもう忘れたい。

前々職であった、統合失調症の女性、どうしているかなと時折思い出します。
不安が強くなると妄想がひどくなって何度も電話がかかってくることに慣れないうちは関係性の築き方がわからず戸惑うばかりでしたが、強制入院させざるを得なかった病院からの外出につきそった時、「たんぽぽさんが来てくれて嬉しかった」って泣いてくれて、真夏に倒れそうでしたが寛解することはないだろうけれど少しでもこれで少しでも落ち着いてくれたら、苦労は報われた、本望だと思ったのでした。
こういう出会いがなければ援助職はやれない、あるから戻りたいという気持ちがありますがどうなっていくのか、どうすればいいのか、先はわかりません。


マクドナルドが時短営業で開いたのでやっと少し外で気持ちの整理ができました。

整理しなければならないこと、考えなければならないことがたくさんあります。

少しずつ、少しずつ・・・。






2014年『CELEBRATION100!TAKARAZUKA』‗思い出し日記(4)

2020年05月17日 00時32分44秒 | 宝塚
2020年5月9日:2014年『CELEBRATION100!TAKARAZUKA』‗思い出し日記(3)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/6695f53d866f29aac557c5827fffa115



(公演プログラムより、杜けあきさん、麻路さきさん、高嶺ふぶきさん、稔幸さん、三木章雄先生の対談)

「🌹名曲「愛の宝石」を通して受け継ぐもの

三木:今回、レギュラー陣で最上級生なのが、カリンチョ(杜けあきさん)。親分です。

高嶺:私ね、カリンチョさんがセンターで、その横にいるというのがものすごく居心地がよくて。

杜:そんなそんな~。

三木:今回、ACT2のフィナーレで「愛の宝石」をみんなで歌ってもらうんだけれども、そういうところでもカリンチョにはビシッとしめてもらおうと思って。トップとして組をまとめるということを経験してきた人たちばかりが集まっている中、落ち着きをもって納まりつつ、みんなを引っ張っていくところもあって、親分としていい感じだなあと。

杜:先生、持ち上げてくださってありがとうございます。自分自身、今回の全日程出演キャストの中で最上級生なんだって、最初は驚きました。そして、最上級生として「愛の宝石」を歌うことに、何だかとても大きなものを受け取らせていただいた感じがしますね。

 私もトップ時代、先生に『ブライト・ディライト・タイム』と『スイート・タイフーン』の2本を担当していただいて。今回、『ブライト・ディライト・タイム』の主題歌「That,s Life」を歌いますが、退団してからもずっと歌ってきた、私にとっては人生の道しるべのような歌なんです。

 東日本大震災の後、出身地である仙台を慰問で回った時、ご自分たちも被災者である消防隊の方々が、ご自分の家族のことはさておき、人々のために笑顔で頑張っている姿を見て、私から一曲プレゼントさせてほしいと、この曲をアカペラで歌ったんです。そしたら皆さん泣いてくださって・・・。先生には本当に大切な曲を作っていただいたなと。

三木:あの作品の宝塚公演中に僕の母が倒れて、東京公演の集合日に亡くなったんだよね。その時、カリンチョが、先生のお母様のために・・・と歌ってくれたことが、心に残っていて。歌によって、僕自身にも、歌っているみんなにも、そして観ているお客様にも、いろいろな想い出が甦るところがあるんだよね。

杜:OG公演でいいなと思うのは、みんな、宝塚のいい想い出が身体中に充満したところで退団していて、その楽しかった想い出をもって、再びこうやって集まってやれるというところ。私も、100パーセント楽しかった!というところからみんなで始められるのがいいなと。

 みんなしっかりしているから、いろいろ話し合って、何かあった時は多数決で決めて行って、それで最終的にいい方向にいけばいいかなと思っています。ダンサーとシンガーの皆さんも本当に出ずっぱりで頑張ってくれているから、身体はしっかりケアしてほしい、それでみんなでいい舞台にしたいなと。

三木:ダンサーとシンガーのみんなも、退団していろいろな経験を重ねているけれども、こうして集まってやっていくうちに、だんだん全体として一つの雰囲気が生まれてくるところがあって、そこが面白いよね。

杜:それに、やっている私たち自身、今回みたいな楽しいショーが大好きなんですよ。明るくて、前向きに、幸せになれるところが、宝塚のショーの魅力だと思うので。

三木:この公演のための選曲作業は、100年の歴史を振り返る意味で、宝塚歌劇団に43年間かかわってきた僕としても非常に勉強になった。1914年4月、うら若き少女たち16人での第1回公演、当時のみんなのドキドキはどんなだったろうなんて想いを馳せたりもして、改めて、小林一三先生はすごいものをお作りになったなあと。

 今回、スータンさん(眞帆志ぶきさん)をはじめ、僕が入団した時すでにスターだった方たちも出演してくださるし、僕自身は、ここに集まった4人とは同じ時代、一緒に頑張ってきたという想いがあるし。すごい伝統をもったところにかかわってこれたんだなと改めて思っています。」

 「あやしい光で愛のしらべを~♪」

 なぜかわたしの中では麻路さきさんの声でなんども脳内再生される「愛の宝石」は、1992年、旧宝塚大劇場へのオマージュとして上演された月組『メモリーズ・オブ・ユー』の中でも歌われていて、わたしは東京宝塚劇場で生で聴いていたのでした。その他にも映像を通してなんどか聴く機会があり、タイトルをコンサートの場では思い出すことができませんでしたが耳に心地よく美しいメロディーラインは体に馴染んでいました。あらためて調べてみると、1973年星組『ラ・ラ・ファンタシーク-あなたに宝石を-』で 安奈淳さんが歌われたのが最初でした。作・演出鴨川清作(かもがわせいさく)のショー。「愛の宝石」の作曲は宝塚のモーツァルトと謳われた寺田瀧雄(てらだたきお)。宝塚歌劇団の歴史が続くかぎり歌い継がれていくであろう永遠の名曲。





 寺田瀧雄没後20年メモリアルコンサート、今年8月に梅田芸術劇場メインホールと文化村オーチャードホールにて予定されていましたが、4月末、来年6月-7月頃に延期することを梅田芸術劇場が発表しました。東宝は昨日、7月-8月帝国劇場の『ジャージー・ボーイズ』をはじめとする日比谷の公演と全国公演中止を発表。舞台の幕があがる日はまた必ず訪れると信じる気持ちを強くもって生き延びていこうと思います。
 

 観劇は不要不急のイベントではなく心の糧。


 なかなか気持ちが落ち着かず、もう書くのは無理かもと思うこともありますがこうしてまた楽しい想い出をたどることができました。キーボードの音は落ち着きますね。

 ささやかなブログへの訪問、今日もありがとうございます。


ロイターより‗「ドイツで14日、原子力発電所の冷却塔2基が爆破解体」

2020年05月16日 13時17分02秒 | 気になるニュースあれこれ
原発推進派だったメルケル首相は、東日本大震災による福島第一原子力発電所のメルトダウンをきっかけに脱原発へと転換。

https://twitter.com/ReutersJapan/status/1261212220979060737

「ドイツの脱原子力政策決定から4年・ 国民的合意は揺るがない」
https://www.huffingtonpost.jp/toru-kumagai/nuclear-power-abolition-in-germany_b_6822166.html

 2012年に最寄り駅デパートの本屋さんで平積みになっていたこの本、いまだ積読なのでこの機会に読まねばと思います。知らないこと、考えていかなければならないことがたくさんあります。


河北新報より_「大崎の老舗豆腐「粟野商店」自己破産へ」

2020年05月15日 22時31分56秒 | 気になるニュースあれこれ
5月12日付河北新報
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200512-00000020-khks-l04

小さなニュースですが思い出の味。

 創業明治10年、東日本大震災をなんとか生き延びた老舗が閉店してしまいました。東日本大震災の翌年から10年以上暮らした都心の街の最寄り駅にあるデパートでは、毎年3月11日が近くなると東北味めぐりが開催されていました。そこに毎年出店していたお店でした。

 お豆腐のいいところがぎゅっと詰まった濃厚な湯葉重ね豆腐は丁寧に創られた感にあふれた繊細な味でした。ごま豆腐も黄金あげもすごくおいしかったし、力になりたい気持ちもあって一週間の間に二回・三回と仕事帰りに立ち寄っては買っていました。おいしいので人気があったと思います。閉店時間が近くなる頃には品薄になっていました。

 もう会えなくなってしまいました。すごくさみしいです。

 毎年売り場に立っていた女性、わたしより一世代上ぐらい?かな。毎年明るい笑顔とおいしさをありがとうございました。


 緊急事態宣言による自粛の結果は待ったなし。これからどうなっていくのか・・・。

「演劇界の現状を報告、「緊急事態舞台芸術ネットワーク」が発足」

2020年05月15日 00時05分31秒 | ミュージカル・舞台・映画
ステージナタリー_「演劇界の現状を報告、「緊急事態舞台芸術ネットワーク」が発足」https://natalie.mu/stage/news/379012

辛い時、苦しい時、たくさんたくさん、支えてくれた、心のエネルギーをくれた劇場たち。

思い出の場所たち。

涙がとまりません。生きてさえいれば、命さえあればまた会えるって信じて生きているけど、もう会えないのかも・・・。

また会えますようにと祈ることしかできない。

自分の先もわからないけど、持ちこたえてほしい。













2013年『ラファエロ展』_「聖ゲオルギウスと竜」

2020年05月14日 23時41分02秒 | 美術館めぐり
2013年『ラファエロ展』_「聖家族と仔羊」
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/c/2ef738015cc290356486bd77448a2782



ラファエロ・サンツィオ《聖ゲオルギウスと竜》
1504-05年
油彩/板 30.7×26.8cm
パリ、ルーヴル美術館

「怪物が登場する幻想的な絵を描かせても、ラファエロは優れた才能を発揮した。聖ゲオルギウスは、キリスト教が普及しはじめた頃に、弾圧に抵抗した殉教者で、小アジアの王女を救うために竜を退治した伝説をもつ。体をひねって、今まさに竜を撃とうとしている聖ゲオルギウスのポーズは、この頃、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いていた戦争画《アンギアーリ》(現存せず)のなかの騎馬戦のようすに影響されているという。どことなくおかしみのある竜の姿もフランドル地方(現在のベルギー)の絵画などを参考にしている。」


(『週刊 西洋絵画の巨匠 19 ラファエロ』小学館ウイークリーブック2009年6月16日小学館発行より)



「しかしラファエロは、一介の地方画家で終わりたくはなかった。1504年10月、21歳のとき、ルネサンス文化の中心地フィレンツェへと赴く。

 大富豪メディチ家の支配のもと、芸術の都へと発展したフィレンツェには、当時、ミケランジェロとレオナルド・ダ・ヴィンチという、二人の巨匠が集っていた。この頃、二人はフィレンツェ政庁の壁画を競作しており、ラファエロは両者の画風を学ぶべく、その下絵を熱心に見つめた。

 残された素描や絵画などから推測するに、ミケランジェロの作品からは、主としてダイナミックな人物表現を学んだようだ。それ以上にレオナルドが生み出した「スフマート」と呼ばれる「ぼかし技法」と、群像を三角形にまとめあげる構図には魅せられた。フィレンツェ時代に描かれた聖母子像や貴族の肖像画には、レオナルドからの影響が顕著である。

 むろん、たんにミケランジェロやレオナルドの絵を模倣したのではなく、二人の技法を完全にわがものとしてから、自分らしい画風のなかに生かした。ラファエロにかかると、両巨匠の強烈な個性は消され、だれもが美しいと感じられる絵に変貌した。やがて、彼の作品は「グラーツィア(優美さ)」「レッジャドーリア(流麗さ)」などと評されていく。」



 ラファエロの絵はみるものの心を穏やかにしてくれます。竜さえもラファエロにかかると怖いようにはみえず、むしろ優しい表情でさえあるようにみえます。

 日本にいながら、遠くヨーロッパからやってきてくれた絵画と対話した時間もまた全て二度と戻ることのない夢のひとときでした。

『異人たちのルネサンス』以来、メディチ家ときくとキキちゃんが脳内再生される自分、ヅカオタ。もちろんレオナルド・ダ・ヴィンチときいても・・・。