たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

苦悩していた日々を思い出す_実習記録ノートより(14)

2020年05月17日 19時43分43秒 | 祈り
「平成18年11月25日(土)、晴、11日目

例えば、幻聴がきこえたり、関係妄想という症状があらわれていたり、そのこと自体が辛いのではなく、そのことによって社会生活が送れなくなることが辛いのだということ。この人は今何を求めているのだろう、何を言おうとしているのだろう、何を必要としているのだろう、そのためにはどうすればいいのだろう。そういう意味でのアセスメントの大切さ。アセスメントの意味がようやくわかりかけてきた。

11日目を終えて、所長が言われた、ここには精神障害者はいないということ。少し見方を変えて、いろんな人を受け入れる柔軟さをもってほしいということ。

私はずっと母をきちがいばばあと思い続け、心のどこかでいなくなってくれればいいのにとさえ思い続けていた。自分のことを、きちがいばばあの娘と思い続け、母を、そして自分を拒絶し続けてきた。親子を途中でやめることはできない。が、別個の、各々固有の世界をもった人間だ。私の中に居すわり続けた偏見、遺伝への畏れ。それらと向き合い続けた。苦しかったが、やり遂げようとしている。私にはどうしても必要なプロセスだった。

私が時間を共有したのは、統合失調症のOさんではなかった。躁うつ病のFさんではなかった。その他にも何度も顔を合わせ、言葉を交わした利用者さん達。それぞれの世界をもって右往左往しながらも生きている人達だ。疾患名は知らない。症状があらわれている場面もあったが、そこにいられた。病気のAさんではなく、Aさんとして接していたということ。Aさんがたまたま病気になったのだということ。
病気になってもAさんは、Aさんだ。
精神障害者がいないというのはそういうことだった。

母は関係妄想がひどかった。365日同じ屋根の下にいて顔を合わせれば現実にはあり得ないことを口走る。一生懸命それは違うよと言葉で説得しようとした。私は20代半ば、お母さんは今辛いんだなと受けとめることなどできる筈もない。自分がわけわからなくなりそうだった。私は母のそばを離れた。自分を守るために・・・。
だが、自分もどこかおかしいのではないかという思いから逃れることはできなかった。きちがいばばあの娘は結婚したり子供を産んだりしてはいけないのだとさえ思った。

精神障害にいちばん偏見をもっているのは、当事者、その家族、福祉関係者だという。全てを病気や障害のせいにしてしまいがちである。だが、そこにいるのはAさんだ。ワーカーはそういう見方を大切にしてほしいという所長のお話だった。
病気による症状はあるが、全てを病気のせいにしたら、そこで終わってしまうこわさがある。
スタッフさんに、利用者さん達の活舌が悪くて言葉がききとりにくいのは薬の副作用ですか?とたづねてみた。必ずしもそうではない、病気になる前から喋っていることが聞き取りにくいタイプの人はいる、会社なんかにもそういう人いますよね、というようなお話だった。たしかにそうだ。
会社にも、特に年配者の中には勝手なこと言っていて慣れないと何を言おうとしているのかわからない人達がたくさんいる。こちらは、仕事だから聞きとろうとする。

特別視することはない。例えば会社の人達は、精神障害をもっていないと言い切れるだろうか。明日にも症状があらわれないという可能性がゼロだとはいえない。ただ、みんな自分はまともだというような顔をしていて、おそらく、自立支援法などもひとごとで、目の前にある仕事をこなし、また利益をだすために、会社の上からたたかれて新しい仕事をとりにいく。
何のために働いているのだろう。自分は何者なんだろう、という問いかけをすることはないのだろうか。目の前の現実があるからそんなことを考える時間もなく、また考えることがあってもおおい隠しているのだろうか、わからない。
いずれ死を迎える、ということではみんな平等だ。
だからこそ、生きている、ということはすごいことだと思う。
母は弟が高校の先生をしていると思い込んでいるらしい(現実は会社員)。母の願望だったのか、わからないが、母の中でずっとつながって生きている何かがありますよ、という所長のお話だった。

強いストレスを受けた時、自分のしてきたことは間違いだったと思い込んでしまった時、気がつけばふっつりと母はきれてしまっていた。生真面目で自分に正直であるからこそ、そうなることでしか生きられなかったのかもしれない。自分を表現できなかったのかもしれない。母は今も生き続けている。これから痴呆が出てくるくることが考えられるが、とにかく生きている。他の誰にもわからない母の世界の中で生きている。
人は弱い者であると同時に強いものだ。

Fさん、女性、食事会のメニューのひとつ、豚肉は食べられなかったそうだがおいしかった、楽しかった、と嬉しそうだ。たぶん、メニューなんかなんでもいい。〇〇〇〇にきて食事会に参加する。ワイワイガヤガヤと人の中にいる、話相手がいる、そのことが大切なのだ。この先どうしていうのだろうと思うと、いろいろ考えさせられるが、今彼女はたぶん幸せな気持ちでいる。それはとても大切なことだ。
人がどう思おうと、その人が今幸せであればそれでいいではないか。

フリースペースは、ダイレクトに人のエネルギーを感じる場所だ。
人は生きるエネルギーをもっている。妹は不幸にして自ら死を選んでしまった。その事実は変わらない。救ってやれなかったことをずっと背負って私は生きていかなければならない。妹の分まで生きて幸せになりたい。
楽しいこと、いっぱい見つけたい。

最後の一日を楽しんでほしい、楽しかったで実習を終ってほしい、という所長の言葉だ。先ず自分だよと言ってくださった。間隔をあけてきたことで、ようやくそんな自分になりつつあるのかもしれない。こうして一生懸命生きている私がいる。
それで十分ではないか。
あと一日、なんとかやり遂げたい。
オブラートに包まれていない世界は、こわくもあるが面白い。
人間そのものに出会う仕事はきついが、何らかの形で関わっていきたい。どう関わっていくかは、またゆっくり考えよう。」

「平成18年11月29日(水)晴 12日目

本日の目標;いよいよ最終日。仕事とのやりくりをしてどうにかここまでくることができた。できるだけ元気に楽しみたいと思う。」


 実習の一日が終わったあと、最寄り駅に帰り着くと駅前のマクドナルドに入って揺さぶられた気持ちをこうして長々とノートに書きつけないではいられませんでした。スペースが足りず、レポート用紙を足して書いていました。

こうして積み上げたものを自分は振り出しに戻してしまったのか、今の自分はどこまでがいわゆる自己責任で、どこからが社会の責任ということになるのかわからなくなっています。家賃負担は大きい。5年前会ったクローズアップ現代のプロデューサーさんが取材をしていて、いちばん大変だと思うのは家がない人だと言っていたのを思い出します。これから先対人援助職の需要はさらに高まってくると思いますが自分が家賃を払って生活できなければどうにもなりません。郷里近郊、都会とくらべれば家賃は安いですが車を運転しないかぎり必要とされるところはないのだとわかった帰省、テーボーをこえなければどこにも行くことができない家を離れなければまた居場所を見つけることができないのは明白。
母の荷物は台所用品をのぞけば全て整理しました。父の荷物もほぼ整理。妹の荷物はようやく7割方整理。つぎにどこの駅の近くに部屋を借りて暮らしていくのか。

倒産、自己破産、閉店・・・、新型コロナウイルスにより引き起こされたというよりは、新型コロナウイルスにより社会の脆弱性がどんどんあぶりだされてきているのだと思います。今は人が行き交う街もなく、人口密度の低い郷里近郊にいる方が密もさけやすく安全だと考えて身の回りを整理しつつ、流れを見守っていく のが賢明だと思わざるを得ない時、辛抱の時。ほんとうは家にいてはいけないプレッシャー、利用できるセーフティネットはなく、人と会うことも人と話すこともなく、孤立し続けている不安、かといって二か月のアルバイトを引き受けていたことが正解だったとも思えず、悪夢のような10カ月はもう忘れたい。

前々職であった、統合失調症の女性、どうしているかなと時折思い出します。
不安が強くなると妄想がひどくなって何度も電話がかかってくることに慣れないうちは関係性の築き方がわからず戸惑うばかりでしたが、強制入院させざるを得なかった病院からの外出につきそった時、「たんぽぽさんが来てくれて嬉しかった」って泣いてくれて、真夏に倒れそうでしたが寛解することはないだろうけれど少しでもこれで少しでも落ち着いてくれたら、苦労は報われた、本望だと思ったのでした。
こういう出会いがなければ援助職はやれない、あるから戻りたいという気持ちがありますがどうなっていくのか、どうすればいいのか、先はわかりません。


マクドナルドが時短営業で開いたのでやっと少し外で気持ちの整理ができました。

整理しなければならないこと、考えなければならないことがたくさんあります。

少しずつ、少しずつ・・・。






2014年『CELEBRATION100!TAKARAZUKA』‗思い出し日記(4)

2020年05月17日 00時32分44秒 | 宝塚
2020年5月9日:2014年『CELEBRATION100!TAKARAZUKA』‗思い出し日記(3)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/6695f53d866f29aac557c5827fffa115



(公演プログラムより、杜けあきさん、麻路さきさん、高嶺ふぶきさん、稔幸さん、三木章雄先生の対談)

「🌹名曲「愛の宝石」を通して受け継ぐもの

三木:今回、レギュラー陣で最上級生なのが、カリンチョ(杜けあきさん)。親分です。

高嶺:私ね、カリンチョさんがセンターで、その横にいるというのがものすごく居心地がよくて。

杜:そんなそんな~。

三木:今回、ACT2のフィナーレで「愛の宝石」をみんなで歌ってもらうんだけれども、そういうところでもカリンチョにはビシッとしめてもらおうと思って。トップとして組をまとめるということを経験してきた人たちばかりが集まっている中、落ち着きをもって納まりつつ、みんなを引っ張っていくところもあって、親分としていい感じだなあと。

杜:先生、持ち上げてくださってありがとうございます。自分自身、今回の全日程出演キャストの中で最上級生なんだって、最初は驚きました。そして、最上級生として「愛の宝石」を歌うことに、何だかとても大きなものを受け取らせていただいた感じがしますね。

 私もトップ時代、先生に『ブライト・ディライト・タイム』と『スイート・タイフーン』の2本を担当していただいて。今回、『ブライト・ディライト・タイム』の主題歌「That,s Life」を歌いますが、退団してからもずっと歌ってきた、私にとっては人生の道しるべのような歌なんです。

 東日本大震災の後、出身地である仙台を慰問で回った時、ご自分たちも被災者である消防隊の方々が、ご自分の家族のことはさておき、人々のために笑顔で頑張っている姿を見て、私から一曲プレゼントさせてほしいと、この曲をアカペラで歌ったんです。そしたら皆さん泣いてくださって・・・。先生には本当に大切な曲を作っていただいたなと。

三木:あの作品の宝塚公演中に僕の母が倒れて、東京公演の集合日に亡くなったんだよね。その時、カリンチョが、先生のお母様のために・・・と歌ってくれたことが、心に残っていて。歌によって、僕自身にも、歌っているみんなにも、そして観ているお客様にも、いろいろな想い出が甦るところがあるんだよね。

杜:OG公演でいいなと思うのは、みんな、宝塚のいい想い出が身体中に充満したところで退団していて、その楽しかった想い出をもって、再びこうやって集まってやれるというところ。私も、100パーセント楽しかった!というところからみんなで始められるのがいいなと。

 みんなしっかりしているから、いろいろ話し合って、何かあった時は多数決で決めて行って、それで最終的にいい方向にいけばいいかなと思っています。ダンサーとシンガーの皆さんも本当に出ずっぱりで頑張ってくれているから、身体はしっかりケアしてほしい、それでみんなでいい舞台にしたいなと。

三木:ダンサーとシンガーのみんなも、退団していろいろな経験を重ねているけれども、こうして集まってやっていくうちに、だんだん全体として一つの雰囲気が生まれてくるところがあって、そこが面白いよね。

杜:それに、やっている私たち自身、今回みたいな楽しいショーが大好きなんですよ。明るくて、前向きに、幸せになれるところが、宝塚のショーの魅力だと思うので。

三木:この公演のための選曲作業は、100年の歴史を振り返る意味で、宝塚歌劇団に43年間かかわってきた僕としても非常に勉強になった。1914年4月、うら若き少女たち16人での第1回公演、当時のみんなのドキドキはどんなだったろうなんて想いを馳せたりもして、改めて、小林一三先生はすごいものをお作りになったなあと。

 今回、スータンさん(眞帆志ぶきさん)をはじめ、僕が入団した時すでにスターだった方たちも出演してくださるし、僕自身は、ここに集まった4人とは同じ時代、一緒に頑張ってきたという想いがあるし。すごい伝統をもったところにかかわってこれたんだなと改めて思っています。」

 「あやしい光で愛のしらべを~♪」

 なぜかわたしの中では麻路さきさんの声でなんども脳内再生される「愛の宝石」は、1992年、旧宝塚大劇場へのオマージュとして上演された月組『メモリーズ・オブ・ユー』の中でも歌われていて、わたしは東京宝塚劇場で生で聴いていたのでした。その他にも映像を通してなんどか聴く機会があり、タイトルをコンサートの場では思い出すことができませんでしたが耳に心地よく美しいメロディーラインは体に馴染んでいました。あらためて調べてみると、1973年星組『ラ・ラ・ファンタシーク-あなたに宝石を-』で 安奈淳さんが歌われたのが最初でした。作・演出鴨川清作(かもがわせいさく)のショー。「愛の宝石」の作曲は宝塚のモーツァルトと謳われた寺田瀧雄(てらだたきお)。宝塚歌劇団の歴史が続くかぎり歌い継がれていくであろう永遠の名曲。





 寺田瀧雄没後20年メモリアルコンサート、今年8月に梅田芸術劇場メインホールと文化村オーチャードホールにて予定されていましたが、4月末、来年6月-7月頃に延期することを梅田芸術劇場が発表しました。東宝は昨日、7月-8月帝国劇場の『ジャージー・ボーイズ』をはじめとする日比谷の公演と全国公演中止を発表。舞台の幕があがる日はまた必ず訪れると信じる気持ちを強くもって生き延びていこうと思います。
 

 観劇は不要不急のイベントではなく心の糧。


 なかなか気持ちが落ち着かず、もう書くのは無理かもと思うこともありますがこうしてまた楽しい想い出をたどることができました。キーボードの音は落ち着きますね。

 ささやかなブログへの訪問、今日もありがとうございます。