たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

今井通子『私の北壁-マッターホルン』より-「マッターホルン北壁へ」

2022年03月07日 00時56分55秒 | 本あれこれ


今井通子『私の北壁-マッターホルン』より-「ユングフラウ・ヨッホ」
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/7e201b92772080dd0c79916e535c9b65



「先程のテラスというのは、背中がカンテにつながる垂壁になった、水平な、畳一枚ほどの場所で、その半分ぐらいは氷がつまって傾斜していた。氷を落とせば十分使えそうだ。東に向かっているこのテラスは岸壁から飛び出しているので、落石の危険性もない。

 テラスについた私たちは、背中の壁にハーケンを打ち、各々セルフ・ビレーを取った。ザイルで行動半径を制限された私たちは、この狭いテラスで右往左往しながら、まず氷落としに取りかかった。ピッケルをふるって丹念に氷をくだく。端に飲料水用の氷だけ残し、あとは落として整地した。

 早速、ここに腰を下ろすと、まず防寒具を身につけ、おろしたザック、ヘルメット、その他手から放すものすべて一つ一つを根気よく、壁に打ったハーケンに結び、ひもつきにする。なぜなら、このテラスの下は、断崖絶壁。ハーケン一つ、手袋片方落としても貴重品を失ってしまうからだ。

 一応もつれ合った作業が終わった私たちは、これから今夜の食事の支度にとりかかった。

 ひもつきのザックから、ひもつきにした水筒を手元に:よせ、ブタンガスのコンロもひもつきにして、膝の上で氷からお湯をわかす。

 最初からひものついているティーバックで紅茶をいれ、一口ずつ回し飲みし、またお湯をわかして、今度はスープをつくり、パン、ビスケット、サラミソーセージなどをスープで流しこむ。

 21時、太陽は完全に西の空に沈み、残照も消えて、長かった一日がとうとう暮れた。黒い壁の中は、静かだ。今夜は風一つない。やがて壁の中の雪面がほの青く輝き、黒い岸壁が冷たく光を放ちはじめた。月が登ってきた様子だ。見えはしないが、澄み渡った空の明るさはその証拠だった。

 目を下に移すと、何重にも重なって黒々とした山々。その山々に囲まれ、より黒い深い谷間。その谷間の一角に、ただその一角だけ、きらめくばかりの無数の明りがちらばって見えた。東京の空からみる東京の灯より、その一角の明かりは数十倍、何と美しいものだったろう。

 谷間の町。これはツェルマットの明かりだ。この明かりを眺めていると、今自分のいる場所が、北壁の真ん中であり、この場所へ来るため長く苦しかった思い出があることを一瞬考え、だからここまで来てよかったと思った。遠征を計画してから一年、いや山登りをはじめてから何年間か、私はこういう瞬間があるからこそ、こういう時間をもつためにこそ、山々を登り、トレーニングに励んだのではなかったろうか。それにしてもなんと荘厳な眺めだろう。すべてのことを忘れさせてくれる。いつしか私は眠ってしまった。」