たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

「これ以上高齢者のために子供や若者を犠牲にすべきではない」世界から乖離した日本のコロナ対応の愚

2022年03月20日 15時30分30秒 | 気になるニュースあれこれ
「 私は本稿で、日本のこれまでのコロナ政策および「コロナ感染対策禍」(決して“コロナ禍”ではない)の最大の被害者となった子どもたち、そして若者たちのことを明確に擁護しようと考えている。いまだ終わらない日本の理不尽なコロナ政策のせいで、若い彼らの貴重な時間がどれほど毀損(きそん)されたか、大人たちは真摯(しんし)に向き合う必要がある。


 コロナ騒動は3年目を迎えたわけだが、日本では小池都知事の「防ごう重症者 守ろう高齢者」のキャッチフレーズに代表されるように、高齢者への徹底した配慮が引き続き求められている。「若者や子どもが外で新型コロナに感染し、それを家庭内に持ち込む」「結果、同居している高齢者が罹患し、重症化したり、亡くなったりする」というストーリーがひねり出され、それが定説のごとく喧伝されてきた。


 「子どもや若者が高齢者にうつす」という設定が政治家や専門家から繰り返し語られたことにより、「帰省禁止」「高齢者施設での面会禁止」「死亡直前の看取り禁止」といった方針が常識のように扱われることになってしまった。彼らが設定したこれらの方針は、2年経ってもおおむね変わらないまま用いられ続けている。


  基本的に、政治家は巨大な票田である高齢者を優遇する政策を掲げる。コロナ対応も同様で、「人命優先」「高齢者を守れ」を錦の御旗に政策を推し進めてきた。そこで割を食ったのが子どもや若者である。


 人間はおおよそ4歳から記憶があるとされているが、現在の6歳児はその記憶のほぼすべてにおいて、他人の相貌が顔の下半分を隠した不自然な姿で残っていることだろう。身内以外の人間については、マスクを着けた姿しか見ていないのだから。子ども向け番組を見ても、芸能人の出演者は素顔ながら、一般人の出演者はマスクをしている。食レポを見ても、食べ物をクチに運ぶときだけマスクを外し、入れた途端にマスクを再び着用している。そんな映像を子どもたちは見続けているのだ。


  大人たちからあらゆることを制限され、我慢することが当たり前の時代に幼少期を過ごした子どもたちは、大人になったとき、どんな社会をつくっていくのだろうか。2019年以前よりもさらに同調圧力が強化され、出る杭は打たれまくる、つまらない社会になるかもしれない。おかしいと思っていることさえ「おかしい」と言えないような、抑圧感の強い社会になっても、あなたは構わないのだろうか? 


  一般的な大学生は入学を機に、それまでの自分史上、最大の自由を手に入れることになる。その時間が貴重なのだ。それなのに、いまの大学生は自由を政治家や文科省、大学当局から取り上げられ、メディアからは「アーッ!  学生風の若い男性が路上飲みをしています!  マスクもしていません!」と揚げ足取りをするように報じられてしまった。ささやかな自由を求めても、SNSに跋扈(ばっこ)する「自粛警察」「マスク警察」の連中から極悪人扱いされ、取り締まり対象のように吊し上げられる。なんと息苦しい大学生活だろうか。


 結局、世間の空気を読みつつ、票田に媚びることしか考えない現政権は、不利益を被っている側が怒りを見せない限り、このままの高齢者重視・若者軽視の政治をやり続けることだろう。もうウンザリだ。」


https://news.yahoo.co.jp/articles/a3a6b9945b5b1d50f207a3b2bf9dbbb808fc07f8?page=1

2022年『メトロポリタン美術館展』-フェルメール『信仰の寓意』

2022年03月20日 01時57分45秒 | 美術館めぐり
2022年『メトロポリタン美術館展』-エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ル・ブラン「ラ・シャトル伯爵夫人」
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/a6ad9b0abb244ad613e40282f8fd57ab





ヨハネス・フェルメール
「信仰の寓意」
1670-72年頃
油彩/カンヴァス


(『週刊世界の美術館-メトロポリタン美術館①』より)

「女性はマグダラのマリアを想定しているともいわれ、カトリックの信仰を擬人化して描いた晩年の傑作。頭上のガラス球は心の浄化を象徴し、床に転がるリンゴは原罪を意味する。画中画は画家が所有していた同時期の宗教画家ヨルダーンスの『磔刑(たっけい)』。

 世俗的なものを意味する地球儀を足で踏みしだく女性は、進行の擬人化である。押しつぶされて血を流す蛇は、信仰の勝利を示す。注文主は、裕福なカトリック信者だといわれる。」



(2008年『フェルメール展』公式カタログより)

「『信仰の寓意』はフェルメールの晩年の様式をよく示している。一段と概念化が進み、生硬で、様式化が顕著なのである。1654年のフェルメールのカトリックへの改宗は、『マルタとマリアの家のキリスト』のような物語画を好む初期の主題選択に影響を及ぼしたかもしれないが、この作品は、神学的概念を形象化した彼の唯一の寓意画である。『絵画芸術』にきわめてよく似た構図を採っているが、ここには日常体験と似たものは何もない。描かれているのは、青と白の衣を着て、絨毯で覆われた壇上に腰掛ける女性である。彼女は、右手を胸に当て、天井から吊るされたガラス球を見上げ、右足をヘンドリック・ホンディウスの地球儀の上に載せ、開いた聖書、聖杯、十字架の載ったテーブルにもたれている。彼女の前の大理石の床には、りんごと、重い隅石につぶされた蛇が見える。奥の壁には、ヤコブ・ヨルダーンスの大きな『磔刑(たっけい)』の絵が掛かっている。

 このフェルメール作品の大部分の要素は、彼が1644年のオランダ語訳で知っていたと思われるチューザレ・リーバの『イコノロギア』に由来する。女性のローブの色彩、身振り、聖杯、つぶれた蛇、りんごは、すべてリーバが「信仰」に関連した二つの記述の中で述べている要素である。リーバが説明するように、彼女の身振りは、生きた信仰が心のなかにあることを示す。蛇は、キリストを象徴する隅石によって押しつぶされている。そして、りんごは原罪を暗示する。エディ・デ・ヨンダ(1976年)が最初に気づいたように、銀色の球体は、間違いなく、イエズス会士の著述家ウィレム・ヘシウスの寓意画(1636年)に由来する。この寓意画には、魂を象徴する有翼の少年が十字架と太陽を映すガラス球を持ち上げる様子が描かれている。添えられた詩は、宇宙の広大さを映し出す球体の可能性を、神を信じる心の力になぞらえている。この作品が注文されたものだったかどうかは不明だが、デルフトのイエズス会にフェルメールが関係していたことを考えれば、裕福なカトリックの顧客から注文されたものだと容易に想像できる。しかしながら、この図像がそのパトロンから指示されたというわけではなかろう。独創的で複雑んプログラムからは、《絵画芸術》におけるフェルメールの寓意の使用が思い出される。その上、リーバは言及していないが、フェルメールが付け加えたいくつかのモチーフ(特に、ヨルダーンスの絵画、黒檀の十字架、その背後の金皮革のパネル)は、彼の家財だった。天に向けて視線を泳がす女性の身振りと表情が、イタリア美術、特にグイド・レーニの作品を想起させることを付け加えてもよいだろう。この作品が描かれたのは、ちょうど、フェルメールがイタリア絵画の専門家として仕事をするために1672年にハーグに呼ばれたときのことだった。」


2018年『フェルメール展』-「マルタとマリアの家のキリスト」
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/4746712a778e601285af4899bc7384c1


2018年『フェルメール展』-「マルタとマリアの家のキリスト」(2)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/004cbcaa9ee908f0ba8a519f1a6141fe


2008年『フェルメール展』より-「絵画芸術」(1)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/f2ad501910ac6a4107c16d85d5cfae57

2008年『フェルメール展』より-「絵画芸術」(2)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/11effaddb89f73955d8d35d0079e11a9


2008年『フェルメール展』より-「絵画芸術」(3)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/5fa725d1bb37bf67386419bbc06d6e04


2008年『フェルメール展』より-「絵画芸術」(4)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/6a11dbd3f99f46e068b14aacc150e562

2008年『フェルメール展』より-「絵画芸術」(5)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/63115588370af07835450577c376de8a

2008年『フェルメール展』より-「絵画芸術」(6)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/24dbc7ad3b1b65fbdabfebe193243142