たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

カウンセリングスクールのつぶやきメモより(17)

2019年04月01日 17時17分10秒 | 祈り
「2005年1月21日

1.この授業を受けて、感じたこと、考えたことを自由に書いて下さい。

睡眠不足の為に、少しウトウトしてしまったことが悔しい。
眠れる、ということは、私の心は健康なのか。
心を病む、ということ。
その深い意味を知りたいと思う。
母が入院していた精神病棟の横を車で通り過ぎた時の、自分の淋しさを思い出す。
精神病患者は、うとましいものと思ってきたが、人に隠さなければいけないと思ってきたが、
病気にならない人はいない。
身体が風邪をひくように心も風邪をひく。
だれもが、一人の人として、社会の中で自分の足で歩いていけるように、
幸せだと感じることができるように、私にできることはないだろうか。」

 
 観劇日記を書きたいところですが、その前に長い長いひとり言。

 朝から大量の荷物を運んだあと少しウトウト。午後は一週間ぶりに電車に乗りました。(大都会で毎日電車に乗り、街を駅を闊歩していた私にとって電車に乗るのがようやく一週間に一回はなんだか半分翼をもがれたようなものですごくへんな感じ)。美容院を予約したのでその前に心づもりどおりハロワへ。再募集がかかっているので書類を出そうかどうか迷っていた二通目も結局そもそも車を運転できない時点でアウトでした。車社会の前には私の前職の経験など全く役に立たず為す術はないのだとわかりました。ここ一カ月半余り悩みながら時間とお金をかけて書類を準備して提出し待って待って待ちましたが結局全て無駄ということでした。援助職はどこでも必要だから郷里に戻っても前職を生かして仕事あるだろうと考えていた自分、車社会に対する認識が甘すぎました。自分が生まれ育った場所ってこういう所だったんですね。車の運転が必須ではない事務職の募集もかかっていることがわかったので気力が戻れば書類を出すだけ出すかな。でも郷里で仕事を求めることはあきらめた方がよさそう。隣県の大きな都市なら都心ほどではないですが一応都会なので車必須ではなく、前職の経験を生かせる機会はあると思います。最初からそっちに面接に行けばよかったと悔やんでも仕方ありません。そっちに仕事を求めるなら朝自転車に乗れない時、バスでは間に合わないので、家を出て駅近に部屋を借りざるを得ません。残念ですが郷里は衰退しています。都心の部屋を引き払う時、生活に必要な物お金をかけてほとんど廃棄してきましたが、また初期費用をかけて部屋を借りますか、苦労して家賃を払い続けますか、どこかの空に羽ばたきますか、自分の人生を生きるために・・・。


 「今日は午後3カ月ぶりに小学校時代時代からの同級生とお茶して、ずっと聞きたかった妹のことを聞きました。妹が働いていたビルに同級生が働いて会社の事務所も入っていたので時々会って話をすることがあったそうです。私が知らなかったこともあり、一生懸命に生きた時間があったし、写真の中の妹はいつも笑っているので楽しい時間もあったに違いないです。こうして思い出してくれる人がいるだけでその人の人生はIt,s all right!」

 土曜日の夜、こう書きました。長くなっていますがもう少し続けます。妹が亡くなったのは阪神淡路大震災の前年の9月。25年の歳月を経て、ようやく何が妹を追いつめていたのか、そして母は発症してからも妹を守ろうとしていたらしいことを同級生の話から理解しました。以前にも書いていると思いますが、洋服が大好きだった妹は買い物をするためファッションビルの中にあった洋服屋さんで高校時代の同級生に声をかけられたことから悪徳商法の団体に足を踏み入れてしまいました。高額な健康器具などを売れば売るほど自分にもお金が入ってくるというやつです。今のデカい家に建て替えてからしばらくして妹の帰りが毎日遅くなっても最初はわかりませんでした。母はかなり心配していましたが私も「もう大人なんだから」と軽く思っていました。毎日毎日帰りが遅い。父が家に入れないよう鍵を閉めてしまうと仲間から合鍵を作らされていました。父は「お前が悪いのだ」と大声で母を責めるようになりました。家の中はだんだんいたたまれない空気になっていきました。そして悪徳商法の団体に入ってしまっていたとわかった時、父は仕事を辞めさせて妹を家に閉じ込めました。足ではどこにも行けない家の中に閉じ込めてしまいました。それからしばらくしてからだったと思います。団体の仲間が家にやってきました。顔をみせないのでどうしたか心配になったからと。母は帰ってくれと何度も何度も叫びました。それでも帰らないので交番に電話しました。ようやく仲間が帰ったあと、警察官が妹に、あの人たちはみんな親を泣かせている、もうそんなことをしてはいけないと優しく語りかえてくれました。膝を追ってうなだれた妹の姿を忘れることはありません。その日の夜だったと思います、母の心はダムが決壊しました。気がついた時には統合失調症の典型的な症状である幻聴と被害妄想が現れていました。その当時の私はなにも知らなかったのでわけがわかりませんでした。自分にも攻撃の矢が向いてくるようになったので私は一緒にいてはダメだと逃げました。妹に対して、母が病気になったのはあなたのせいだという気持ちが私の中に少なからずありました。だから自分のことしか考えませんでした。弟はその頃社員寮にいたので妹だけが父と母のもとに残るかたちとなりました。

 同級生の話から、妹が同窓会名簿をたよりに片っ端から電話をして喫茶店に呼び出しては高額商品を売ろうとしていたことを知りました。同級生も一度持ちかけられたそうです。おそろしいですね、最初はさみしさからよろっといってしまい、一度足を踏み入れてしまうと抜けられなくなるのは新興宗教とおんなじ?わかりませんが妹は脱会したくても抜け出せなくてなってしまい苦しんでいた、もしかしたら自分が母を病気にしてしまったという苦しみもあったかもしれません。そこをなにか助けてやることはできなかったのか。同級生は亡くなるしばらく前実家に帰ってきたときたまたま妹を会ったそうです。その時家を出て新しい所にいかなければ、というようなことを妹は話したとか。ドクターに勧められていたのだろうと思います。母が妹の手を引いてすぐ近所に助けを求めにはいったあとを5‐6人が追いかけていく光景をみたこともあったそうです。私が家を出たあとも仲間が家にやってきていたということなのでしょう。今さらですがはじめて知ることばかりでした。ずっと妹のことを話したと思いながら離れていたので機会がなかったのが帰郷したことでようやく話せました。何が起こったのか、ようやく全貌を納得。

 母に対しても妹に対しても、私がなにかできないか、どうにかならないのかと悩み人に話したこともありましたが、今の私ならどんな社会資源があるか調べてあちらこちらに問い合わせてなんらかの手段を講じるということができると思いますが、若かったし今ほど精神疾患に対する理解も社会資源もなかったし、父は絶対的な存在であった家の中では何もできなかったことに変わりはないのかもしれません。

 その店に入らなければ、その同級生と会わなければ、という気持ちは今もあります。悔しさはあります。同級生なだけに、選挙のときだけ公〇党よろしくとか〇教新聞とってねとか断りにくくて困ってしまった経験誰にでもあると思うのですが時には厄介なもの。

 写真の中の妹はいつも笑顔。苦しかっただろうけれど、楽しい時間もたくさんあったに違いないと私が納得。納得のために一枚一枚スキャンしながら断捨離しています。今がいいとは思っていないし、ずっと続いては困るのですが、また羽ばたいていきたいですがまだもうしばらく荷物減らし。自分の気持ちを確認しながら断捨離、そのための断捨離。

 時間切れとなってきました。長々と失礼しました。


朝からがんばりました

2019年04月01日 08時30分26秒 | 日記
 今日は自治体のゴミ収集で古着と布を出せる日、自転車でほんの数分の集積場を3回往復したでしょうか。妹が遺した大量の洋服と布、大きなビニール袋6個、スーパーのゴミ袋2個分を運びました。これで衣装ケース1箱分ぐらい、もう少しあったかな。まだ衣装ケース2箱にびっしりと布が詰まっているし、服もまだまだあるのでこの作業をあと2回はやらなければなりません。下着やTシャツを少しずつ処分してきましたが、自分が使えるものは使っているのですが、まだ大きな物入2箱の中ににびっしりと詰まっていることを知りました。姉としての最後の役割、自分自身の納得のためにもう少し整理を続けます。収納スペースがたっぷりあるから捨てることを全く考えずに買っては買ってはどんどんたまっていったモノたち。ためるのは簡単ですが捨てるためにはとてつもないエネルギーがいります。今を逃したらこんな機会はないと思うので、もう少し気が済むまで続けます。午後はハロワいって、夕方美容院の予約しているのですが無事に行けるかな。朝から疲れましたね。集積場にはご近所がお当番制なのかな、数名いてびっくり。私は誰が誰だかわからないですが私のことは丸わかりかしらね・・・。


 一昨日同級生から聞いた話で妹のことがようやくわかった感なのですが家では書きたくないのでまたあらためて自分の気持ちを整理するつもりです。


 母よ、北海道土産のアイヌの置物、リサイクルショップに売れなかった、これからの私の人生に必要ないので小さなモノから燃えるゴミに出すよ、身軽になりたいんだ、ごめんな。