たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

2013年『アンナ・カレーニナ』_思い出し日記(6)

2019年02月08日 23時05分03秒 | ミュージカル・舞台・映画
アンナに心を奪われたヴロンスキーが、クリケット?だったかな?手ほどきをしながらアンナにせまっていく場面があったと思います。伊礼彼方さんが美しかった。ためらいながらもヴロンスキーへと心が傾いていく一路真輝さんもときめきに輝いていてすごく綺麗でした。冒頭の列車事故がアンナの行く末を暗示している物語。アンナ、ヴロンスキー、カレーニンは自分の奥底に眠っていた激しいものに気づき、素直にしたがった結果アンナの死という結末が待っていました。ヴロンスキーと出会ったことが、ヴロンスキーがアンナの死期を早めてしまったのでは・・・、ついそんなことを思いながら観劇している自分がいました。それは正解でも不正解でもないと思います。人からそしりを受けるような生き方になってしまったけれど、アンナ自身が納得していれば、結末はどうあろうと命を燃やして生きた時間があったのだからそれでいいのかな・・・。むずかしい・・・。原作を読んでみましょうかね。

 ヴロンスキーとの生活も満たされなくなり、二人の間に生まれた子供ではアンナの心のすき間を埋めることはできずやがてセリョージャへの思慕と、ヴロンスキーへの懐疑心で破綻していくアンナがヴロンスキーは重荷になっていく。めでたしめでたしでは物語になりません。葛藤が生まれるところに物語が生まれるのですがやりきれないです。

 アンナ・ヴロンスキーとは対照的なレイヴィンとキティのカップルが描かれていたのが救いでしょうか。どこかに救いがないとなかなかにきつい。宝塚の『アンナ・カレーニナ』にはありませんでしたが、プログラムを久しぶりに読み返していてキティに振られて田舎に引っ込んでしまったレイヴィンが自室でダンベルかなんかやって体を鍛える場面があったと思います。ちょっと変わり者で一途なレイヴィン。レイヴィン役の葛山信吾さん、ドラマでしか拝見したことがなかったのでミュージカルの舞台に出ているの、びっくりでした。キティは元タカラジェンヌの遠野あすかちゃん。可愛いキティでした。キティを見舞うため部屋を訪ねたレイヴィンが、キティを励まそうとボードを使ったなぞかけみたいなことだったかな、キティとのかけあいで客席の笑いを誘う場面がありました。唯一の楽しい場面でした。
 
 ミュージカルだけどストレートプレイのような芝居色が強い舞台。一路さん、お休みを経て再演で舞台復帰された時は稽古着ってどうするんだっけっていうところからまたスタートしたとか。男役時代の一路さん素敵でした。トップになってからの全作品観劇。退団された時はすごくさみしかった。サヨナラショーをおさめたビデオ買いました。昨年12月に『オン・ユア・フィート』で拝見した一路さんも素敵でした。ほぼ同世代。一昨年の35周年記念コンサートにいくこともできたし、これからも一緒に歳を重ねていきます。こうして舞台で会えるのがほんとに嬉しいです。東京から離れてしまったので5月の明治座はなかなかきびしいかもですが、その前に当日券でコンサートに行けるといいかな。伊礼彼方さんは『レミゼ』でジャベール。帝劇に行くことはもうなさそうなので今のところ観劇予定はなく、郷里近郊の舞台情報は全くつかんでいないのですがまた拝見したいです。

「歴史上、成功を収めた悲劇はすべて、ある特定の瞬間に書かれている、と評論家のフィンタン・オトゥールは語っています。


「・・・二つの異なる価値観、二つの異なる世界観、個人の社会に対する二つの異なる関わり方、その二つが圧倒的な緊張関係に至った時だ。悲劇的な人物というのは、その二つの世界観の板挟みとなり、それゆえに正しいことが見えなくなった人間のことである。

 この引用は、オトゥールが書いたシェイクスピアに関する著書からのものですが、まさにトルストイが描くヒロインの置かれた状態を適格に描写しているのではないでしょうか。『アンナ・カレーニナ』は社会的にも、政治的にも、そして経済的にも激動の変革期を迎えた1870年代のロシアを舞台にしています。それはまさしく、農奴が解放され、産業化が始まり、蒸気機関車がヨーロッパ流の考え方と風習をロシア社会に運び込み、それまで何百年も重んじられてきた秩序、信仰、価値観に新しい風が吹き始めた時でした。

 また当時、結婚や貞節、女性は夫に従属するという観念が、一方では極めて神聖なものとして尊重されていたのに対し、もう一方では嘲笑われ、ないがしろにされていたのです。アンナ・カレーニナは情熱的で、豊かな感受性と温かい心を持つ女性です。そんな彼女が板挟みになってしまったのです。アンナ・カレーニナが究極の「悲劇のひと」であり続け、時を超え否応なしに轢きつけられ共感してしまうのは、二つの世界と二つの価値観の間の究極の緊張関係の中で生きたからにほかなりません。

 ピーター・ケロッグ(脚本・作詞)&ダン・レヴィーン(音楽)

                    (2010~11年上演パンフレットより転載)」

 ずっと振り返りたかった2013年『アンナ・カレーニナ』、たいしたことありませんがやっと書けました。一路さん主演の『シャーロック・ホームズの冒険』『ブラック・メリー・ポピンズ』の思い出し日記もいずれ書ければと思います。




駅から遠いという現実

2019年02月08日 17時44分16秒 | 日記
 極寒の金曜日、月曜日からほとんど家にこもっていたので、ハロワに行くため久しぶりの外出、久しぶりの繁華街。駅から遠く、近くに自転車で行ける範囲にカフェがようやく2件だけ、あとはやたらとドラッグストアがあるだけ。人のざわめきから遠ざかった生活。あっちもこっちもこっちもあっちも車が飛び出してくる車社会に適応できない自分がいることに気持ちが沈む。わかってはいたけど巡回バスしかない生活は不便すぎる。家を出てまた部屋を借りる以外、自分の努力ではどうすることもできない駅から徒歩30分、どんなにがんばっても25分はかかるという現実。次の居場所をみつけるにも仕事内容以前に通勤手段で心が折れる。書類を提出した2件とも面接に呼ばれた。同日。書類審査にとおったっていうことか。一時間に一本の巡回バス利用では間に合わないとわかりつつ提出した方は面接のみ、辞退せざるを得ない。駅まで自転車を利用するにしても天候が悪く自転車に乗れない時代替手段はない。一時間に一本の巡回バス利用で間に合うところは論文と面接。論文なんて書けない。あと一週間で自分の経験から考えることをまとめてみるしかない。通えますかときかれたらどうするか。普段は自転車を利用し天候が悪い時は一時間に一本の巡回バスを利用することを考えていると答えるしかない。それを逃したらアウト。そこまでは言わなくていい、それをどう受け取るかは向こうの判断なので自分に戻ってきたときにまた考えればいいとハロワの話。家で書類を読んだり作文を考えたりすると気持ちが追い詰められてくるので外でやりたい。できればパソコンの電源をとることができてネットもつながるとありがたいけどないんですよね。きつい。贅沢をいっちゃいかん。大きな家があって住む場所が確保されているんだ、弟は優しい。家賃から解放されたんだし、贅沢をいっちゃいかんよ、ほんとに。ただ不便すぎる。場所が悪すぎていつ車に轢かれるかわからないリスクと背中合わせ。わかってはいたけどきつい。慣れない自分がいることに気持ちがへこむ。ほんの2カ月半前まで苦労して家賃を払いながら利便性を享受していた日々が夢だったかのような、すごく遠いことのように思える田舎暮らし。

 帰ってきたら訪ねてみたい古本屋カフェが県内にあるのですが行き方を調べてみると公共交通機関の利用では日帰り無理っぽい。古い民家をリフォームしているから駅から近い所にあるわけはないですがバスの本数も少ないし、さらにバス停からも遠い。車で行くなら日帰り可能かな。東京に行く方が近いかもしれないぐらい遠い。かなりの気合がないと無理だとわかった時点で気持ちが折れた。田舎暮らしは気合がいる。

 自分、かつて家に暮らしていた時どうやって通勤していたのだろうと思い返してみるに細かいことは思い出せませんが雨や雪がひどくって自転車に乗れない時は父親が車で送迎してくれました。思い返せば高校時代からそうでした。土地を買う時駅から遠いと将来大変だって考えなかったの?って今さら恨み言をいっても仕方ない。こんな場所にどうしてアパート?って思いますがかつては畑だった近所にアパートが立っていて世帯向きは満室。不思議で仕方ありませんが車で生活する人にとっては便利な場所。車があれば便利で快適な田舎生活。車がないと不便このうえない田舎生活になれることができないでいる自分。気持ちを追い詰めてはいけない。次の居場所に出会うため、やれる範囲でやれることをやろう。大劇場に日帰りでいけるんや、ライブビューイングをみるため新幹線に乗る人だっているんや。十分すぎるぐらい恵まれている、贅沢をいっちゃいかんよ、自分。

 面接のために写真もとらねば。ふんばれ、自分。

 久しぶりにカフェで弱音の、つまらないひとり言でした。あとはまた観劇日記、旅日記など書きます。