たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

花組『ポーの一族』_終わってしまいました

2018年03月25日 22時14分26秒 | 宝塚
 第二希望の映画館は座席広かったけど遠かった、いつもの映画館よりもずっとせまっこいビルでおトイレも少ないのはまいった。電車が遅れて焦った。終わってしまった虚脱感から、部屋に帰らなければならないのかと思うと、明日から一週間が始まるのかと思うと、ストレスモードは一気に急上昇。Wifiの容量がもうないので仕方なく追加で申し込もうとしたらエラーメッセージでるけど意味わかんないしでいちだんとストレスモードが上昇してしまいました。いつまでも美しい世界の余韻に浸っていたいですが生身の人間ですからそんなわけにはいきませんね。みりおさん自身も全身全霊を込めたエドガーにさよならしなければならないのすごくさみしそうでした。「わたし所詮人間ですので通常よりこの長い公演スケジュールを無事に公演を終えることができてほっとしました」だったかな、最後に涙ぐみながら話されましたが、ほんとやっかいな人間どものひとりね、ひとりね、わたしたち。美しい世界のあとに生身のオッサンとかみるのけっこうつらい、男なんかいらないやんか、っていう感じでしばらくは美しくないものカンベンしてくださいみたいな心境になってしまいます。

 お正月の観劇から二カ月半、ゴンドラと舞台全体が見渡せる生の臨場感にはかないませんでしたが、アップで表情と細かいところを再確認することができたのはよかったです。この世のものならざる美しい薔薇の世界がひろがった2時間半の舞台。画面に映る全てが美しかったです。前方席だったのでほんとに幸い。老眼と乱視でコンタクト弱めているのから後方席だと悲しいかな、ほんとにみえない。エドガーはもちろん、メリーベルとアランとジェインとクリフォードの表情がよくわかってよかったです。「人間がどこから来たのか知らない、だからメリーベルがどこへ行ったのか知らない」というエドガーの言葉がやはり印象的でした。「人間ほどおそろしいものなんてない」という老ハンナの言葉も印象的でした。息の長い作品がもつ普遍的なテーマ。メリーベルがクリフォードに撃たれたあと、老ハンナが迎えにきて抱きかかえて連れて行ったのを確認。おばあちゃまが迎えにきてくれてメリーベルはどこへ旅立ったのか。老ハンナが消滅して衣装だけを残して姿が消えたのはどういう仕掛けになっているのかは大画面でもわかりませんでした。すごい演出。メリーベルはやはりとてつもなく可愛かった。ラインダンスで舞空瞳ちゃんが大きく映った瞬間があったのも嬉しかった。まあいろいろと書きたいことは尽きませんが、他にも書けていないことたくさんあるし、後日またぼちぼちと。

 専科の飛鳥裕さんが退団。かつて雪組の副組長、組長さんでした。そのあと月組組長もつとめられたのか。同期生からのお花のお渡しで日向薫さん登場。(ねっしーさんのトップスター時代、みりおさんたちはリアルタイムでご存知ないですよね、そんなことはない?)。すらりと背の高いねっしーさんは圧倒的なオーラをはなっていました。みりおさんたちが生まれる何年も前から宝塚に在籍されていた、生ける宝塚の歴史かな。飛鳥裕さん、長きにわたりほんとにすごい、お疲れ様でした。

 心が清められたような気がする2時間半、これだから宝塚はやめられません。きついストレスモードの高い仕事。これでなんとか一週間を生き長らえることができるでしょうか。友の会の二次先行抽選で宙組に当選しました。土曜日の11時から、A席。だからですね。前日はあかねさすのライブビューイングだから休もうかしら、なんてウィルス性胃腸炎で一気に休みがなくなったのでもう休めません、はあっ・・・。

 なんかエドガーがふっとそこらへんに今にもあらわれそうな錯覚にまだ陥っている日曜日の夜でした。


2008年8月‐12月『フェルメール展』_光の天才画家とデルフトの巨匠たち(3)

2018年03月25日 13時24分08秒 | 美術館めぐり
会場で購入した公式ガイドブックより

「デルフトの社会と文化

 デルフトには、17世紀初頭、82の醸造所があった。しかし、1654年、画家のヤン・ステーンがデルフトの「デ・スラング(蛇)」なる醸造所を賃借したとき、その数は3分の2にまで減少していた。ヤン・ステーンの試みはこの産業特有の投機的行為だったが、3年後に破産の憂き目にあった。中世の時代にすでにデルフトの特産となっていた毛織物は、市の指導者たちが外国の手工業者を引きつけようと努力したにもかかわらず、次第に衰えていった。レイデンでは労働カルテルが歓迎されていたのに対し、デルフトでは反対に、阻止されたのがその一因であった。1620年代、デルフトはイギリス人の布地輸入業者の流入によって一時的に利益を上げた。しかし、間もなく国際貿易の紛争が生じて彼らは追い払われ、その多くがロッテルダムに居を移した。織物産業のうち唯一繁栄をみたのは贅沢品であった。フェルメールの父、レイニール・ヤンスゾーンがデルフトで宿屋の経営に転じる前、アムステルダムでキャファ織り(薄手の絹と繻子)の職人として修業したことを思い出そう。織物産業で最大の成功を収めたのは、すべてのなかで一番贅沢な輸出品、すなわちタペストリーであった。1593年、フランソワ・スピーリングがデルフトに最初のタペストリー製作所を設立し、他の者がこれに続いた。スピーリングは、主としてバーグと宮廷に対して持っていたコネクションを通じて、タペストリーの組物を首尾よく全国会議と外国の高位高官に売ることができた。しかしタペストリーの生産は大変費用がかかり、市場も非常に限られていたので、比較的少数の地方職人しか雇わなかった。

 デルフトの贅沢品の輸出産業は、数名の熟練した金銀細工師も擁していたが、その数と収入は、より大規模な地方産業の不況を埋め合わせるほどのものではなかった。17世紀のデルフトでより大きな成長を遂げた産業は陶器であった。」

                                 まだまだ続きます。