あべまつ行脚

ひたすら美しいものに導かれ、心写りを仕舞う玉手箱

東日本大震災にこころよせて。

2011-03-19 18:10:56 | つらつら思うこと

3月を振り返ることだけをちょっと。

最初の週。
北海道の叔母親子が都内に遊びにきました。
リクエストに応えて、
三井のお雛さま。
根津の古鏡とお雛さまを見に行きました。
都内にすむ親戚女子会5人で大変楽しい一日でした。
都内観光を堪能した叔母親子は元気に帰っていきました。
北海道の叔母が案外ものをしっかり見て、
興味深くしているのを発見。うれしかったです。

7日 月曜日。
岡本太郎の内覧にお邪魔させてもらいました。
ものすごい人数で会場内に入れず、
寒い外でじ~っと待っておりました。
それでも諦めずに待って良かったと思いました。
場内はまさに岡本太郎一色で元気爆発。
TAROの塔の敏子さん役の常磐貴子さんがいらしてたとか。

鑑賞するというよりも岡本太郎を体験する、そんな感じでした。
個人的には彼の作品よりも文章の方が好きですが、
絵画の方はシュールの時代の「痛ましき腕」あたりが好きです。
辻惟雄氏著の日本美術史の表紙をコラージュした
横尾忠則さんの作品にも登場しています。
昭和戦後の熱狂と大阪万博、芸術は爆発だ!
その気迫は他の追随を寄せ付けないことでしょう。
タモリとのインタビュー映像では
全然会話が成立してなくて、可笑しかったです。
岡本太郎をリアルに感じられた一場面でした。

8日火曜日
草月を含むいけばな協会主催の花展が
上野松坂屋で開催され、
私は出展される先生達のお手伝いにあがりました。
裏方の仕事は大変ですが、
そのお手伝いに参加してきました。
段々と出来上がっていく花々の作品に参加した気持ちが
喜びにつながります。

9日水曜日
花展開催初日。
準備中の会場とは打って変わって
すっかり美しく整えられた会場には
花の香りが充満していましたし、
作家の方々の晴れ晴れしいお顔も場内の力となっていました。
草月ばかりでなく他の流派の方々の作品を
同時に見るいい機会でもありますし、
勉強にもなります。
出展された方と有楽町の国際フォーラム内のギャラリーで
漆作家さんの作品を見て、
銀座三越でお昼ご飯をすることに。
そのエレベーターがよく揺れたエレベーターで
船酔いしてるみたいね~と話したのですが、
帰宅したらその時刻に宮城で地震があったことを知りました。
それがあの大地震の前触れになるとは思いもかけず。

10日木曜日
いつものように草月のお稽古。
出展されている方の中にはお休みの方もあり
ちょっと少ないメンバー。
それでも生の花から元気をもらいます。
今回は黄色のミモザが沢山使えました。

11日金曜日。
去年から従姉妹宅でお花を勉強することになりまして、
月一度くらいのペースで通い始めています。
恥ずかしながら私が手ほどきをするはめに。
まずは使いたい花器を拝見してから
ご近所の花屋さんに行きます。
使う花器を見ておかないとどんな花がいいか
判断しにくいからです。
ゆれるコデマリと原種に近いといわれるチューリップ
を使ってガラスにエナメルの花模様が描かれている花器に
かわいらしい春風を感じ、
ほっと一息お茶タイムを叔母も交えてしていた矢先。
突然の地震でした。
叔母は建築士でしたから、耐震や免震については
習知していて震度7の実験住居も体験したとか。
そんなことを揺れている現場で言う余裕は何だろうと思いつつも、
大きな頑丈なテーブルの下で
従姉妹と頭を並べていました。
大きくガタガタ揺れる時間が途方もなく長く感じました。
収まった頃を見計らって
従姉妹は活けたばかりの花器を抱えて床におきました。
それから何度も余震がきました。
あの揺れの中、頭の中は思考停止状態。
ひたすら揺れの中にあって、静まることを願っていました。
いったい都心で何が起きたのでしょう。

その後、テレビでは地震情報一色となりました。
なんと、福島が震源であちらは大変なことになっています。
津波がみるみる街をひっくり返してずんずん進んでいきます。
信じがたい光景です。
漁船や車がまるで小さな紙くずのようにふわふわ動き回っています。
家々もあっけにとられるほど押しつぶされていっています。
意味が分かりません。

しばらくで都内の電車の情報が流れ
帰宅困難とわかり、叔母宅に泊まらせてもらうことにしました。
交通網が機能しないことのもろさを実感しました。

我が家では息子が中学にいるので、団体で避難していることと
思い、しばらく様子を見ることにしたのですが、
学校にも電話がつながらないので、
帰宅したら見るだろうと
メールで連絡事項を飛ばしました。
夫ともつながらず、電話回線と携帯メールの復活を待つしか
どうにもならないことがじれったい時間でした。

夕方、ようやく自宅の電話に息子の声がでました。
ともかくはその辺のあるものでお腹を満たしてほしいことと、
お父さんが必ず連絡してくるから待っててほしいと伝えたけれど、
本人は案外冷静で大丈夫だと安堵したものです。
同じマンションのママが電話してくれたり、
お隣さんがガスの復旧ボタンを押してくれたり、
助けてくれました。

携帯メールは使えないことがわかっても夫には何度か飛ばしてみました。
返事がこないので心配はしたのですが、
やっとお父さんから電話がきたと息子との電話でつながり
ほっとしました。
その電話は小さなラーメン屋の片隅にあった
ピンク電話で通じたとのこと。
侮れません。公衆電話の底力。

家族がどこで何をしているのか、様子が知れただけで
安心できます。

テレビはどんどん悲惨な現状をリポートします。
帰宅難民になった方々も寒さをしのいで急場の休息を取りながら
電車や車を諦めて歩き出しています。
夫も3時間かけて自宅に帰ってきました。
新宿から父娘で落ち合って7時間歩いた家族もいたし、
卒業式の帰り晴海から歩いて帰った親子もいました。
横浜から車で渋滞に巻き込まれ、浦安の自宅に着いたのが
翌朝の10時過ぎとか。

知人達の中にも大変な事態にも関わらず、
なんとか帰宅することができたことを知って
地震の凄さと人々の頑張りに感動しました。

12日土曜日。
都内の電車が動き出したニュースをみて、
午後になって叔母宅から電車を乗り継ぎ
思いのほかすんなりとやっとの思いで帰宅。
地元の駅に降り立ったとき、
目の前のパチンコやさんが煌煌と営業し、
またお客さんがいることに愕然としました。

事態の凄さに気がついていないことなんでしょう。
後日は電飾が消えましたが、それでも営業しています。

土日は家族で余震と地震速報に右往左往。
土曜日予定されていた息子の中学で開催される予定だった
合唱コンクールが翌週に延期。
夫は事態が事態だけに仕事となり出社。

都立高校の卒業式も延期されたようです。

14日月曜日。
息子は卒業式の予行演習と合唱コンクールの練習をするために
登校していきました。

15日火曜日。
合唱コンクール。
体育館で寒い中保護者達が地震の時の話で盛り上がりながらも
応援声援を送ります。
受験した進学先のことも話題になります。
息子のクラスはなんと金賞を頂き、有終の美を飾ることができました。
毎朝練習を重ねて、心あわせて頑張ってきたことが
実を結んだのだと、子供達の達成感に満ちた顔が印象的でした。
その後、保護者のママ達と近況報告会。
不安だった気持ちを共有することも安心につながります。
ママランチはこういう時にこそ!と思ったのでした。

草月のお稽古をしているセンターからお休みの連絡。
次週もわからないとか。
致し方ありません。

18日金曜日。
息子の中学の卒業式。
この3年間の起こった様々を思うと一言では
収まらないないのですが、
乳幼児、幼稚園、小学生と順調に育ってきても
中学生時代はとても危うい世代ということを知りました。
大人になる準備期間、色んなことが降り掛かってきました。
貧弱な心身に受け止めるチカラも十分ではなく
心配ばかりで悩みの種は尽きません。
それでも時が経てば何とかなるものです。
心配することは親の特権でもあります。
そうして親も子供から親としての成長するチカラを
もらっているのだと気づかされます。

めぐまれたのはクラスのお友達、担任の先生。
晴れ晴れとした顔から未来を見ている将来が光っていました。
式典の体育館を出る見送りの列に
男の子達が目をまっ赤にしたり、タオルを目に当てていたり
純朴な姿を見て、愛おしく感じました。
女子達の方が頼りがいがあるのかもしれません。
担任の先生も涙顔。情熱的な熱い先生でした。
息子が元気を取り戻せたのはこの先生のおかげです。

母親の涙は学校に行けなかった2年生の時に
こっそり流しておきました。
こんなに元気に一日もお休み無く3年生を送れた!
それだけで十分です。

その晩、息子達の仲良し組で近所のファミレスご飯をして、
その後も延々とおしゃべりが続いたようでした。
友と語らうことのうれしい時間を体ごと感じてほしいと思いました。

地震が起きてから一週間。
余震はやむこと無く地震速報もほっとする間もなく鳴ります。
それでも少しずつ減ってきました。
テレビは相変わらず、現状の惨さをリポートします。
パソコンの方がまだじっくりと見られます。
ツイッターでは様々な人々の叫びにも、悲鳴にも聞こえる
色んな声が飛び交っていて
とても平常心では追いつけません。
何もできないことへの申し訳なさもつのります。

それでも時々独り言を発信してます。

また、美術館が軒並み休館となる現実が降り掛かってきました。
変わらず開館する英断もあり、様々です。
それはそれで致し方なく、現実を受け入れるしかありません。
日々の余震やこれからの災害に対し恐怖と隣り合わせだったことを
思い知らされます。
所蔵する作品を守ることも大事なお仕事でもありますし、
お借りしている作品にはもっと責任が生まれます。
美術館、ギャラリーの判断にお任せしたいところです。
今はただ平常が戻ってくることを願うしかありません。

ドラッグストアーからはティッシュ、トイレットペーパー、お米が消え、
スーパーではパン、お米、卵が消えました。

テレビでは悲惨な状況が刻々と伝わり、
地震の他、原子力発電の惨状も伝わります。
福島原発の電気は都心部のためと聞くと
節電にも気合いが入ります。
なんと恵まれた生活をしてきたのだろうと。
今までののんきな暮らしから、
今しばらくは自粛し、
控えめに暮らすことを考え直すいい機会だと思います。

実家への足も不安材料があり、
病院通いを続けている両親達に会いにいくことを延期しました。
春休みの計画もとりやめました。
外に出る気力が充実していないからです。
当面は家族との安心できる環境のもと、
日々の暮らしを細々と進めていきたいと考えています。
小さな単位ですが、一番大事にしたい場所です。

息子が入学する高校も今月いっぱいは登校することを取りやめ、
卒業式も中止するという決断をされました。
電車通学者の多い生徒がいる学校では致し方ない判断だと思います。

日本がこの惨事において元気な光を帯びるまで、
ずっとずっと生きている人たちが元気でいなくてはなりません。

自分の経験した入院生活を思い起こせば、
一ヶ月の入浴なしもなんとかなりそう。
レントゲンやMRI、骨シンチ検査などや、
放射線治療に25日通い続けたことが
今の健康を取り戻せているのですから
放射能の増減に一喜一憂することもなくいられます。

日本がいま重篤な病人になったことを想像すれば、
きちんとした医療と支えてくれる人々の
地球上から全世界からのハートのエールがあれば、

きっと。

自分のふがいなさや、無力も恥じながら、
アートに向き合える時がくるまで、
しばしの猶予を頂きたく、ご理解をよろしくお願い致します。

 逃げ延びた ひとひらの手に 腕与えて   あべまつ

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 十二ヶ月図天 ・ 講談社野... | トップ | 生きて »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。